[追悼・紫苑ママ]

ニューサザエの紫苑ママが6月13日に亡くなった。

新宿2丁目最古の現役老舗店でありながら、2丁目でいちばん敷居の低い店でもあり、50年以上前からずっと、ゲイバーではなく「ディスコ」を貫いてきたニューサザエのマスター/ママの紫苑(シオン)さん。これまでいったいどれほどのひとが、紫苑さんにオトナの夜を、オトナの人生を教えてもらったことだろう。

ロードサイダーズ・ウィークリーでは2013年5月22日配信号で、『永遠のニューサザエ』と題した記事を掲載した。「いついっても、そこにいてくれるひと」だった紫苑さんが、実はこんな激動の半生を送ってきたとは、お話を伺うまで想像もできなかった。

メールマガジン購読者のみなさまはいつでもバックナンバーをサイトから読んでいただけるけれど、購読していない方々にも紫苑さんの希有な人柄を偲んでいただけるよう、哀悼の意を込めて記事を公開することにした。文字数1万8000字オーバーの長編インタビュー、じっくりお読みいただきたい。

紫苑さんのいないニューサザエは、たった2日間お休みするだけで、15日から営業を再開するという。半世紀かけて紫苑さんが育んできた、あの空間、あの空気感を味わいに、また足を運んでいただけたらうれしい。

NEW SAZAE 公式Twitter:@NEWSAZAE1966


永遠のニューサザエ

TimeOut TokyoのWeb連載『東京観光案内所』で紹介した『ニューサザエ』。5月1日号の告知でお知らせしましたが、見ていただけたでしょうか。新宿2丁目最古の現役老舗店という重要スポットでありながら、マスターの紫苑(シオン)さんにお聞きした、あまりに激動の半生が、TimeOut Tokyoでは字数の関係でまったく書けなかったので、ここであらためてお送りしたいと。文字数1万8000字オーバー、じっくりお読みください!


撮影:山田薫 http://kaoruyamada.com/


いまや「ni-chome」という言葉が世界語になるほど、国内外で認知されるようになった世界屈指のゲイタウン・新宿2丁目。東西南北数ブロックのエリアに、数百のゲイバーやレズバーがひしめく不夜城である。閉店(開店ではなくて)が昼過ぎ、なんて店がざらにある、歌舞伎町と並んで日本でいちばん「眠らない街」でもある。そしてまた新宿2丁目は、ニューヨークのクリストファー・ストリート、サンフランシスコのカストロ・ストリートなど、世界に数あるゲイタウンのなかで、きわだって安全に(健全に、ではない)遊べる街でもある。

もともと江戸時代から内藤新宿と呼ばれる宿場町であり、岡場所(色街)であったこのエリアは、戦後は東京屈指の「赤線地帯」として繁栄を謳歌してきた。つまりそのころの2丁目は「男と男の街」ではなく、「女と男の街」だったのだ。戦後の東京にゲイバーが現れたのはまず銀座や新橋、それから上野、浅草といった下町エリアが先であり、そのあといまは新宿3丁目と呼ばれる、2丁目から通りを越えた新宿駅側のエリアに数軒のゲイバーが開店。それが2丁目に移っていったのは、1960年代後半からのことだ。そうして1966年に開店して、いまも変わらず営業を続ける『ニューサザエ』は、おそらく新宿2丁目最古の現役店。いわば2丁目ゲイタウンの誇る有形文化財である。

『ニューサザエ』を「ゲイバー」と呼ぶのは、実は正しくない。僕が初めて『ニューサザエ』にこわごわ足を踏み入れたのは21,2歳のころだから、70年代後半ということになるが、そのころ『ニューサザエ』は「ゲイ・ディスコ」だった。深夜、急な階段を昇って重い木のドアを開けると、薄暗い・・ではなく、すごく暗い空間に、当時としては最先端のダンス・ミュージックが大音量でかかっていて、その中でたくさんの男たちと、少数の女たちが身をくねらせていた。


「いいえ、いまだって『うちはディスコよ!』って僕は言ってますよ」と教えてくれたのは、『ニューサザエ』のマスター「紫苑(しおん)」さん。いまの店の近くに『サザエ』という名前で1966年にオープンした店が、12年ほど経って現在の場所に移動。『ニューサザエ』という名前に変わってから、前のマスターに替わって店を切り盛りするようになった。だからもう35年間も、毎晩この店でお客さんをさばいたり、一緒に騒いだり、ケンカを諌めたりして過ごしてきたわけだ(『ニューサザエ』は年中無休!)、すごい・・・。

僕が通い出した70年代当時の2丁目には『ニューサザエ』のほかにも『MAKO』(いまも『ニューサザエ』の上階で、ふつうのバーとして営業中)、『BLACK BOX』など、いまなら「小箱クラブ」と呼ばれるだろう深夜ディスコがいくつもあって、歌舞伎町のディスコでは踊り足りない若者たち、仕事を終えたマスコミやファッション関係者、店を終えて流れてきた銀座や六本木の水商売人たちで賑わっていた。

なかでも『ニューサザエ』はいわゆる「外専」=外人が好きな日本人の男の子と、日本人が好きな外人が集まる店、という印象が強かった。それが年月とともに客層も変わっていって、紫苑さんによれば「そのころはお客さんの90%がゲイだったけど、いまは20~30%ね」と言われてびっくり。かわりにこのところぐっと増えているのが、ノンケ(ストレート)だけど女装好きという「女装子(じょそこ)」さんたち。「うちはなんでもオッケーよ、って言ってるから、ここだったら安心して遊べるんじゃないかな」と言うとおり、週末ともなればとんでもない格好の女装子さんたちが、めちゃくちゃ楽しそうに踊ったり、おしゃべりに熱中したり。


平日でも朝5時まで、週末は朝7時まで年中無休で店をやって、「あっという間でした」という紫苑さんの35年間。「店さえ開けておけば、昔のお客さんにも会えるし。だからここは仕事場っていうより、ここがあるからみんなに会えたんだし、いまも会えるって場所ですよね」という。

店の内装も70年代のころからほとんど変わっていないし、ふだんかける音楽も「いまだに70~80年代のソウル、ディスコが中心」という涙の選曲。特に混む週末はヘルプがいるけれど、平日はいま紫苑さんがひとりでカウンターに入り、お酒をつくったり、CDをかけたり、常連さんのお相手をしたり・・・「だからね、歳とか病気とか気にしてるヒマないの!」と笑っていたけれど、もし『ニューサザエ』が終わってしまったら2丁目は、そして東京はまたひとつ、かけがえのない歴史的な場所を失うことになる。


ゲイでもノンケでもOK。若くても、年取っててもOK。変態さんでも、変態じゃなくてもOK。値段だって最初が1ドリンク1000円で、あとはドリンクもフードもぜんぶ700円という超安心価格設定。2丁目でいちばん古い歴史を誇るのに、たぶん2丁目でいちばん敷居の低い店。そういう奇跡のような空間に、いちども足を踏み入れたことがないのであれば、それは君はまだ2丁目のことをなにも知らないってことだ。


ニューサザエ
新宿区新宿2-18-5 石川ビル2F
03-3354-1745
http://www010.upp.so-net.ne.jp/hmf/n_sazae/sazaetop.html

[紫苑さんとの一問一答]

都築(以下T) 今日はよろしくお願いします。僕は30年くらい前にこちら、よく来てたんですよ。あとは(同じビルの上階の)『MAKO』とか『ブラックボックス』とか、そのへんをうろうろ廻って記事を書いたのがこの業界に入るきっかけになったので、ものすごく懐かしいです。上のMAKOさんもめちゃくちゃ古いですよね。あちらは代は替わられてるんですか。


紫苑 いや、変わってないですよ。MAKOさんはこのビルができてから3階に入ってきたから、まあ35年ですね。35年前だとディスコ形式だったんですよね。いまはもうカラオケになっちゃったから、のんびりやってますよ。

T そうすると、当時の雰囲気を残しているのはここくらいですね。

 そうですねえ。いまだに僕は「うちはディスコよ!」って言ってます。

T ああ、いいですね。こちらはオープンが1966年ですよね。

 そうです、9月です。

T そうすると昭和41年。紫苑さんはそのときからこちらにいらしたんですか。

 いえいえ、僕はね、後を継いだっていう感じ。このビルになってからですね。その前はお客として通ってた。場所は同じなんです。ここがまだ木造だったころで、半地下だったんですけど。

T そうなんですか。


 そうそう、木造時代が12年ぐらいあって、最後の1~2年にお客として遊びに来てたんです。そのときここの社長というかオーナー、あとはスタッフにもかわいがってもらってたから。で、遊びに来てても、従業員が勝手にいなくなったりするから、「お手伝いお願い!」から始まったんです。

T あ、そうなんだ。それで35年と12年で、47年ということなんですね。もともとご出身はどちらなんですか。

 僕は九州、長崎です。大学がこっちだったから、そのときに出てきたんです。僕、5歳のときに両親が亡くなって、7歳からずっと親戚のところをずっと転々としてて、それからはお祖父ちゃんの国に4年間ね。僕の父がユージーンっていって、フランス人なんですよ。ハーフだったんです。

お祖父ちゃんがもともと船乗りだったから。オイルタンカーの船長やってて、世界中廻ってね。それでたまたま、大阪に船の修理で半年間入港してて、そのあいだに僕のお祖母ちゃんと会ったっていう。で、父が生まれた。でも、修復が終わると自分の国に帰るでしょ。フランスのリヨンでしたが、国に帰れば家族がいるわけじゃないですか(笑)。よく言う港に女あり、みたいな。で、お祖父ちゃんが帰っちゃったあと、僕が5歳のときに父と母が亡くなったんです。

T ああ、そうだったんですか。

 それでお祖母ちゃんに育てられたんだけど、お祖母ちゃんも亡くなっちゃったあとは親戚を転々として、最終的には施設に入っちゃったんですよ。でね、お祖父ちゃんは自分の子供が事故で死んで、孫がいるってことで探して、自分のところに連れていってくれたんだけどね。僕は施設に入っちゃってたから。でも、僕の日本の母のほうの親戚たちが言うには、そっち(フランス)の家族といっしょにいられるならいいけども、寄宿制の学校に入ったから、ある意味施設みたいなところで、言葉もわからないのに、そんな年でかわいそうだって言って、12歳のときに戻るわけです。だから合計4年くらいはフランスにいたのかな。で、中学校のときに戻ってきた。


T じゃあ、小学校高学年っていう、すごく多感なときをフランスで過ごされてたんですねえ。

 帰ってきて中学校に入っても、ちょっと浮いてましたね。頭はロン毛で巻き毛みたいな感じでしたから(笑)。自分で言うのもおかしいですけど、12歳のときからモデルもやってたしね。

T えええ!

 博多のロティーヌっていう毛皮のメーカーなんですけど、そこの専属モデルやってたから。そのころは九州っていえば博多だったし。あとはJUNっていうね、長崎のほうで。

T じゃあ子役モデルのはしりというか。


 あと僕、文章書くのがすごく好きだったんですよ。書くのが好きっていうか、自己発散なんです。自分の置かれている環境がね、両親が亡くなって親戚のところを転々としてっていう。それで最終的に引き取られた、僕の死んだ母のお姉さんの家。そこの兄弟とかに、育ててもらってるというか、そういう思いがあったから。我慢することには慣れてたけど、そういうところで文章を書いて表現することで、自己発散するっていうのかな。歌うこと、書くこと、書いて表現すること。環境が自分を育ててくれたところがありますね。

T じゃあ子供のころから文章書いたり、表現することが当たり前だったんですね。


 はい、それで15~16歳のときに高校行きながら、ひとりで生きなきゃいけないって思ったんでしょうね、長崎にNBCっていうテレビ局があるんですが、そこのラジオ部でパーソナリティやってたんです。しゃべりと歌ったりして。だからおマセだったかもしれないけど、いじめられたりはなかったですね。みんなから可愛がってもらってたし。

T ええ、それって高校生ってことですよね。

 それでね、17歳のときにアルバイトしててて、交通事故で車にはね飛ばされたんです。後から聞いたら16メートルくらい飛ばされて。

T えええ!

 で、2日目に蘇生したんです。先生が言うには、死亡診断書出てたんだよって(笑)。そのときにね、臨死体験っていうか幽体離脱したんですよ。救急車の中で上から自分のこと見ててね、自分が処置されてるところを。自分はなんでここにいるんだろうって上から見てた。はねられた痛さっていうのは、あまり感じない。ふわーって気持ちいい。で、下に自分がいるのが見えて。その後で光から真っ暗闇の中に行って、自分が落ちてるのか飛んでるのかわからないんだけど、光の中を上へ下へ。意識の中にその状況がすごく鮮明にあるんですよね。

向こうに光の玉があって、それが自分のほうに流れてくるんですよ。で、人影がいっぱい見えるの。でね、引っ張られるんだけど、意識の中にまだ来ちゃダメだよっていうのが聞こえて。で、えっ? て振り返ったら、そのときに蘇生したんだけど。

T 三途の川ってやつですねえ。




 後で考えたら、あれが三途の川だなっていう。で、それからは、ひとの意識がこう(自分に)ピーーーッと敏感に入ってくるの。

T やっぱり、そういう体験は少年を変えますよね。

 そう。ひとの思考っていうか感覚っていうか、感情を敏感に感じるし、入ってくるから。いまも「オーラ見て」とかって2丁目の方たちとか、いろんなひとから頼まれる。僕はね、ひとの人生はわからないんですよ。過去とか未来とか。でもそのひとの生活環境とか、人間関係とか、いまどういう思考で、どういう心理状況で生活してるかっていう、あなたがほんとに望んでいる生活はこれであって、こういう状況じゃないでしょって話の中で伝えると、「え、なんでわかるの?!」ってなる。いま何色になってるよって。

T いいオーラが出てるとか。そうじゃないとか。

 僕はけっこう色で言うんですけど、どの色だからとか意味はないんですよ。ただわかりやすいから、伝えるのに。いまの生活は何色、いまの精神状態は何色って。それで、みんなは自分のことがほんとに見えてるんだって思うわけ(笑)。で、「いま(の自分は)何色?」「ううん、変わんないよ」とか、人間関係の中でそういう話もするのね。写真見たりしても、そのひとのことは多少わかるから。だから女の子が「あたしの彼どう思う?」とか聞いてきてね。

T ははは。


 営業とかじゃなくて、言いたいことはっきり言うから、僕は。そういうこと積み重ねてきて。

T だけど10代でそんなだったら、まわりはまだ子供なのに、ひとりだけ大人びちゃったっていうのはありますよねえ。

 でもね、自分のなかにいまだにね、ロマンチシズムっていうか子供の面って多いんですよ。ただ、ひととの会話の中では、ひとの言葉を受け止める立場だから、あんまり子供の面っていうのは出ないと思うけど。でも、あの事故のときに死ななかったのは、なにか役目があるからだと思うのね。

T そうですよ、絶対に。

 そしたらまあ、東京に来て出会ったひとたちから「紫苑にあるのは愛だよね」って言われて。僕が歌ってた歌とか詩とか、そういうのみんなが読んで、貸してとか、彼氏に見せたいとか、友達に読ませたいとか持って行ったりしちゃう。そういうひとたちが、「紫苑にあるのは愛だよね」って言ってくれる。あっ!・・・優しい愛情、厳しい愛情、冷たい愛情、友情、家族愛、恋愛。いろんな愛情がある・・・ああ、僕はこれをみんなに伝えるために、あのとき死ななかったんだって思って、ずっとそう思って生きてきたのね。いまでもその気持ちは変わらないんですよ。


T だけど、そうやって長崎で無事に生き返ってですよ、ラジオもあり、モデルもやり、傍から見ると、かなり楽しい生活っていうふうに見えると思うんですけども。

 うん、自分でも楽しんでましたよ。

T ですよね。でも、18になってやっぱり東京に出てこようってお考えになったんですか。

 それはね、僕はほら、親兄弟いないでしょ。でね、日本で生きていくには学歴社会じゃないですか。だから大学卒業っていうのが、うん、僕にとっては大学に行くことよりも卒業っていうのがね、パスポートじゃないけど・・・

T たとえ紙一枚でもね。

 そう、それが必要と思ったの。それで大学受験して、こっちに来るってことが合格して決まったときに、民放を廻ってたテイチクレコードのひとが、NBCでだれかいいひといませんか?って。ずっと全国廻ってたみたいなんだけど、さだまさしが出た後にだれかいないかっていうから、紫苑はどうだろうってなって、番組で歌ったテープを聞いてもらったんですよ。僕は詩を書くから、それに曲をつけてもらって。詩を書いて、でメロディは頭の中にあるじゃないですか。それをテープに吹き込んで楽譜に起こして、曲にしてもらうっていう風にして。あとは、(番組を)聞いてる子たちがハガキでいろいろ文章書いたり、詩を送ってきたりするんです。それを週に2回だけ、曲をつけて歌ったり。そういうのやってたんです。


T へえー! それって時代としてはロックンロールになるのかな? GSですかね。

 GSになるのかな。ちょうどフォークソングから、ニューミュージックに変わった時代です。それで、東京に出てきて本格的に勉強しませんかってことになって。ああ、好きな音楽やりながら、それで生活もなんとかなるかもしれないって。それがあって安心感の中で(東京に)出てきたんですよ。

T 大学はどちらだったんですか。

 上智です。

T えーっ、僕も上智なんですよ!

 あははは、そうなんだ。僕はねえ、ほとんど学校行ってなかったから。歌ってたしね(笑)。テイチクっていうのが、あまり力がなかったし、演歌系だったから。それで徳間ジャパンに移ったら、そこで佐分利信っていう役者さんに知り合って。そしたら僕の亡くなった母っていうのといきさつがあったみたいで。佐分利信さんとかが若手のころに、花札賭博で追いかけられて、松竹の社長さんたちと、うちの屋根裏に逃げ込んでたってことがあるんですよ。で、そのひとたちが屋根裏に隠れてたときに、僕の母が1ヶ月間世話してたっていう。

T ええ、そうなんですか。


 それから歌には芝居ごころが必要だから、芝居を勉強しろっていうことになって。で、佐分利さんに付いて。もう最後のほう、佐分利さんの。それでお芝居もしてね。

T じゃあ学校にあまり行かなかったにしても、大学があって、歌があって、お芝居があって、めちゃくちゃ忙しかったんじゃないですか。

 一日3時間寝れればいいほうでしたね。

T アルバイトもあったでしょうし。

 義理の兄弟たちからも、その父親が病気で倒れたときに、お前は育ててもらったんだし、それだけのことはしろって言われたから。やっぱり自分も意地があるじゃない。だからあっちへの仕送りとか、僕の東京での生活費、学費も作らなきゃいけない。それでバイトも3つ4つ掛け持ちして。学校行くヒマなくて、「あれ、先輩まだいたの?」なんて言われたりしてね(笑)。

T それはいくら若くても体力続かないですよね。

 でもね、僕はそんなのが苦っていうよりも楽しくてね。一日睡眠3時間で生活してたんですよ、ほんと。そのころ、ここに遊びにき来たの。もともと長崎時代の友達が家出しちゃって、僕のこと頼ってきたんですよ。それで、いろいろあったんだけど、「じゃあ家に来れば」って僕の家に連れてきたんです。で、たまに六本木とか遊びに連れて行ってたら、「もっとおもしろいところあるよ」って、その子が僕を連れてきたのが2丁目だったっていう(笑)。


T そうだったんですか?! でも当時の2丁目っていったら、いまと全然ちがってたでしょう。

 うん、ここなんかもゲイが90%以上の店だったから。

T そうですよね。僕が最初に覚えてるのは、外国人がすごく多かったし、外国人が好きな日本人の男性も多かったですよね。

 20年前に亡くなっちゃったスタッフが外専だったから。

T あ、そうなんですか。


 そうそう。だから外国人多かったのね。いまでもアンダーグラウンドのほうでは、外国でのほうがうちの店の名前は知れてますよ。

T そうですよね。だってSAZAEっていう名前だけ覚えて、こっちに来るひとだっていますもん。遊びに連れて来られたのは、まだここが木造だったころですよね。形態としてはディスコだったんですか。

 もう鰻の寝床みたいな。でね、奥のほうにジュークボックスが置いてあったんですよ。それでお客さんが50円入れて好きな曲かけながら、空いてるスペースで勝手に踊ってるって感じだった。

T どのへんの音楽がかかってたんですか。

 ロックンロール、それも含めてソウルって感じ。

T やっぱり六本木なんかとはちがう感じだったんでしょうね。そこでどれくらい、紫苑さんはお客さんでいたんですか。

 だいたい2年ぐらいかな。でも店のスタッフとかオーナーとかが可愛がってくれて、2年もしないうちにだんだん手伝ったりしてたから。「ちょっと2週間くらい(店)空けるからお願いね」とか(笑)。


T えーっ。

 前なんかはオーナーが見つけた新しい男の子が入るとね、1時、2時くらいまではオーナーがいるんだけど、帰ったあとに嫌がらせじゃないけど、いじめたりするのね。だけど僕はそんな思いを、いちども味わったことなくて。「あんたがいると安心だわ、ちょっと飲みに行ってくる」とか、「男できたから今日は帰るわ」なんてね。

T 紫苑さんはそれまでいろんな仕事されてきたけど、水商売は初めてだったんですか。

 そうですね。

T よほど水が合ったということなんでしょうか。いくら遊びに来てても、実際にやるとなったらちがいますよねえ。

 長崎にいるころも、ほら、憬れのひととかいるじゃないですか、そういうひとが働いていたスナックっていうか、ダンスホールでバイトしてたから。そこに行くとタイムアワーじゃないけど、黒い小さいステージをゴーゴーガールのお姉ちゃんが出してくるんですよ。

T ええっ。


 そこでね、ゴーゴーガールのお姉ちゃんが踊ってるんだけど、まわりのお客も踊ってて。「お前も踊るか?」なんて言われて、一緒にステージ出してきて踊るんだけどね。

T かっこいい! モデルやってたぐらいだし!

 そっからですかね、こういうことは。やっぱりおマセだったんでしょうね。


T だってめちゃくちゃモテたでしょう?

 あははは。いや、モテるとか考えたことってなかったですよ。自分がゲイっていう認識もなかったし。隠そうっていう認識もなかった。ただ、男に対して憧れるとか、惹かれるっていう気持ちはあったけど、それがおかしいっていう気もなかったし、だからって男にベタベタすることもなかったし。変だとも思わなかったし、恥ずかしいこともなかったし。ただ、それをみんなに知られるのが怖いっていうのはあった。だから普通に振舞いながら、グループ交際の中に紛れ込んで、自分も女の子といっしょにしゃべったり遊んだりもしてたし。


T そしたら、友達に連れてこられた2丁目で、水を得た魚っていうか・・・

 新鮮でもあったし、楽しかった。その子がたまたまゲイっていうのがあったからね。連れてこられると、僕がひとりでぽつんと座ってるじゃないですか。まわりは、みんな大人だったから。

T そりゃそうですよね。

 それでその子は、いつの間にかいなくなっちゃう。いまでいうハッテン場とか行ったりして、僕はひとりで残されるんですよ。で、まわりの大人についていかなきゃっていうね。そうやって色々話したり、逆に話を聞いたりするのが刺激になったというか。

T もうひとつの学校っていう感じですよね。

 そう。そのまんま遊びが、お手伝いが、アルバイトがっていうふうになっちゃったわけ。


T そのころの2丁目は、もっと大人でしたよね。僕なんかは20代で来はじめたけど、大人のひとばっかりだったという記憶があります。背伸びしなきゃならないっていう。

 そうだよね。

T 紫苑さんはほんとうにいいときに来て、いい巡り合わせだったんですねえ。

 うん、いい場所に巡り会った。

T じゃあそれは長い35年なのか、あっという間の35年なんでしょうか。

 あっという間ですね。ほんとに。


T お店の中身っていうのは、最初は外国人が多かったりとかあったと思うんですが、だんだん変わってきたんですか。

 客層自体はほとんど変わってますね。いまはゲイが20%。

T えっ、20%!?

 うん、20~30%ね。30%もいればいいほう。2丁目自体にノンケの子が増えちゃったし。うちはストレートが80%。その区分けの中にもストレートの女装マニアとかも含めてね(笑)。ここだったら安心して遊べるっていうのがあるんじゃないのかな。「うちはなんでもオッケーよ」っていうのがあるから。で、そういうひと(女装子)たちがまたネットで書いたりして、それを読んだひとがまた来るっていう。

T 女装子のひとたちが増えてきたっていうのは、最近なんですか。

 ここ10~12年くらいかな。


T 最初は外専の店っていうイメージが大きかったのに。

 あとは、ファッションとかアパレル系のひとが多かったから。デザイナーとかね、うちの場合は。あの時代は一生とか寛斎とかもね。

T そうでしたね~。インテリアは昔と変わりましたか。

 全然変わってないです。昔と比べたら、こじゃれたくらい(笑)、これでも。昔はほら、鉄の足の椅子とか、ああいう椅子を廃品で捨ててあったのを持ってきてたから。いまはきれいになっちゃった(笑)。

T いまは何時までやってるんですか。

 平日は5時まで、週末とか祭日前は朝7時まで。


T そんなんで、お体は大丈夫なんですか。

 5年くらい前から、呼吸器系がちょっとね。医者にかかって、だいぶ治ってきてはいるんですけど。心臓とか気管に負担がかかるものですからね、雨が降ったり梅雨どきの低気圧とか、気温差があると呼吸困難になっちゃうんですよ。3回くらい、呼吸困難で救急車運ばれたことあるんだけどね。

T タバコはいいんですか・・・?

 いや、だめなんだけどね(笑)。僕、お酒飲まないから、お店にいるときとか、ひとと話すとき、タバコ吸っちゃうんですよ。医者には吸ってないって言いながら(笑)。でも「先生、俺の仕事場ワンルームだから煙吸っちゃう」って言うと、「じゃあヒマな日はきれいな空気の外にいなさい」って。いま平日ヒマだから、「お客来るまで外で待ってろってこと?」なんて言ってね(笑)。


T えー、ヒマなんてことないでしょう。

 平日は静かなんですよ。昔は、いまの週末以上に平日だって街全体が賑わってたじゃないですか。いまはね、客層は昔とは違うけど、週末だけはほんと忙しい。いまは平日ヒマだから、ひとりでやってる。

T えー、大変ですよ! じゃあ朝まで店やって、家に帰ってご飯食べて寝て、また夕方起きるっていう。

 もう、そういうサイクルに体がなってますね。苦とも思わないし、休みたいとも思わない。

T でも定休日は?

 年中無休です。

T すごい・・・クラブだって週末しかやらないっていう時代に。

 だって昔からのお客さんも多いしね。こないだ来たのにやってなかったって言うから、何時に来たのか聞いたら9時だって。「そんな早い時間やってねぇ! うちは10時すぎからだ」って(笑)。そういうのがあるからね。僕にとってもここは仕事場じゃなくて、ここがあるからみんなに会えた場所。プライベートにしてもね、ここで会っておつきあいが始まった男の子、女の子がいるじゃない。オーナーにしてもいろんな先輩方にしても、みんなが作ってきたお店だしね、なくしちゃいけないっていうか、守らなきゃっていう思いがあるから。それが自分の気持ちなの。


T お客さんにとっても、ここに来ればいつでも紫苑さんに会えるっていうのがありますよね。

 そう思ってくれたらうれしい。だから休みたいとか思ったことないし。病気もね、付き合い付き合いしながらやってるけど、薬はちゃんと飲んでるし。

T ここがなくなったら困るひとが、きっとたくさんいますよ。僕が来だしたころからニューサザエっていう名前だったと思うんですが、ずっとそうなんですか。

 いえ、地下から2階に上がってニューがついたんです。だから昔からのひとはいまでもサザエって言ってる。

T そういう昔からのひとっていうのは、いまも遊びにきているんですか。

 いますよぉ。もう60歳すぎのひとだっているし。うちでいちばん上なのは、もう70歳過ぎてる方で、おばあちゃんって言っちゃあれだけど、僕はママ、ママって呼んでて。「あなたを見てると、なんか安心するのよね」って言ってくださる。

T 平日はおひとりということですけど、音楽はどうされてるんですか。

 カウンターの中でCDかけてます。70~80年代のソウル、ディスコが中心ですね。

T いいですねえ。若くても年とってても踊れますし。

 みんなここに来れば、そういうのがかかってるって知って来てくれるから。週末になると、うちのお客さんでDJやってくれてるひとが中心になって盛り上げてくれたり。土曜日になるとそういうグループがやってくれるし、リクエストが入れば韓流とかマドンナも流したりするし。

T それじゃあ、ほんとに休むヒマないですねえ。

 だから歳とか病気とか気にしてるヒマないの(笑)! お客さんの顔見て「あ、なにかいいことあったのかな」とか、「あ、ちょっと嫌なことあったのかな」とかね。で、相手も「あー、なんか紫苑に会うと、なんでも素直に話せるんだよね」って。そうやって吐き出せるような会話に僕が持ってく。それで元気になって帰ってもらう。僕はお酒飲めないから、他の店も行こうと思わないし。カラオケとかも20年くらい行ってないから(笑)。ただね、他の店をやってるひとたちが昔ここで遊んでたりしたから、相談に来るんですよ。なにかあったときに、「紫苑聞いて!」って。こころに留めてくれてるっていうか。


T ここで遊んで育ったひとが、お店を持ってるんですからねえ。音楽もあれですけど、文章を書くのもお好きということでしたら、そのうちサザエの歴史というようなものをぜひ・・・。

 よく言われるんですよ、出版関係のひとにもね。僕の人生自体も、ここに来てたひとのこととかも、本書いてとかって。でも「まだまだ! 老後の楽しみ!」とか言ってね(笑)。

T 忘れちゃわないうちに!

 だから女の子なんかでも、(僕のことを)あんちゃんあんちゃんって呼んで遊んでたような子が、家に居候しちゃって。男ができると帰ってこないんだけど、そのうち妊娠しちゃった。で、その子どもを(紫苑さんが)籍入れて、6歳まで育てて面倒見てたりもしましたよ。

T ええ、そうだったんですか!

 それでね、去年? 一昨年だったかな。11月にふっと思い出してね。どうしてるんだろう、あの子はいま25、6だな、なんて。そしたら12月にね、ふっと、2人入ってきたの、アベックが。ん? この子の顔どっかで見たことあるって思って話してたら、その子が自分のお母さんの名前言ったのね。それで「え、おまえ、◯◯◯?」って聞いたら、「うん」って。「いったいどうしたの?」って聞いたら、結婚するからって、相手の女の子を連れて来てくれたのね。

T ええっ、すごい。

 そのとき僕ね、こんな生きかたしてても、父親の気分ってこうなんだ!って。父親の気分味わったと思ったんだけど(笑)。

T すごいですね、それ。


 その子ね、子供できちゃって9ヶ月だったから、堕ろせなかったのね。実家が足立区だったんだけど、「あんちゃん、生まれた、男の子だった」って言うから、「それで、どうするんだ?」って聞いたら、その子の家も複雑だったんだけど、お母さんが北朝鮮のひとだったのね、3回結婚してて。彼女自身は2人目の旦那さんの子だったんだけど、(その)お義父さんにね、籍に入れてくれるように頼んだんだって。でも「そうしたらね、自分の子供なのに、一生弟として接するんだよ。どうする? それでいいのか?」って聞いたの。それで彼女が返事しなかったから、「亭主にはなれないけど、父親がいない子供がどんな気持ちか、自分が味わって知ってるから、僕の籍に入れて、お前が母親として育てろ」って言ったの。

T それはなかなかできないことでしょう。

 まあね、「身内が考えてくれるのがいちばんいいからね」とは言ったんだけど。そのころ彼女は風俗で働いてたから、家にお金入れなきゃいけないからって、2週間くらいして帰ったんだけど、そしたら義理の父親っていうのが、生まれた子供を施設に入れちゃった。

T ああ・・・

 で、親に裏切られたっていうのがあって、彼女は友達といっしょに覚醒剤に手を出したんですよ。でね、初犯だから執行猶予で帰ってきたんですけど、それで僕はその子を籍に入れて6歳まで育てた。いっしょにね。男ができると帰ってこないんだけど、僕はおしめも換えたりね(笑)。


T ほんとに親として育ててらしたんですね。

 ここにも連れてきたり(笑)。カウンターのところで、ちっちゃいとき、3歳くらいだったかな、踊ったりしてたの覚えてるもの。それで、彼女もそのあと結婚したりとか色々あったんだけども、結婚してアメリカに行ったのね。彼女のお母さんが北朝鮮のひとだから、アメリカさんとの結婚に反対したのに、行っちゃって。あんた子供捨てるの? 家族捨てるの?ってね。

で、子供はそのまま施設に入れられちゃった。もともと最初の結婚は日本人としたんだけどね。子供ができたから結婚して。でもその彼(アメリカに行くことになった旦那)は、彼女が父親がちがう子供をふたりも生んでるって知らないし。で、「どうすんだ?」って聞いたの。「自分の子供をはじめて生んでくれる女だと思ってるわけだから。お前、黙ってて後でバレたら大変だぞ」って言ったの。彼女は彼女なりに悩んで、ダメになってもしょうがないって思って言ったのね、自分には子供がいるって。でも2人もいるって言えなくて、1人いるって言った(笑)。そしたら、それでもいいから一緒になろうって。それで結婚して、その子のことは旦那さんの籍に入れてくれたんだけど、その旦那っていうのがアル中だった。

T ああ・・・また・・・。

 それで、その2人のあいだの子のことは、お前は母親の自覚がないから渡さないって仙台の実家の方に連れていって。そのときに(彼女の)お祖母ちゃんが、「いつまでも紫苑さんに甘えてられないから」って(◯◯◯くんも)引き取ったんだけど、生活があるから施設に入れちゃった。だけど中学校、高校までかな、施設から僕と電話でずっとやり取りしててね。中学卒業するときも「友達といっしょに地元の高校行きたい」って、ああ、施設は高校までは行かせてくれるんだって思って。それで高校出てからはお互い、だんだん連絡しなくなったんだけど。でも、そうやってふっと思い出したときにね、12月に来てくれたもんだから。


T その男の子も、女の子を連れて挨拶に来たって、えらいですね。

 なんかね、一緒になる相手っていうのが、自分が事故で入院したときの看護士さんだって紹介されてね。結婚して埼玉の方に住むって。その奥さんからね、たまに電話かかってきたり。「どうしたの?」って聞くと、「◯◯◯が紫苑さんの声聞きたいって」とかね。だからほんとにね、こんな生きかたしてても、父親の気分を味わわせてもらってる。

T 父親と母親両方ですよね。

 ははは。まあね、いろんなことやってますよ。この店で出会って結婚した子たちとかね。子供ができて遊びにきて、「紫苑、お腹触って」とかね。生まれてここに連れてきて、「だめだめ、空気悪いから」なんて言って、外に出ていって下で抱いたり(笑)。

T そうなんですか(ちょっと涙目)。

 大きくなって小学生、中学生になってね、「お前のおしめ、このひと換えたことあるんだよ」なんて、お父さんとお母さんが言ってね。そういう意味で言ったら、僕には子供が何人いて孫が何人いるんだって話になるから(笑)。だからほんとに、ここがあったからそうやって、みんなとつながってるんですよ、僕。さっきの女の子にしても、警察沙汰とかもいろいろあったけど。最初は(警察も)僕がゲイだってわからないから。それで僕がゲイだって言うとね、「えっ、なんでそこまでして・・・」って言われるの。「なんでお前は女のために、そこまでしてやるんだ」って。だから「それは下心がないからだ」って言ってやる。僕は、おかしいことに対して、食ってかかるタイプだから。「僕、ゲイだから」って素直に言える生き方してきてると思ってるし、「下心がないからだ」って言えるしね。

T それは素晴らしい決め台詞ですねえ。警察側は納得するんですか。

 そう。で、調書とったり、彼女と出会ってからのこととか色々聞かれるじゃない。それで身元引き受け人になってくれって言われて、「腐れ縁ですから、いいですよ。でも、僕のセクシュアリティに対してなにか言われるんだったら、こっちもなに言うかわからないよ」って。「でも、あなたのひととなりをわかってもらうのがいちばんいいから」って裁判官にも会って。スジが通らないことに対して、けっこう頑固なんですよ、はははは。


T だって、ずっとそういうふうに生きてこられたわけですから。

 ひとに対してなにが正しいか、それしか考えてないから。自分がよければっていうのは、あんまりないのね。

T そういう紫苑さんの性格に、この街が合ってたっていうのもあるんですかね。

 どうだろうね。他のお付き合いっていうのが僕の場合はあんまりないから。でも、他で遊んでたひとたちがここに来て言うのが、もう50代とか60代とかいろいろだけど、「お前のこと悪く言うやつはいない」って言うわけよ。それは幸せなこと。

T ほんとですねえ。外で嫌なこと言われてるっていうのが、いちばん嫌ですもん。それにしても、そうとういろんなひとが来てますしね、ここには。

 VIPもいれば、親がVIPっていうひともいるし、芸能人もいるし、親が芸能人っていうのもいるし。

T 大暴れしちゃうひともいましたよね。

 消化器振り回したりして(笑)。だれかが警察呼んでも、暴れてパトカーに乗せられないってなって。僕が行って怒ると「チンチン先生、チンチン先生」って言うんですよ、警察が僕のこと。

T なんですか、それは!

 僕がほら、ゲイだって知ってるから。で、外人なんかでも女の取り合いで喧嘩したりとかあるんですよ。お酒入ってるから暴れて。で、女の子が怖がって警察呼ぶんですけど、そいつが暴れててパトカーに乗らない。そうすると「ついてきてくれ」って頼まれて、四谷署まで行ってね。

T ええっ。


 で、事情聴取されてるあいだに暴れるからって、僕がそばにいて。暴れると僕が怒って。そうすると「ハイ、ハイ」ってね(笑)。それで父親に電話したら、それが南アフリカ(の大使館)で警察顧問やってるなんていって、名刺見せられるとおまわりの態度が、ほら外交官とかになると態度がコロッと変わって。で、そういうのを見ると、今度は僕がおまわりに食ってかかって(笑)。でも、そのお父さんからは「いや~、うちの子が迷惑をおかけしました。なにかあったときには言ってください」なんて名刺もらって。僕はそういう特権とか肩書きとか、関係ないから。

T そうですよねえ、そういうふうには生きてこなかったし。いまは、昔ほど泥酔して暴れてとか、そんなのは少ないですか。

 いまはほんとに健全ですよ。あのころはほら、ドラッグとかも氾濫してた時代じゃないですか。いまだにそういう昔の話するひともいるけど、「お前、いつの話してるんだ?」って僕、言っちゃう。そういう意味でも、いまに健全になってると思う。背伸びしてるようなひともいないし。

でもいまは、自分で遊べないひとが多いね。興味本位で遊びに来て、見てて楽しそうにしてるけど、うちなんかは踊るスタイルじゃないですか、それでも自分からは踊らない。かかってる曲なんかもCMで使われてたりするから、聞いたことはあるけど、自分から踊らないのね。うちは年が上のお客さんも多いし、みんな踊るし、みんな優しいからね。そういうひとたちがきっかけを作ってあげると、やっと踊るっていう感じ。だから自分だけでは遊べないっていうのが多いの、いまの子たちって。

T そうなんだ、それは昔とすごくちがいますね。なんだろう、度胸がないっていうのかな。さっきは女装子さんが増えてるって言ってましたが、若い女の子たちも増えてるんですか。


 うちはね、2階に移ってからは女の子も入れるのね。それまではゲイだけ。最初はモデルとかデザイナーとかね、外人のね。知り合いだけは入れてたんだけど、そうすると「なんであたしたちはダメで、あの子たちは入れるの?」ってなるから、もうめんどくさくて(笑)。もうみんなウェルカム。だから昔、ゲイだけでやってたときと比べたら、女の子は増えてますよ。

T どこの店もいま、若い男の子より女の子のほうが元気だって言いますけど。

 それは僕もそう思う。男が頼りなくなってるから。お酒もそんなに飲めないし、夜も遅くまで遊べない。ナンパもそう。ナンパのスタイルが違う。

T そうなんだ!

 「俺はお前のこと気に入った!」じゃないのよ。「俺のこと好きになってくれよ~」なの。

T ええー、下から目線(笑)。

 「俺のこと気に入ってくれよ~」って気持ちで、お金使いながら。


T それは見てて歯がゆいでしょう。

 うん。もう、内向きなんだよね。なんだよお前らって思っちゃう。女装しててもストレートだから、女装しながら女の子ナンパしてるひともいるわけじゃない? そうすると、女の子は女装してるからゲイだと思うわけで。

T それはある意味、イイ手かもしれない(笑)。

 お客だから言えないけど、内心ね、男だったら男で勝負しろ!って思うわけ(笑)。で、女の子が心配して聞いてくると、あのひとはこうでこうだからって教えるけど。こっちからは言えないじゃないですか。だからね、こうやって遊んだらいいって、遊び方はレクチャーするんだけどね。

まあ、男の子が頼りなくなっちゃってるからね、女の子のほうが「あたしがしっかりしなきゃ」っていうんで、強くなっちゃってる。受け身になってるよ、男の子は。何人かいるとしたら俺を選んでくれ、みたいになってる。それで選んでもらえたら、逃がしちゃいけないっていうんで、優しく気遣ってね。ほんとに、俺についてこいとか、お前が気に入った! とか、そういう勢いじゃないものね。

T そうですか・・・。

 そうそう。それで、2丁目自体も女の子が増えてるじゃないですか。そうすると今度は、それ目当てで男の子も増えてくるから。だからいま、営業のために男も女もオッケーっていう店が増えてきてるでしょう。女の子がいるから男の子も増える。だからノンケの子が増えてきてる。昔は、この街では自分たちは対象外だから安心して遊べるっていうので、女の子も来てたわけなんだけど。

T そうか・・・それこそ2丁目の歴史の証言ですねえ。ぜひ、一代記としてまとめてください。昔ここに通ってたひとも、お世話になったひとも、ぜったい懐かしく思いますよ。


 僕はパソコンほとんど使えないから、そういうの全然やらないんだけど、お客さんが勝手にやってくれてるからね。やっぱり世界とつながってるから、そういうのを見てくれてね。ヤクザに追われてドイツに逃げたっていう、昔うちに来てた男といっしょになった女の子がね、そういうサイトを見て「あ、紫苑、まだがんばってるんだ」ってね。グアムで事業やってるひとも「紫苑、遊びにおいで」とか言ってくれる。『アド街ック』とか出るとね、「まだがんばってるんだ」って思ってくれるひとが多いしね。九州でまだ放映されてないときに出たんだけど、「いまはこっちでも流れてます」なんて言われて。「やべ、俺、まだ育ててもらった義理の家にカミングアウトしてないから、バレたらどうしよう」なんて(笑)。で、それ見た博多のひとが、僕のファンになっちゃったからって、ゴールデンウィークにわざわざ会いに来てくれたり。

T 素敵ですねえ。

 あとはね、20何年も前からそうだけど、学祭に呼ばれて講演やったり。「週末の格好でお願い!」とか言われてね。講演やったり、ミス明学とかそういうの選ぶ審査員やったり。紫苑賞とかいって、男の子選んだりね(笑)。だから大学生とかともね、割とつながりあるんです。年とかそういう意識が、あんまりないから。同じものを見て、同じ方向を向いて話すっていうか、年齢を意識しないっていうか。

T それは最高でしょう。

 僕ね、慣れると口が悪いんですよ。てめぇ、おめぇとか言っちゃうから。それで合コンとかしててね、「遅くなったから、紫苑泊めて」なんて言ってきて、「てめぇ、ホテルじゃねえんだからな」なんて言って。僕が仕事で遅いでしょ、帰ると5~6人でドーナツみたいになって寝ててね。

T でも泊めてあげる、優しいから。そうやって紫苑チルドレンとでもいうか、孫かもしれないですけど、増えて行くんですね。大同窓会とか、開いてほしい!

 あははは。


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BOOKS

ROADSIDE LIBRARY
天野裕氏 写真集『わたしたちがいたところ』
(PDFフォーマット)

ロードサイダーズではおなじみの写真家・天野裕氏による初の電子書籍。というか印刷版を含めて初めて一般に販売される作品集です。

本書は、定価10万円(税込み11万円)というかなり高価な一冊です。そして『わたしたちがいたところ』は完成された書籍ではなく、開かれた電子書籍です。購入していただいたあと、いまも旅を続けながら写真を撮り続ける天野裕氏のもとに新作が貯まった時点で、それを「2024年度の追加作品集」のようなかたちで、ご指定のメールアドレスまで送らせていただきます。

旅するごとに、だれかと出会いシャッターを押すごとに、読者のみなさんと一緒に拡がりつづける時間と空間の痕跡、残香、傷痕……そんなふうに『わたしたちがいたところ』とお付き合いいただけたらと願っています。

特設販売サイトへ


ROADSIDE LIBRARY vol.006
BED SIDE MUSIC――めくるめくお色気レコジャケ宇宙(PDFフォーマット)

稀代のレコード・コレクターでもある山口‘Gucci’佳宏氏が長年収集してきた、「お色気たっぷりのレコードジャケットに収められた和製インストルメンタル・ミュージック」という、キワモノ中のキワモノ・コレクション。

1960年代から70年代初期にかけて各レコード会社から無数にリリースされ、いつのまにか跡形もなく消えてしまった、「夜のムードを高める」ためのインスト・レコードという音楽ジャンルがあった。アルバム、シングル盤あわせて855枚! その表ジャケットはもちろん、裏ジャケ、表裏見開き(けっこうダブルジャケット仕様が多かった)、さらには歌詞・解説カードにオマケポスターまで、とにかくあるものすべてを撮影。画像数2660カットという、印刷本ではぜったいに不可能なコンプリート・アーカイブです!

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ROADSIDE LIBRARY vol.005
渋谷残酷劇場(PDFフォーマット)

プロのアーティストではなく、シロウトの手になる、だからこそ純粋な思いがこめられた血みどろの彫刻群。

これまでのロードサイド・ライブラリーと同じくPDF形式で全289ページ(833MB)。展覧会ではコラージュした壁画として展示した、もとの写真280点以上を高解像度で収録。もちろんコピープロテクトなし! そして同じく会場で常時上映中の日本、台湾、タイの動画3本も完全収録しています。DVD-R版については、最近ではもはや家にDVDスロットつきのパソコンがない!というかたもいらっしゃると思うので、パッケージ内には全内容をダウンロードできるQRコードも入れてます。

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ROADSIDE LIBRARY vol.004
TOKYO STYLE(PDFフォーマット)

書籍版では掲載できなかった別カットもほとんどすべて収録してあるので、これは我が家のフィルム収納箱そのものと言ってもいい

電子書籍版『TOKYO STYLE』の最大の特徴は「拡大」にある。キーボードで、あるいは指先でズームアップしてもらえれば、机の上のカセットテープの曲目リストや、本棚に詰め込まれた本の題名もかなりの確度で読み取ることができる。他人の生活を覗き見する楽しみが『TOKYO STYLE』の本質だとすれば、電書版の「拡大」とはその密やかな楽しみを倍加させる「覗き込み」の快感なのだ――どんなに高価で精巧な印刷でも、本のかたちではけっして得ることのできない。

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ROADSIDE LIBRARY vol.003
おんなのアルバム キャバレー・ベラミの踊り子たち(PDFフォーマット)

伝説のグランドキャバレー・ベラミ・・・そのステージを飾った踊り子、芸人たちの写真コレクション・アルバムがついに完成!

かつて日本一の石炭積み出し港だった北九州市若松で、華やかな夜を演出したグランドキャバレー・ベラミ。元従業員寮から発掘された営業用写真、およそ1400枚をすべて高解像度スキャンして掲載しました。データサイズ・約2ギガバイト! メガ・ボリュームのダウンロード版/USB版デジタル写真集です。
ベラミ30年間の歴史をたどる調査資料も完全掲載。さらに写真と共に発掘された当時の8ミリ映像が、動画ファイルとしてご覧いただけます。昭和のキャバレー世界をビジュアルで体感できる、これ以上の画像資料はどこにもないはず! マンボ、ジャズ、ボサノバ、サイケデリック・ロック・・・お好きな音楽をBGMに流しながら、たっぷりお楽しみください。

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ROADSIDE LIBRARY vol.002
LOVE HOTEL(PDFフォーマット)

――ラブホの夢は夜ひらく

新風営法などでいま絶滅の危機に瀕しつつある、遊びごころあふれるラブホテルのインテリアを探し歩き、関東・関西エリア全28軒で撮影した73室! これは「エロの昭和スタイル」だ。もはや存在しないホテル、部屋も数多く収められた貴重なデザイン遺産資料。『秘宝館』と同じく、書籍版よりも大幅にカット数を増やし、オリジナルのフィルム版をデジタル・リマスターした高解像度データで、ディテールの拡大もお楽しみください。
円形ベッド、鏡張りの壁や天井、虹色のシャギー・カーペット・・・日本人の血と吐息を桃色に染めあげる、禁断のインテリアデザイン・エレメントのほとんどすべてが、ここにある!

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ROADSIDE LIBRARY vol.001
秘宝館(PDFフォーマット)

――秘宝よ永遠に

1993年から2015年まで、20年間以上にわたって取材してきた秘宝館。北海道から九州嬉野まで11館の写真を網羅し、書籍版では未収録のカットを大幅に加えた全777ページ、オールカラーの巨大画像資料集。
すべてのカットが拡大に耐えられるよう、777ページページで全1.8ギガのメガ・サイズ電書! 通常の電子書籍よりもはるかに高解像度のデータで、気になるディテールもクローズアップ可能です。
1990年代の撮影はフィルムだったため、今回は掲載するすべてのカットをスキャンし直した「オリジナルからのデジタル・リマスター」。これより詳しい秘宝館の本は存在しません!

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捨てられないTシャツ

70枚のTシャツと、70とおりの物語。
あなたにも〈捨てられないTシャツ〉ありませんか? あるある! と思い浮かんだあなたも、あるかなあと思ったあなたにも読んでほしい。読めば誰もが心に思い当たる「なんだか捨てられないTシャツ」を70枚集めました。そのTシャツと写真に持ち主のエピソードを添えた、今一番おシャレでイケてる(?)“Tシャツ・カタログ"であるとともに、Tシャツという現代の〈戦闘服〉をめぐる“ファッション・ノンフィクション"でもある最強の1冊。 70名それぞれのTシャツにまつわるエピソードは、時に爆笑あり、涙あり、ものすんごーい共感あり……読み出したら止まらない面白さです。

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圏外編集者

編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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ROADSIDE BOOKS
書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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独居老人スタイル

あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。
たとえば20代の読者にとって、50年後の人生は想像しにくいかもしれないけれど、あるのかないのかわからない「老後」のために、いまやりたいことを我慢するほどバカらしいことはない――「年取った若者たち」から、そういうスピリットのカケラだけでも受け取ってもらえたら、なによりうれしい。

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ヒップホップの詩人たち

いちばん刺激的な音楽は路上に落ちている――。
咆哮する現代詩人の肖像。その音楽はストリートに生まれ、東京のメディアを遠く離れた場所から、先鋭的で豊かな世界を作り続けている。さあ出かけよう、日常を抜け出して、魂の叫びに耳を澄ませて――。パイオニアからアンダーグラウンド、気鋭の若手まで、ロングインタビュー&多数のリリックを収録。孤高の言葉を刻むラッパー15人のすべて。

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東京右半分

2012年、東京右傾化宣言!
この都市の、クリエイティブなパワー・バランスは、いま確実に東=右半分に移動しつつある。右曲がりの東京見聞録!
576ページ、図版点数1300点、取材箇所108ヶ所!

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東京スナック飲みある記
ママさんボトル入ります!

東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。
酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう、場末のミルキーウェイ。 東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。 チドリ足でお付き合いください!

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