追悼・オリンピックおじさん


オリンピックおじさんこと山田直稔(やまだ・なおとし)さんが3月9日、心不全で死去された。92歳、2020年の東京オリンピックまであと1年と少しというタイミングだった。ご本人もさぞ心残りだったことだろう。

どこに行っても「団長!」と呼ばれた山田さんを初めて取材させていただいたのは2004年夏、アテネ・オリンピック直前だった。それから何度かお目にかかり、インタビューは『巡礼 珍日本超老伝』(2007年、双葉社刊)に収められ、いまは『珍日本超老伝』(2011年、ちくま文庫)で読んでいただける。


インタビューをお願いしたとき、「ちょうどアテネ・オリンピックの壮行会があるから、まずはそちらにいらっしゃい」と言われて会場の九段会館に赴くと、それはオリンピック参加選手ではなく、応援に駆けつけるご自分の壮行会だったと判明、驚かされたのも懐かしい思い出だ。

団長さんの死去は世界に報じられ、国際オリンピック協会(IOC)会長(日本のJOCではなく!)からも「“Uncle Olympics(五輪おじさん)”の死は悲しい知らせだ。彼は1964年の東京からずっと全ての五輪を見てきた真のスーパーファンだった」と公式ツイッターで哀悼の意を表されたほど。

2020年に向けて欲にまみれたヤカラたちが跋扈するなかで、団長だけがいまオリンピック精神を体現する日本で唯一の純粋な生き様を貫いたのだと、いまつくづく思う。


記事を書いたのが2004年。そのあとももちろん山田さんのオリンピック応援活動は続き、2008年には北京に出陣。いちどは82歳という高齢を理由に引退を発表するが、のちに撤回して2012年のロンドンにも参加。母校の富山工業高校が甲子園に出場することになって急遽帰国、そちらの応援に駆けつけ、さらに2016年のリオデジャネイロ大会でもいつもの元気な応援姿を披露した。

4月16日にはお別れの会が開かれるが、団長さんは天国でもあの金色のシルクハットをかぶって、来年の東京オリンピックを応援してくれることだろう。


哀悼の意を込めて、ひとりでも多くの方に読んでいただけるよう、記事を公開させていただく。団長、お疲れさまでした!

故 山田直稔 国際オリンピック応援団長 お別れの会

日時 2019年4月16日(火)14時 開始
(祭壇終了20時、ご都合の良いお時間に自由にお越しください。)
場所 東京木場ホテル
住所 〒135-0042 東京都江東区木場1丁目4−3

オリンピックおじさん 公式サイト:http://www.naniwa1001.co.jp/olympic/

(以下の記事は2004年に書かれたもので、アップデートしていないことをご了承ください)


社長さんは世界の応援団長
――国際五輪応援団長 山田直稔

オリンピックといえば思い出すのが、「オリンピックおじさん」。どの競技のテレビ中継を見ても、かならず観客席で立ち上がって、羽織袴で日の丸の旗を振りまわして応援している、あのおじさんだ。いったいなんなんだろうあの人はと、だれもが疑問に思っているにちがいない。オリンピックおじさんの本名は山田直稔(なおとし)さん。1926年生まれというから今年で78歳、工業用ワイヤロープ加工販売のトップメーカー浪速商事を率い、さらにロープ事業のほかにホテル経営、不動産事業にも進出、いまもバリバリ現役の会社経営者である。


山田直稔 73年の歩み

1926年:富山県に生まれる。
1948年:福井地震の際、米軍人脈と、行動力を発揮し、材木販売で大儲けする。
1949年:全答案用紙に「私という人間は、日本の復興には絶対必要です」と書いて日本大学に合格、入学する。
1959年:ワイヤーロープを販売する浪速商事を設立。
1964年:東京五輪開催。オリンピックの応援を開始。
1966年:メキシコ五輪開催。スタジアムに帰ってきたメキシコ人マラソン選手に「メヒコメヒコランランラン」と大声援を送り、全観客のハートをつかみサイン攻めにあう。
1972年:ミュンヘン五輪開催。男子バレー準決勝日本対ブルガリア戦で、三三七拍子の音頭を取り、会場全体を味方につけ日本チームを勝利に導く。
1976年:モントリオール五輪開催。女子バレーボールの日本対ソ連戦で審判を動かす応援をし、日本チームを勝利に導く。
1980年:モスクワ五輪開催。日本不参加にもかかわらず応援に駆けつけ友好を深める。
1984年:ロサンゼルス五輪開催。マスコットのイーグルサムの帽子をかぶった応援姿が地元の新聞に載る。
1988年:ソウル五輪開催。レスリングを中心に応援。レスリングの選手が計4個の金メダルを獲得するのに貢献。
1992年:バルセロナ五輪。レスリング会場で応援中、姿を見つけた審判団から大喜びされる。
1996年:アトランタ五輪開催。野球の日本チームを中心に応援。
1998年:長野五輪の開会式について当時の長野市長に助言。
2000年:シドニー五輪開催。五輪とともにパラリンピックも応援。
2004年:アテネオリンピック開催。聖火リレーに参加。


山田さんとオリンピックの出会いは、1964年の東京五輪にさかのぼる。いまから40年前になるわけだが、そこでいっぺんにオリンピックの魅力に取り憑かれてしまった山田さんは、以来今年のアテネに至るまで10大会、長野の冬季五輪も含め、すべてに参加することになる。

1968 メキシコ
1972 ミュンヘン
1976 モントリオール
1980 モスクワ
1984 ロサンジェルス
1988 ソウル
1992 バルセロナ
1996 アトランタ
1998 長野
2000 シドニー

こうして年表にしてみるだけで気が遠くなりそうだが、山田さんはオリンピック協会の公式関係者ではないから、当然ながらすべての大会に自費で飛んでいく。その費用は1大会につき1千万円を超えるというが、それは「金を使うなら、人並みな使い方はしない。有名になってすばらしい出会いを得、なにものにもかえがたい人脈という財産をつかむ、それが金を生かして使うということ」なのだ。

なにしろあの応援スタイルである。ただ観戦に行って、観客席に座っているだけではとうていあり得ない、素晴らしい出会いがあるだろう。羽織袴を着し、国旗を振って盛大な応援パフォーマンスを展開するのは、単に目立ちたいからではない。「人並みのことをやっていたのでは、人並みの人生しか送れない。既成の枠にとらわれない積極的な行動をしてこそ、何十倍もの感動が得られる」という、山田さんの信念に基づいたアクションなのだ。


おそらく世界でも類を見ないオリンピック通であり(日本がアメリカに追随して不参加だったモスクワ大会にまで、足を運んでいるのだから)、「オリンピック会場でもっともよく知られた日本人」である山田さんのお話には、大会にまつわる興味深いエピソードが数えきれないほど登場する。著書やウェブサイトにはそのいくつかが紹介されているので、ぜひチェックしていただきたいが、山田さんのすごいのは応援がオリンピックにとどまらないところ。大相撲、プロ野球にメジャーリーグ、サッカーのワールドカップにまで、いつもの羽織袴に国旗と扇子を携えて駆けつける。しかも山田さんには「国際オリンピック応援団長」(インターナショナル・オリンピック・チアリーダー)のほかにも、大事な肩書きがある。政治家から芸能人まで多士済々な顔ぶれが集まる<笑おう会>の第3代会長(日本国笑裁)だ。

<笑おう会>は戦後の湿った世相を笑いで明るくしようと、1949(昭和24)年に第1回大会が開かれた。浅沼稲次郎代議士や俳優の早川雪洲、美容の山野愛子氏ほかの顔ぶれで、第1代笑裁が落語の金川文楽師匠。そのあとを「指圧のこころは母ごころ」の浪越徳治郎さんが引き継ぎ、山田さんが98年から3代目を務めている。年4回の<笑おう会>開催のほかに、山田さんはいま8月8日を『笑いの日』に制定しようと奮闘中。一代で創業した会社を率いて、そのほかにこれだけの活動をこなして疲れることを知らない、そのたぐいまれなエネルギーは、いったいどこから湧き出てくるものなのだろうか。


山田直稔さんが生まれたのは富山県井波町。県南西部の八乙女山麓に広がる、人口1万人あまりの小さな町である。生家は屋根屋、薄く切った材木で瓦屋根の下地や、飯場の屋根を葺く商売だった。材木を扱うことから弁当の折り箱も作っていたが、小学校に入学したころから、1メートルにも満たないからだに折り箱を何百も担がされ、毎朝登校前に料理屋に届けさせられたという。口を開けば「仕事しろ」という両親は、男5人、女2人の兄弟全員にきっちり仕事を与え、そのかわり仕事量に応じて小遣いを与え(そのまま郵便貯金にまわされたのだが)、兄弟で貯金高を競わせたのである。

幼いころから働くことの辛さと金の大切さをからだに叩き込まれた山田少年は、第2次大戦当時には学徒動員として造船所に送られるが、そこでも才覚をあらわし教官たちの信頼を得る。敗戦後は家業の材木商を手伝い、昭和23年の福井大地震に建築資材を高値で売り抜き、大きな儲けを出して親兄弟を驚かせた。そのあと大学受験に挑み日大工学部を受験するが、戦争中は学徒動員で勉強どころではなかったので、問題用紙を見てもちんぷんかんぷん。やむなく問題とは関係なく、「私という人間は、日本の復興には絶対必要です。かならず合格させてください。このような人材を入れるのは、日本のためですよ」というような意見をびっしり書き込み、面接では「入学できたら、月謝は4年間分一括で納入します」と豪語し、見事合格。「ぐずぐず考えている時間があったら、積極的に行動に移せ」の信念を、地で行ったのだった。




入学後は授業にも、また体育部長として運動にも熱中していた山田青年を、突然の災難が襲う。2年生の秋、体育祭に野球から陸上までフル出場、大活躍して下宿に帰ってきたその晩から発熱し、急性肺炎から結核に進行してしまったのだ。

当時、結核は死の病といわれ、山田さんも命は助かったものの半病人状態で学業どころではない。このまま病気が進めば命の保障はないし、それならどこか温泉にでも行って、せめて気持ちだけでも楽になってみよう、行ったことのないところへ、体力の許すかぎり足を伸ばしてみようと思い立ち、草津から青森の浅虫温泉をへて北海道に渡った。

登別温泉の男女混浴場で湯に浸かっているとき、ちょうど入ってきた30代半ばの美しい婦人と言葉を交わし、それが出張に来ていた東京のワイヤロープ会社の社長夫人だったことから、山田さんの仕事人生がスタートした。「戦後でだれもが貧しかった時代に、アルバイトで得た金を全部使って旅に出た。今日と明日のためだけに生き、あさってを考えまいとした。そのいさぎよさが、暗かった人生を明るさへと転換したのだろう。あのまま病気のからだを持て余して下宿でごろごろしていたら、いまごろは生きていなかったかもしれない」と、山田さんは当時を述懐する。これもまた、思い切りと行動力が、道を開いたのだった。






すっかり病も癒えた山田青年は、卒業と同時に登別で出会ったワイヤロープ会社社長のもとで働きはじめ、持ち前のバイタリティですぐに頭角をあらわしていく。昭和35年には念願の自社・浪速商事株式会社を設立、ついに社長となったわけである。

東京オリンピックが昭和39年、山田さんが初めて海外のオリンピック応援に出かけたメキシコ大会が昭和43年。「精神的にも物質的にもゆとりができたから」というものの、海外旅行自体がまだ大ごとだった当時に(1ドルが360円、国際線の飛行機が羽田空港から飛んでいた時代だ)、山田さんをそこまで駆り立てたものは「スポーツなしになにが人生か」というほど、スポーツを愛する情熱だった。

それがオリンピックというスポーツ界最高の舞台を前にたぎり、やむにやまれず行動に出てしまうのであって、エネルギーは応援歴40年目の今日でも、いささかも衰えていない。なにしろ本人が語るように、「私がやるのは半端な応援ではない」のだ。

「オリンピック期間中は当然仕事を休む。事前の準備にもかなりの経費と時間をかける。たとえば、それぞれのオリンピックの応援歌を作詞し、プロの作曲家に頼む。開催国の言葉で印刷するパンフレット、観衆に手渡すお土産品や小旗などの準備。これらをオリンピックごとに準備するわけだから、大変といえば大変な作業になる」(『ぶっつけ本番に勝て!』KKロングセラーズ刊より)。






そこまで自分の持てるものすべてを投じて応援に賭けることで、はじめて競技する選手と一体になることができ、高揚感で「しばしば言葉をなくすことさえある」と山田さんは語る。オリンピック中は「常日頃では考えられないほどにこころが澄んで純粋になり、会社のこと、家族のこと、金儲けのこと、そんなことはすべて忘れてしまい、国境を越えて世界の人々を限りなく大きい愛で包み込んでしまいたくなる」。ほとんど宗教的な法悦の境地に、山田さんはそのとき遊んでいるのだろう。

異国の観客席でひとり、浮きまくった衣裳に身を包み、懸命に日の丸を振って声を枯らす奇妙なオヤジ。彼を冷笑するのはたやすい。しかし80歳を目前にしてアテネへの準備に飛び回る情熱を生み出す、いわば無私の人類愛が、あの旗の一振り、声援の一声に込められているのを、僕らはまったく知らなかったのだ。


「笑顔のふれあい」
(アテネオリンピック応援歌)

作詞 山田直稔
作曲 河本忠

(1)
それぞれ言葉は 違っていても
笑顔は世界の パスポート
スポーツの祭典 ギリシャに集い
オリンピックだアテネの空に
国旗の誇りが 聖火を運ぶ
笑顔のふれあい ハートの絆

(2)
五輪の大陸 七つの海で
笑顔は世界のパスポート
競技の祭典 ギリシャに集い
オリンピックだ アテネの風に
跳べよ 走れよ メダルへゴール
笑顔のふれあい ハートの絆

(3)
喜び分け合い スクラム組んで
笑顔は世界のパスポート
感動の祭典 ギリシャに集い
オリンピックだ アテネの夢に
歌え讚えろ エールの叫び
笑顔のふれあい ハートの絆


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編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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