東京キャバレー文化の終焉


ハリウッド・グループのシンボルマーク

2018年12月30日で赤羽と北千住のハリウッドが閉店したのはご存じのとおり。銀座白いばらに続いてのハリウッド閉店で、東京のキャバレー文化はついに終焉を迎えることになった。1945年、終戦の年に進駐軍用に銀座松坂屋地下にオアシス・オヴ・ザ・ギンザが開店してから73年。最盛期にはどの飲み屋街にもシンボルのように存在していたグランドキャバレーは、これで完全消滅。他の都市を見ても、関西エリアに数店舗、生バンドなしのカラオケ営業店が生き残っているほかは、熊本八代市に一軒、キャバレー白馬があるくらい。平成の終わりになって、昭和が生んだキャバレー文化はほぼ絶滅したのである。


2010年から11年にかけて東京の東側を取材して歩き、2012年に『東京右半分』(筑摩書房刊)としてまとめられた単行本に、赤羽と北千住のハリウッドを取材した記事を掲載した。昨年逝去された昭和のキャバレー王・福富太郎さんからもお話を伺うことができたこの記事を、キャバレー文化の終焉への手向けとして無料公開させていただく。両店ともまだ営業時に取材したものだが、あえて加筆は施さないでおく。さらに、メールマガジン「ロードサイダーズ・ウィークリー」で2015年に掲載した、東京最大級のキャバレー・歌舞伎町クラブハイツの最後の夜を訪れた記録も再録するので、併せてお読みいただきたい。またひとつ、失われて初めて知る輝きを惜しみつつ。


「東京右半分」筑摩書房刊、2012年

キャバレー・ハリウッド北千住店

ロンドン、ハワイ、ハリウッド・・・これ、みんな昭和30〜40年代に最盛期を迎えた、日本のキャバレー・チェーンの名前である。思えばそれは、外国の地名がまだ、夢を誘ってくれる時代でもあった。

日本におけるキャバレー、というか欧米の「cabaret」と日本の「キャバレー」はぜんぜん別物なので、これはもう日本独自の社交遊興施設と呼んでいいと思うのだが、その源流をたどると明治時代のカフェに行き着く。しかしながら現在のようなダンスフロアと洋装のホステスという組み合わせの店舗が生まれたのは、太平洋戦争の敗戦からわずか13日目に発足したRAA=(進駐軍用)特殊慰安施設協会という、「日本婦女子の純血が性に飢えた進駐軍兵士らに損なわれ」ぬよう設立された、「性の防波堤」だった。


ハリウッド北千住店、客席

食堂部、慰安部などと並んで設けられたキャバレー部によって、その年の11月には銀座松坂屋地下に〈オアシス・オヴ・ザ・ギンザ〉なるダンスホールがオープン。相前後して開かれた新しいスタイルの店舗によって、日本人は「明るく楽しく飲んで踊る」楽しみに目覚めたのだった。

昭和6年、東京・大井町に生まれ、中学二年で敗戦を経験、のちに「キャバレー太郎」と呼ばれることになったキャバレー王・福富太郎さんが、喫茶店や中華料理屋の住み込みを経て、苦労の末に最初のハリウッドを開店したのが昭和35(1960)年3月。いま新橋駅西口のニュー新橋ビルがある場所にできた〈踊り子キャバレー 新橋ハリウッド〉がそれである。
 
今年がキャバレー人生50周年となる福富さんの波乱の人生は、すでに著書などでよく知られているが、新橋に続いて昭和38年には〈池袋ハリウッド〉をオープン。ビルの2階から5階まで4フロアを使った初の立体店舗で、敷地1,000坪、ホステス800人という大型店だった。

翌年にはいま博品館になっている銀座8丁目角にビル一棟丸ごと、1階から5階までを使った〈銀座ハリウッド〉を開店。これも延床面積1,000坪、ホステスも1,000人近い、超大型キャバレーとして大評判になった。ひと晩にお客さんが1,500人も押しかけ、並んで入れなくて大騒ぎという状態が、よくあったという。


ハリウッドのフルーツ盛り合わせ

しかしオイルショック、風営法改正、そしてディスコやスナックなど、夜遊びの業態変化に伴って、キャバレーは昭和39年のオリンピックあたりから数を減らしていった。昭和52年の時点で東京都内には700軒のキャバレーがあったというが、いまはいったいどれくらい生き残っているだろうか。最盛期には数十店舗あった福富さんのハリウッドも、いまは赤羽、北千住、池袋の3店舗しか残っていない。その3店のうち、ふたつが北区と足立区。現代のキャバレーは、やっぱり東京右半分が似合うのだろうか。

風営法でキャバレーは店舗面積が66平米以上、ダンスフロアがそのうち5分の1以上なくてはならず、明るさも厳しく定められている。いまや生バンドに合わせてホステスと踊る、というような業態の店が、この時代に大流行というのは考えにくいのだが、いま3店舗残るハリウッドも、ギンザのど真ん中で奇跡的に営業を続ける〈白いバラ〉も、覗いてみると意外なほど混み合っている。


ハリウッド北千住店エントランス

昔ながらのオヤジ天国系飲み屋横丁に、最近は若者系のお洒落店がちらほろ目立つようになって、これから雰囲気が変わっていきそうな北千住駅前。駅から歩いて1分もかからない、格好のロケーションにそびえるのがハリウッド北千住店。4階がキャバレー・ハリウッドで、5階が〈ニューマブハイ〉という名のフィリピンパブになっている。
 
ハリウッド北千住店がオープンしたのは1970年11月、大阪万博の年だ。直通エレベーター前でお客を待つ、制服姿のスタッフに料金を確認、エレベーターに乗り込んで5階で扉が開くと、「いらっしゃいませ!」の合唱とともに、エントランス脇の祭り太鼓がドドンと打ち鳴らされる。ひとり客なら1回、ふたりなら2回。これがハリウッド全店に共通の、名物ウェルカム・サービスだ。


エントランスの祭り太鼓

広々として、しかしボックスのあいだは高めの仕切りで、お客さん同士が見えにくく配慮されている席に案内されると、さっそくホステスさんがやってくる。初めてなら馴染みのホステスさんを指名するわけにもいかないから、店の人にお任せすると、こちらに合ってそうな子を選んでくれる。そのホステスさんが、平日でも5〜60人、週末ともなれば80〜90人は出勤しているというから、このご時世でたいしたものだ。年齢も20代から60代まで(!)豊富に取りそろえてるので、どんな客層にも対応可。だってお客さんは70代、80代の人もいるのだから、あんまり年のちがう子が来ても、話題も合わないし。こういうところが、キャバクラとちがって楽しいんですね。


店内を眺める

「どんなお客さんが来るの、年配の人が多いから、遊び方もゆったりしてるんでしょ?」と、隣に座ってくれた子たちに聞いてみたら、「いーえ! 男の人は60代になっても、70代になってもいっしょ、だいたい7割のお客さんは、わたしたちを口説くために来てるんですから」と意外なお答え。入店する前にちゃっかり結婚指輪を外してくるひとも少なくないらしいが、「ゴルフとかしてるひとだと、焼けてないからわかっちゃうんですよねー、すぐに」(笑)。


キャバレーだから、ちゃんとダンスフロアもあるし、生バンドも入っているし、毎日のように演歌歌手やコメディアンのショータイムもある。「でもいまは、踊りに来るお客さんもずいぶん減ったし、歌手のひとが歌ってても、あんまり真剣に聴いてくれるお客さんがいないから、かわいそうになっちゃう」そう。そんな店じゃないのに、女の子が座ろうとすると、サッと手をお尻の下に伸ばしてきたりするお客さんも珍しくないそうで、ほんとにしょうがないですねー、いくつになっても、男という動物は。








生バンドで聴く歌手のステージは格別

そんなバカ話に興じて、なぜかキャバレーにはどこもつきものの、おいしいカツサンドを頬張って(ちなみに北千住店では、ほかにイカの一夜干しとかがおすすめだそうです)、ナマの歌も聴いて、気が向いたら同じフロアにあるカラオケ・コーナーにホステスさんともども移動して歌いまくって、それでお会計のほうは、7時までに来店して制限2時間の「セブンコース」なら、おひとりさま5,250円! しかも焼酎・ウイスキーのいずれかボトル1本、またはビール2本に、お料理1品付き! キャバクラなんかで、こっちの財布しか興味ないのが見え見えのキャバ嬢の、こっちが話し合わせてご機嫌とって、それで何万円も取られるより、ぜんぜんいいでしょ!


こんなふうに取り分けてくれる


席を立つホステスさんは、「また戻ってきますからね」という印に紙ナプキンでフタをして


名物カツサンド




ノドがうずうずしてきたお客さんのためには店内にカラオケコーナーも完備

ちなみにハリウッド・グループ総帥である福富太郎さんのオフィスも、このビルの上階にあって、いまだによく、店に降りてきてはお客さんに挨拶して回ったり、飲んだりしているそう。今年70歳なのに、すばらしいエネルギーですねえ。


毎晩、店に顔を出しては気さくに挨拶して回る福富太郎さん

キャバレー・ハリウッド赤羽店

清野澄さんのヒット漫画『東京都北区赤羽』で認知度も高まり、そこかしこで話題の、しかしそれにしてはオシャレ若者がぜんぜん増えた気配のない赤羽駅東口に立つ。
 
目の前に広がるブロックまるごとのピンクゾーン。その中核にそびえたつのが健全グランド・キャバレーの雄、〈ハリウッド赤羽店〉。1967年開店だから、もう40年以上営業を続ける老舗だ。現在、池袋、北千住と3軒残るハリウッドのうちで、もっとも昭和のキャバレー空間の雰囲気を色濃く漂わせる店でもある。






これがハリウッド・スタイルの風格




ショーの出演者やダンサーをチェック




エントランスには錚々たる顔ぶれの色紙や・・


意外なひとも登場


客席配置図に広さを実感


本日のおすすめ一品料理ディスプレー

いにしえの高級ホテルのようにゆったりとしたエントランスを抜けると、ボックス席の向こうに吹き抜けのダンスフロアが広がる。専属の生バンドがダンス・ミュージックを奏でる頭上で、光吹雪をまきちらすミラーボール。広さは北千住店の3倍近くあろうか。行ったひとはわかるだろうが、歌舞伎町のクラブハイツが閉店してしまったいま、広さで言えば銀座の名店〈白いばら〉と双璧をなす、いまや東京屈指のスケールである。

北千住店と同じく、ハリウッド赤羽店も豪華な雰囲気とは対照的に、サービスはきわめて庶民的。7時までに来店、制限2時間の「セブンコース」なら、ビール2本か焼酎・ウイスキーいずれか1本に料理1品がついて、おひとりさま5780円という、ものすごくお客様フレンドリーな値段設定だ。






広々とゴージャスな店内








吹き抜けのステージも見事にドリーミー

ハリウッド赤羽店の在籍ホステス(フロアレディと呼ぶ)は150人ほど。平日でも60~70人は店に出ているそう。お店に入りたての若い子もいれば、『赤羽キャバレー物語』という自伝まで出版した、もう20年以上無休で働き、ナンバーワンを維持している伝説のホステス千尋さんのような、業界の有名人もいる。

「あたしもね、実はお店に入って4日目なんです」と言うのは、席に着いてくれた“あんず”さん。「前はOLしてたんですけど、派遣切りにあっちゃって。別の会社に入ろうと、面接を30件以上受けたんですけど、落ちつづけて・・。無職状態が3ヶ月以上になって、お金がなくなって、せっぱつまってここに面接受けに来たんです。彼氏が名古屋で遠距離恋愛中なんで、お金かかるし・・・。そしたら、その日から来ていいよって言われて。でも身分証明を持ってなかったんで、翌日から働きはじめたんです!」。




ボーイさんを呼ぶときはライターをカチリ

そう、赤羽店にかぎらずハリウッド・グループは実のところ、働き口を探す女性には素晴らしく好条件な、というよりむしろ駆け込み寺のような、男にとっては羨ましすぎる職場なのだった。

とにかく面接を受ければ、絶対に落ちない。かならず「定年まで働いて」と言われるし、日本人じゃなくてもオーケー。いつ来ても採用してくれて、いつ辞めてもよくて、いつ戻ってきても、また雇ってもらえる。6時出勤で、11時半で店は終わるから電車で帰れるし、子持ちのひとのためには託児所があって、格安の家賃で住める寮もある(10年くらい寮生活してるホステスさんもいるそう)。不況下のいま、働きたい女性にとって、こういうパラダイスって、ほかにありますか?


お客さんにも、働く側にも優しいシステムが、ハリウッド独特の居心地よさをつくっているのだろう。みのもんたが赤羽店の常連であることは有名だが、店内には総理大臣から大御所演歌歌手まで、ものすごい有名人の色紙がずらり。遊びをわかってるひとは、みんなこういうところを選ぶのかもしれない。

なぜかキャバレーの定番であるカツサンドが、ここでも名物だ。「お客さんが食べろ、食べろってすすめてくれるから、女の子たちはみんな太っちゃうんですよー。それで、いちどメニューから消えたこともあったみたいです(笑)」。




小ぶりのカツサンドを紙ナプキンで巻いて、ア〜ン!

生バンドをバックに熱唱する演歌歌手の声に聴き惚れながら、焼酎をグビグビ、ナプキンに巻いてア〜ンってしてくれるカツサンドを頬張って、懲りないオヤジ客のセクハラ話とかに爆笑して、気持ちよくなったらお会計。凍えそうな雨が降る中を、こちらの背中が見えなくなるまで、肌もあらわなドレス姿のまま、席についたホステスさんたちが見送ってくれる。


酔って遊ぶと回りが早まりそうで危険なトランポリン・コーナー


お手洗いもムーディーでした

ちなみにハリウッド赤羽店の斜め向かいには、立ち飲み屋ファンには聖地とされる〈いこい〉が、朝7時から営業中。こういう町に沈没して余生を送るってのも、いいですねえ。


クラブハイツ最後の夜


歌舞伎町クラブハイツ、フロア全景

2009年に『エスクァイア』誌のために書いた、『クラブハイツ最後の夜』。いまからちょうど6年前の出来事だけど、あれから文中にある札幌クラブハイツもすでに閉店してしまったし、「歌舞伎町ルネッサンス」は順調に進行中。コマ劇場跡はもう来月となる2015年4月に、都内最大級のシネコン〈TOHOシネマズ新宿〉と〈ホテルグレイスリー新宿〉に生まれ変わって開業予定だ。そんなもん、歌舞伎町じゃなきゃいけないのか!

クラブハイツでなじみだったホステスさんたちは、蒲田あたりのキャバレーに流れたりしていったが、もう営業電話もかかってこない。

この6年間で銀座がすっかりダメになっていったように、これから東京オリンピックまでの5年間で、歌舞伎町もすっかり去勢されていくのだろうか・・・。


2009年2月27日午後9時、歌舞伎町コマ劇場前の広場は異様な雰囲気に包まれて・・・と書きたいところだが、むしろプレイボール2時間前の野球場のように閑散としていた。黒服の新人ホストたちも、通り過ぎる女の子に食らいついていくでもなく、建物の陰でけだるげにおしゃべりしているだけ。歌舞伎町が夜のエネルギーに輝くのは、まだずっとあとなのだ。

昨年末に閉館して、無粋な板壁に囲まれているコマ劇場に隣接する新宿東宝会館。ここにも映画館や飲み屋がたくさん入っていたのだが、すでにほとんどが立ち退いている。静まりかえったエレベーター・ホールのいちばん奥の専用エレベーターだけが、この晩は満員の男たちを乗せて、もう2、3時間も忙しく上下動を繰り返していた。1973年に開店した日本最大級のグランド・キャバレー〈クラブハイツ〉がこの晩で丸35年間の歴史に幕を下ろすのだ。


ダンスフロアからステージを眺める

コマ劇場が閉館するときはずいぶんマスコミに騒がれたが、クラブハイツの前にはテレビカメラの列が並ぶこともなく、ただ寡黙な男たちがまっすぐにエレベーターに乗り込んでいくだけだ。出てきても「次、どこ行く?」と騒ぎたてるでもなく、ただひっそりと歌舞伎町の奥へと消えていく。ほんとうに大切なものがなくなるときって、こんなふうなのかもしれない。

フロア面積350坪以上、椅子の数が670席、最盛期には300人近いホステスが在籍し、閉店間際ですら150人近くが毎晩、お客さんと座って飲んで踊っていたクラブハイツ。円形の店内の中央にはチェコスロバキア製、洗うだけで80万円かかると言われた巨大なシャンデリアがきらめき、フロアにはロシア製の大理石が敷きつめられ、2セットのバンドが夜毎、30分ごとに交代してダンス・ミュージックを奏でていた。そして多いときにはひと晩で600人から入ったお客さんの名前を、ほとんど暗記していたという伝説のエレベーター係・高橋さんが、いつも1階の専用エレベーター前に控えていた。これほどのスケールのクラブは、もう日本に存在しないし、これから生まれることもないだろう。


可動式でせり出すステージ

名前からわかるように、東宝会館とコマ劇場が建っている約5,400平米の土地所有者は東宝だが、8階のフロアを借りてクラブハイツを運営してきたのは東京テアトル株式会社。昭和21年に東京興行株式会社という名前で、映画興行をメインに設立された会社である。

同年末にはテアトル銀座を開場し、昭和30年には社名を東京テアトルに変更するとともに、伝説のシネラマ映画館〈テアトル東京〉をオープンさせる。ここでは横幅20m以上!というシネラマの巨大スクリーンを生かし、『2001年宇宙の旅』、『スター・ウォーズ』、『未知との遭遇』といった超名作が上映されていた。小学生のころに連れて行かれた『2001年』や、みんなでちゃちな仮装をしてでかけた『スター・ウォーズ』初日の夜のことなど、いまでも忘れられない大切な思い出だ。


鏡がゴージャス感をさらに強調する客席

そのテアトル東京も1981年に閉館。跡地がセゾン・グループによってホテル西洋銀座という超バブリーなホテルになり、10年ほど前からは東京テアトルが土地建物を取得、経営母体となっている。東京テアトルの現在の代表取締役会長が、堤一族の堤猶二氏であることからもわかるように、セゾン・グループと関係の深い会社なのだ。

もっとも東京テアトルは、ホテル西洋のずっと前から、映画興行だけにとどまらずクラブ、飲食店経営へと事業を拡大していった。1953(昭和28)年にはテアトル初のキャバレーとなる〈渋谷クラブハイツ〉を開店。三光町(現在の歌舞伎町1丁目から新宿5丁目の一部)、池袋とどんどん店舗を増やしていき、73年に歌舞伎町のクラブハイツを開店する。一時はクラブハイツだけで30店舗近く、新宿だけでも三光町に2店舗、それとは別に〈アダムとイヴ〉というキャバレーも2店舗開いていた。そういえば新宿ツバキハウス全盛時代、同じビルにもやはりクラブハイツ系列のキャバレーが入っていて、まるで正反対の客層がビル入口で混じりあっていたのを思い出す。ちなみに札幌ススキノには1971(昭和46)年オープン、収容人数400人のグランドキャバレー、〈札幌クラブハイツ〉が現在も営業中である。(2013年閉店)


エントランスエリアの装飾

歌舞伎町のクラブハイツがオープンしたときから現在まで、36年間の歴史のうち30年以上、ほとんど一貫して店を見てきた支配人の野中辰裕さんによると、歌舞伎町店ができた1970年代前半が、キャバレー文化の全盛期だったという。ハリウッド、クインビー、ハワイ・チェーンといった“中箱店” があり、大箱では渋谷の〈エンパイヤ〉、赤坂の〈ミカド〉、〈月世界〉、〈ニュー・ラテンクォーター〉といった名店が、クラブハイツと集客を競っていた。

「いま見ると異様なサイズですけど、当時はこれぐらいが普通の大きなキャバレーだったんです」という野中さん。最盛期にはひと晩に600人からのお客さんを入れ、ホステスさんの在籍数も300人弱、店に出ているだけで230~240人からの「顔と名前を覚えるのが大変でした、それが仕事ですから覚えましたけど(笑)」。


専用エレベーター

時代はバブルに突入する前、会社の接待費もゆるかったころだから、フトコロに余裕のあるお客さんが、ヘネシーとかレミーマルタンとか、高いブランデーのボトルを注文して、「石原裕次郎じゃないですけど、ブランデーグラスを手にするのがステイタスでしたねえ」。

丸いブランデーグラスをゆらゆらさせながら、ホステスをはべらせ、鶴田浩二、梓みちよ、ジュディ・オング、前川清とクールファイブといった、超一流スターのショーを楽しむ。そんなふうに遊べたころが、クラブハイツがいちばん輝いていた時代なのだろう。

「たぶん日本の大箱店でもここだけでしょう」という、巨大な円天井に包まれるように広がる客席。いまはステージ部分(一部は可動式で全面にせり出す)を除いて壁に沿った全面が客席になっているが、開店当初はステージに向かって左側の一部がガラス張りになり、ガラスの向こうには岩が配置されて、その上を滝が流れ、時間によって雷が鳴ったり虹が出たり、小鳥のさえずりが聞こえてきたという、それは過剰なまでにゴージャスな造りだった(施工は竹中工務店)。


閉店のお知らせが貼られたエレベーター脇

そういう店で、男たちはお気に入りのホステスを“ナンバー・クラス”にしようと、競ってお金を使った(キャバレーは昔もいまも現金会計が基本だ)。女の子も、ナンバーになりたいとがんばった。「お客さんが応援してくれれば、女の子も競争になるわけです。そうすると、同じ女の子を指名しているお客さんには負けたくないと、お客さん同士の張り合いになってきて。アタッシュケースに現金詰め込んで持ってきて、相手がいくら使ったか、ケースを開けながら勝負したりしてね」と、そういう時代がバブルの前に、ここではあったのだ。


2009年2月27日、最後の夜のクラブハイツ

指名が多い子、お客さんひとりあたりの売上額が大きい子、どちらにしても売り上げが群を抜けば“ナンバー”になれるのだが、野中さんによれば、そういう売れっ子さんはとにかく一生懸命さが際立っていた。「どんな仕事でもそうだと思うんですけど、朝早く起きてお客さんに電話するわけですよ、会社とかにね。会社に行ったりもする。それでお客さんを呼んでナンバーになっていくので、こういうお店のナンバーになれれば、どこに行っても成功すると思うんです。お店辞めてから、自分でお店やっている人も多いんで。努力家じゃないと、これだけの人数の上に立てませんね。 

なかにはお酒が好きでやっているホステスさんもいるんですけど。そういう人たちは、売れっ子さんになろうと思わないで、ただお酒を飲んでお金をもらえればいいという子もいます、いろいろなタイプがいますね。女性の裏をいろんなかたちで見てきました。

働く事情もそれぞれ違いましてね。昔はお金に困ってという女の子もいたんです。それでこういうところでお金を稼いで、子供のためにとか。金遣いの悪い旦那で、それで働いているとか。だから自分ががんばらないと、お金が稼げないということで、がんばり屋のホステスさんがいたんですけど、最近は少なくなりましたね。自分が遊ぶためとか、ブランドものが買いたいからとか、簡単な理由で入ってきている女の子が多くなりました。だからあんまり努力はしないですね。ちょっと辛いことがあると辞めてしまう。そういう面ではお客さんも、おもしろくないのかもしれない。我々も教育しても、根本が違いますから。厳しくすると辞めてしまうし・・・。


バブルが弾ける前までは年中無休、閉店するのは大晦日と正月3ヶ日ぐらいだったそうだが、お客さんが少なくなるとともに日曜を閉めることにして、イベントやライブ、変わったところではプロレス興行にも場所を貸し出すようになった。お客さんの使うお金もずいぶんスケールダウンして、飲み物はビールかウィスキーか焼酎が定番になった。お気に入りの子を呼んで、飲んでおしゃべり、踊っても1万円かそこらですむ、リーズナブルな値段で遊べる店になっていた。

それでも毎晩、ベテランの生バンドがムーディなダンス・ナンバーを演奏し、「仕事が終わっても、ここに寄って、一杯飲んで踊らなくちゃうちに帰れない」と言って、ほとんど毎晩通ってくるお客さんが、何人もいた。

健康のためにここに来てるんだよ、ここで毎晩ダンスして、からだ動かしてるから丈夫でいられるんだと言ってくれるお客さん、オレのタイムカード作ってくれと言うお客さん、いろんな常連さんに恵まれてきました。

そういう皆勤賞のお達者じいさんたちを眺めながら飲むのが、僕はすごく楽しかったけれど、あの人たちはクラブハイツが閉店したら、どこへ行ったらいいんだろう。20代から50代まで、150人からのホステスさんたちは、社交ダンス用の演奏ばかりしてきたバンドの人たちは、このあとどこへ行ったらいいんだろう。


東宝会館が建つコマ劇場前広場(正式にはシネシティ広場という冴えない名前だが、その前はヤングスポットと、もっと恥ずかしい名前がついていた・・・だれも使わなかったが)は、東宝のほかに新宿TOKYU MILANOの東急レクリエーション、東亜会館の東亜興業、そしてヒューマックスパビリオンと地球会館を持つヒューマックスの4社が、広場を囲んでいる。

「歌舞伎町ルネッサンス」なる、言葉の響きからして期待の持てなそうな構想により、広場を囲む各社はそれぞれ独自に再開発を計画しているようで、東宝はコマ劇場と東宝会館跡地に、まだ噂の段階だが、オフィスやホテル、店舗からなる構想複合施設を建設する計画で、そこには劇場や映画館といった娯楽施設は盛り込まれないらしい。劇場も、映画館もない歌舞伎町・・・あんなところに高級ホテルやオフィスビルを建てて、どうしようというのだろう。六本木を森ビルが壊し、秋葉原をクロスフィールドが壊したように、今度は歌舞伎町を東宝が壊すのだろうか。ゼネコン主導の大規模再開発がもっともそぐわない街が、こうしてまたひとつ、カネのチカラで息を止められていく。


夜11時を過ぎ、バンドはすでに最後の曲を演奏し終え、楽器を片付けている。フロアにはお客さんとホステスさんがたくさんでてきて、抱きあったり、携帯電話で記念写真を取りあったりして、最後の別れを惜しんでいる。顔なじみになった何人かのホステスさんに聞いてみても、みんな「ほんの2週間ぐらい前に閉店って聞いたので、いまはこのあとどこで働けばいいのかわからない」と溜息をつくばかり。とりあえず携帯の番号を交換して、エレベーター前まで送ってもらって、もういちどハグ、ハグ。エレベーターのドアを押さえてくれている高橋さんも、直前まで病院で療養中だったのを「こういうことなら、出てこなくちゃなりませんから」と無理して来たので、明日からはまた療養生活に戻ると、疲れきった表情だ。


報道によればコマ劇場と東宝会館の開発にはビル解体に1年、建築に3年はかかると見られている。つごう4年間、歌舞伎町の中心の5,400平米が、ぽっかり空洞になるわけだ。

これが、大企業やお役所の考える “ルネッサンス”である。


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天野裕氏 写真集『わたしたちがいたところ』
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ロードサイダーズではおなじみの写真家・天野裕氏による初の電子書籍。というか印刷版を含めて初めて一般に販売される作品集です。

本書は、定価10万円(税込み11万円)というかなり高価な一冊です。そして『わたしたちがいたところ』は完成された書籍ではなく、開かれた電子書籍です。購入していただいたあと、いまも旅を続けながら写真を撮り続ける天野裕氏のもとに新作が貯まった時点で、それを「2024年度の追加作品集」のようなかたちで、ご指定のメールアドレスまで送らせていただきます。

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BED SIDE MUSIC――めくるめくお色気レコジャケ宇宙(PDFフォーマット)

稀代のレコード・コレクターでもある山口‘Gucci’佳宏氏が長年収集してきた、「お色気たっぷりのレコードジャケットに収められた和製インストルメンタル・ミュージック」という、キワモノ中のキワモノ・コレクション。

1960年代から70年代初期にかけて各レコード会社から無数にリリースされ、いつのまにか跡形もなく消えてしまった、「夜のムードを高める」ためのインスト・レコードという音楽ジャンルがあった。アルバム、シングル盤あわせて855枚! その表ジャケットはもちろん、裏ジャケ、表裏見開き(けっこうダブルジャケット仕様が多かった)、さらには歌詞・解説カードにオマケポスターまで、とにかくあるものすべてを撮影。画像数2660カットという、印刷本ではぜったいに不可能なコンプリート・アーカイブです!

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渋谷残酷劇場(PDFフォーマット)

プロのアーティストではなく、シロウトの手になる、だからこそ純粋な思いがこめられた血みどろの彫刻群。

これまでのロードサイド・ライブラリーと同じくPDF形式で全289ページ(833MB)。展覧会ではコラージュした壁画として展示した、もとの写真280点以上を高解像度で収録。もちろんコピープロテクトなし! そして同じく会場で常時上映中の日本、台湾、タイの動画3本も完全収録しています。DVD-R版については、最近ではもはや家にDVDスロットつきのパソコンがない!というかたもいらっしゃると思うので、パッケージ内には全内容をダウンロードできるQRコードも入れてます。

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TOKYO STYLE(PDFフォーマット)

書籍版では掲載できなかった別カットもほとんどすべて収録してあるので、これは我が家のフィルム収納箱そのものと言ってもいい

電子書籍版『TOKYO STYLE』の最大の特徴は「拡大」にある。キーボードで、あるいは指先でズームアップしてもらえれば、机の上のカセットテープの曲目リストや、本棚に詰め込まれた本の題名もかなりの確度で読み取ることができる。他人の生活を覗き見する楽しみが『TOKYO STYLE』の本質だとすれば、電書版の「拡大」とはその密やかな楽しみを倍加させる「覗き込み」の快感なのだ――どんなに高価で精巧な印刷でも、本のかたちではけっして得ることのできない。

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ROADSIDE LIBRARY vol.003
おんなのアルバム キャバレー・ベラミの踊り子たち(PDFフォーマット)

伝説のグランドキャバレー・ベラミ・・・そのステージを飾った踊り子、芸人たちの写真コレクション・アルバムがついに完成!

かつて日本一の石炭積み出し港だった北九州市若松で、華やかな夜を演出したグランドキャバレー・ベラミ。元従業員寮から発掘された営業用写真、およそ1400枚をすべて高解像度スキャンして掲載しました。データサイズ・約2ギガバイト! メガ・ボリュームのダウンロード版/USB版デジタル写真集です。
ベラミ30年間の歴史をたどる調査資料も完全掲載。さらに写真と共に発掘された当時の8ミリ映像が、動画ファイルとしてご覧いただけます。昭和のキャバレー世界をビジュアルで体感できる、これ以上の画像資料はどこにもないはず! マンボ、ジャズ、ボサノバ、サイケデリック・ロック・・・お好きな音楽をBGMに流しながら、たっぷりお楽しみください。

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ROADSIDE LIBRARY vol.002
LOVE HOTEL(PDFフォーマット)

――ラブホの夢は夜ひらく

新風営法などでいま絶滅の危機に瀕しつつある、遊びごころあふれるラブホテルのインテリアを探し歩き、関東・関西エリア全28軒で撮影した73室! これは「エロの昭和スタイル」だ。もはや存在しないホテル、部屋も数多く収められた貴重なデザイン遺産資料。『秘宝館』と同じく、書籍版よりも大幅にカット数を増やし、オリジナルのフィルム版をデジタル・リマスターした高解像度データで、ディテールの拡大もお楽しみください。
円形ベッド、鏡張りの壁や天井、虹色のシャギー・カーペット・・・日本人の血と吐息を桃色に染めあげる、禁断のインテリアデザイン・エレメントのほとんどすべてが、ここにある!

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ROADSIDE LIBRARY vol.001
秘宝館(PDFフォーマット)

――秘宝よ永遠に

1993年から2015年まで、20年間以上にわたって取材してきた秘宝館。北海道から九州嬉野まで11館の写真を網羅し、書籍版では未収録のカットを大幅に加えた全777ページ、オールカラーの巨大画像資料集。
すべてのカットが拡大に耐えられるよう、777ページページで全1.8ギガのメガ・サイズ電書! 通常の電子書籍よりもはるかに高解像度のデータで、気になるディテールもクローズアップ可能です。
1990年代の撮影はフィルムだったため、今回は掲載するすべてのカットをスキャンし直した「オリジナルからのデジタル・リマスター」。これより詳しい秘宝館の本は存在しません!

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捨てられないTシャツ

70枚のTシャツと、70とおりの物語。
あなたにも〈捨てられないTシャツ〉ありませんか? あるある! と思い浮かんだあなたも、あるかなあと思ったあなたにも読んでほしい。読めば誰もが心に思い当たる「なんだか捨てられないTシャツ」を70枚集めました。そのTシャツと写真に持ち主のエピソードを添えた、今一番おシャレでイケてる(?)“Tシャツ・カタログ"であるとともに、Tシャツという現代の〈戦闘服〉をめぐる“ファッション・ノンフィクション"でもある最強の1冊。 70名それぞれのTシャツにまつわるエピソードは、時に爆笑あり、涙あり、ものすんごーい共感あり……読み出したら止まらない面白さです。

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圏外編集者

編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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ROADSIDE BOOKS
書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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独居老人スタイル

あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。
たとえば20代の読者にとって、50年後の人生は想像しにくいかもしれないけれど、あるのかないのかわからない「老後」のために、いまやりたいことを我慢するほどバカらしいことはない――「年取った若者たち」から、そういうスピリットのカケラだけでも受け取ってもらえたら、なによりうれしい。

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ヒップホップの詩人たち

いちばん刺激的な音楽は路上に落ちている――。
咆哮する現代詩人の肖像。その音楽はストリートに生まれ、東京のメディアを遠く離れた場所から、先鋭的で豊かな世界を作り続けている。さあ出かけよう、日常を抜け出して、魂の叫びに耳を澄ませて――。パイオニアからアンダーグラウンド、気鋭の若手まで、ロングインタビュー&多数のリリックを収録。孤高の言葉を刻むラッパー15人のすべて。

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東京右半分

2012年、東京右傾化宣言!
この都市の、クリエイティブなパワー・バランスは、いま確実に東=右半分に移動しつつある。右曲がりの東京見聞録!
576ページ、図版点数1300点、取材箇所108ヶ所!

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東京スナック飲みある記
ママさんボトル入ります!

東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。
酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう、場末のミルキーウェイ。 東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。 チドリ足でお付き合いください!

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