追悼:鬼海弘雄

2020年10月19日、鬼海弘雄さんが亡くなりました。享年75歳でした。

もちろんその作品には昔から親しんでいたけれど、ちょこちょこお会いするようになったのは『東京右半分』で浅草をうろうろするようになったころかと。

それから現在まで、会ってお話しするたびに写真に向かう姿勢に襟を正される思いと、ものすごく気さくな人柄ゆえの楽しいおしゃべりが一緒になって、僕にとってはほんとうに大切な、仕事のみならず人生の先輩でした。

鬼海さんはこれまで2回、メルマガにも登場してくれています。購読者のみなさまはもちろん、ひとりでも多くのかたに読んでいただきたく、一般公開させてもらうことにしました。

2019年のインタビュー記事『僕が鬼海弘雄になれなかったわけ』、そして2013年には浅草の伝説的な立ちんぼ「チェリーさん」を偲ぶ、多田裕美子さんと鬼海さんのダブルヘッダー。じっくりお付き合いいただけたらうれしいですし、これを機会に写真集、著作集もご覧いただけたらと願います。

都築響一
ROADSIDERS' weekly

photography 僕が鬼海弘雄になれなかったわけ


銀ヤンマのような娘 2011

都心の病院の面会室は眩しいほどの陽射しが差し込んで、あっちのテーブルではパジャマの男たちが小声で密談しているし、隣ではものすごいハーネスに頭を固定されて微動だもしないおばあさんを、家族たちが取り囲んで楽しげにおしゃべりしてる。『PERSONA 最終章 2005―2018』を出してすぐ入院した鬼海弘雄さんは、パジャマ姿がむしろ自宅の起きぬけのよう。元気よく話す姿を見ていると、この面会室がやけにシュールな空間に思えてきた。ちなみに鬼海さんは十連休の終わりに無事退院されたので、ファンのみなさまはご安心されたし。

ちょうど恵比寿の東京都写真美術館で展覧会『東京ポートレイト』が始まるタイミングで、筑摩書房のウェブマガジンで連載していた『東京右半分』のためにインタビューさせてもらったのが2011年。そのあとも立て続けに新刊が数冊出たり、展覧会があったりと活発に活動してきた鬼海さんが、この3月末に発表したのが『PERSONA 最終章 2005―2018』だ。


修学旅行生の記念品 2007

2003年に出た『PERSONA』(草思社刊、2005年に普及版)、ドイツのシュタイデルからの『Asakusa Portraits』(2008年)に続く、大判の浅草シリーズ。タイトルにあるとおりペルソナ1以降に撮影された浅草のポートレイトを収めた、そして「最終章」――つまりこれで浅草はひとまずおしまい、という記念碑的な作品集である。本体価格1万円と値段も堂々たるものだが、手に取って美しい印刷を見ていただけたら、それがけっして無謀な値付けでないことがわかるはず。鬼海さんの数ある写真集の中でもペルソナ・シリーズは特に印刷に凝ったというか、緻密な作業の上に成り立っている。15年間のあいだの印刷技術の進歩や、各出版社の取り組みのありようで3冊に生まれる微妙な差異も、ファンなら見比べてみたいところだろう。


印刷を担当した東京印書館のプリンティング・ディレクターと鬼海さんの共同作業で進む「渾身の印刷シーン」動画! 印刷所がこんな動画をYouTubeに上げる写真集って、あるだろうか

長い活動歴のなかで鬼海さんは「浅草のひとびと」「東京の風景」、それに放浪を繰り返したインドやトルコのスナップ、この3種類をモノクロで丁寧に撮影することしかほとんどやってこなかった。なかでも浅草(というより浅草寺境内)で出会ったひとに、お寺のシンプルな壁の前に立ってもらうシリーズは、デビュー作の『王たちの肖像:浅草寺境内』(矢立出版、1987年)以来、もう30年以上も続けてきたことになる。鬼海さんの作品でもっともよく知られているのも、この浅草シリーズだろう。

鬼海さんと出会って知ったのは、まず浅草に住んでいるのではなく、写真を撮りたくなるたびに電車で通っていること。夜まで浅草にいて、地元民しか知らない渋い店で飲むとかはぜんぜんせず、「お腹が空いたら吉野屋」だし、夜はさっさと帰ってしまうこと。おもしろいけど「引っ越したいとは思ったことない」という衝撃の事実だった。

僕にとってポートレイトを撮るというのは、出会いを通じてそのひとのことを知ること、そのひとの暮らし、その人の暮らす街をもっと知ることの入口にほかならない。人間の数だけ異なるパーソナリティがあるのだから、ヒトという生物の多様性の森に分け入っていきたくて僕は取材を続けているのだけれど、鬼海さんはどうやらそうじゃないと、会ってお話ししているうちにわかってきた。奇人変人やイイ顔コレクションをしたくて、30年以上も浅草に通ってきたわけじゃなかったのだ。


浅草芸人プッチャリンさん 2012

愛用のハッセルブラッドを抱えて一日中浅草寺の境内にいても、撮るのはひとりか、せいぜいふたり。それは「特選のイイ顔」を吟味しているのではなくて、行き交うひとたちの中に、なにか別のものを探しているからだ。「ひとりひとりを撮ってるんじゃなくて、人間を撮ってるんだよ」と教えてくれたことがあったが、これまで数千どころか数万人の行き交うひとびとを目にしながら、そこで数百人の浅草ポートレイトを撮りながら、鬼海さんはその根っこにあるひとつの「人間」というカタマリを見ていたのだった。

ご存じのように、ほんの10年かそこら前まで寂れきっていた浅草は、いま東京屈指の観光スポットになった。インバウンド観光客が押し合いへし合い、人力車が走り回り、どうってことない喫茶店に長蛇の列ができて、ピカピカのホテルや高層マンションが次から次へと出現して、大変なことになっている。

『東京右半分』でお会いしたときから、浅草は「ずいぶんつまんなくなった」と言っていたが、今回は写真集のタイトルが『最終章』である。浅草はもう撮らないんですか?と聞いたら、「だってもう、ひとがいないもん」と。観光客はもちろんいる。でも、眼の奥に「人間」の重みをきらめかせた顔に、鬼海さんはもうこの場所で出会えなくなったのだ。

その感覚は僕にもよくわかる。10代のころ、週末のオールナイトを観に来た時代の浅草はほんとうに不気味だったし、臭かったし、汚かった。「最後に行き着く場所」という感覚が強くあって、それが歳を重ねるにしたがって少しずつ肌にじんわりなじむようになってきた。

その浅草は、いま「通り過ぎる場所」になってしまった。買い物して、有名店でお茶飲んで、インスタ撮って帰る場所に。だから鬼海さんが浅草と付き合ってきた30数年は、徐々に薄れゆく「人間」の影を追いながら、同時に浅草という年老いた生きものをカメラで看取る旅だったのかもしれないと思う。

そして僕らの時代の「最後に行き着く場所」は、どこにあるのだろう。

新作が発表された機会に、鬼海さんの活動歴をもういちどまとめて書こうと思ったけれど、いま読み直してみたら『東京右半分』のときに、すでに鬼海さんは大事なことをぜんぶ話してくれていた。2011年のweb記事はもう削除されているし、『東京右半分』を持っていないひとも多いと思うので、ここにそのインタビューを再録しておく。これまで本メルマガでは『追悼・浅草のチェリーさん』(2013年1月16日号)、『山と熊と田の物語――亀山亮「YAMAKUMATA」』(2018年2月14日号)でも鬼海さんの写真や文章を掲載させていただいているので、あわせてお読みいただけたらうれしい。


いつもの場所で、鬼海さんに被写体になってもらいました


浅草の千の眼:鬼海弘雄のポートレイト

鬼海弘雄は浅草のオフィシャル・フォトグラファーだ。渡辺克己が新宿のオフィシャル・フォトグラファーであったように。

1945(昭和20)年、山形県寒河江市に生まれた鬼海弘雄は1973(昭和48)年から、もう38年間も浅草を撮ってきた。1941(昭和16)年、岩手県盛岡市に生まれた同じ東北人の渡辺克己が、新宿を題材にした作品を初めて発表したのも1973年。ふたりともモノクロームのポートレイトにこだわりつづけ、ふたりとも青年時代のインドへの旅が、写真家として自立するための契機となり・・・・・・そして渡辺克己は2006(平成18)年に亡くなり、鬼海弘雄はまだ浅草を撮り続けている。

新宿と浅草という、東京のふたつの極を同時代に歩いた、東北生まれのふたりの写真家。でもふたりの共通点の多さと同じくらい、写真集から立ち現れるふたりの眼差しの違いもまた大きい。「風俗」にこだわりつつ、そこから透けてくる人間性をつかもうとした渡辺克己と、「風俗」を超えて存在する人間性をまっすぐにつかもうとする鬼海弘雄。それはもしかしたら、そのまま新宿と浅草という土地の違いでもあるのだろうか。


「朝のお告げ」で一日が決まると話す婦人 2008

終戦の年に山形県寒河江市に生まれた鬼海弘雄。蕎麦と温泉で名高い、のどかな農村地帯に育ち、高校卒業後は山形県職員になるが、1年で辞職。東京に出て、職工、運転手、マグロ漁船乗組員など転々と職を変えながら写真の道を目指し、1987(昭和62)年に初写真集『王たちの肖像:浅草寺境内』を出版する。

――鬼海さんはもともと、写真家志望じゃなかったんですよね。大学も哲学科でしたっけ。

そうですよ、ぜんぜん写真家志望じゃないし、映像にも特別興味はなかったし。もともと県庁に勤めてたでしょ。一般職だったから、仕事の先が見えるというか、この線路がどこに届くかってわかっていたから。まあ、生意気盛りだったんで、東京に出てみたい、大学に行って4年間の執行猶予をもらいたいというのがあって。当時、三橋美智也も春日八郎も、東京なんかよくない、来るんじゃないよって歌ってたけど、それがおいでおいでって聞こえて(笑)。東京なら恋愛もできるぞってね。

――当時は学生運動の最盛期ですよね。

そう、みんな学生運動に走っていくわけですよ。何回か誘われたけど、そんなハードなことは私にはできないと思った。でも、あまり勉強したいとも思わないし、とにかく4年間のアリバイづくりというか、なにか自分が燃焼できるものがないかと思ったときに、映画に出会ったんです。そのきっかけというのが、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』と、今村昌平の『にっぽん昆虫記』で。とにかく度肝を抜かれて、それから飯田橋の佳作座っていう映画館で映画を見るようになって。ほかにも岩波の小ホールとかフィルムセンターとか、ひとりでずーっと通って、年間300本くらいは見てましたね。まあ、哲学科に入ったのも、なんにもしなくていいっていう学科だったからですが(笑)、そこで私を教えてくれた瀬川行有(せがわ・ゆきあり)先生が、実は映画評論家の福田定良だったんですよね、入ったときは知らなかったんだけど。

――そこまで好きだったら、卒業後は映画制作に行くとか、評論家になるとか、そういうのは考えなかったんですか。

考えた。映像にはものすごく興味があったし。でももう、五社は全然だめだったし、それで岩波映画を見たんですが、これはたまんない、専門職だって思って(笑)。でもね、映像って金がかかるし、仲間がいる。私は仲間とはやってられないから(笑)。

もともと小さいころから、川に行って魚捕まえたり、ひとりで遊んでるのが好きだったんです。で、とにかく映画を作るのはちょっと無理だと。自分にその能力があるとも思ってなかったし。それで、なにしていいかずっとわからなくて、トラックの運転手とか、職工なんかをしてたんですよ。マグロ船とか。でも、それはなろうと思って、決めて乗ったんではないのよ。とりあえず喰っていかなくちゃなんないから。半年とか1年、働くでしょ。そうすると少し貯まるじゃない。それで好きな本買って来てばあっと読んでて。カネが尽きると、スポーツ新聞拾って来て求人欄を読んで、また仕事を始めると。


黒が落ち着くと話す婦人 2008

――写真を始められたのも、そのころですよね。

うん、それは古典的な表現方法だと、文学にしても絵画にしても、最初っから狭き門を通らないと、表現のスタートラインにも並べないですよ。ところが写真は、カメラという精密機械と、フィルムという化学の力を借りられるから、もしかしたら私にもできるんじゃないかと錯覚したわけです。

それで、撮るんだったらとりあえず自分の居場所、体の置き場所を変えなくちゃと思って、マグロ船乗ったわけですが、その前にダイアン・アーバスに出会ったんです。
それまで写真は、単なる一事象の通過するものしか撮れないと思っていたわけ。だれがどこに行ったとか、殺人者はこういう顔だとか。そうじゃなくて、写真には見飽きないというか、何回も繰り返して見られる力があると、ダイアン・アーバスを見て初めて思ったのね。まず、選ばれたひとじゃなくて、市井のひとを撮るということからして。

それでマグロ船を降りたときに、福田先生が口を聞いてくれて、『カメラ毎日』の山岸さん(山岸章二:黄金時代の『カメラ毎日』編集長)から本格的に写真をやってみないかって言ってもらえて。それで最初に撮ったマグロ船で、7ページもらったんですよ。でも、現像もなにもできないから、山岸さんが紹介してくれたひとが一緒に現像してくれたんです。ちょうどそのころ、ようやくファインアートとしての写真、オリジナルプリントなんかがアメリカで出てきた時期でしたから、これから写真をやるんだったら、いままでのように印刷媒体の原稿としての写真だけ考えてるんじゃなくて、現像やプリントの技術を覚えなくちゃいけないって、現像所に放り込まれたんですよ。


アンマ(母)と東京見物に来たと語る沖縄の青年 2012

1972(昭和47)年にマグロ船に乗って、翌年に現像所に入ったんですが、毎日真っ暗な中で、酢酸臭い部屋でいると、とにかく外気が恋しくなるんです。それで日曜日ごとに、浅草に来るようになったのね。当時は船橋に住んでたんだけれど、乗換えてすぐだし。そうすると、村を離れた次男とか、トラックで知った仲間とか、マグロ船で知った仲間とか、そういう(自分と)似通った境遇のひとがいるわけですよ、たくさん。

前に『にっぽん昆虫記』で今村昌平さんにびっくりしたのは、どこにでもいるようなひとたちを主人公にして、あんな壮大な物語を作れるのかというところだったんで、自分もそういうひとたちを主人公にしなければダメだと思ってたから。

――73年から現像所で技術を覚えつつ浅草に来るようになって、でも浅草の写真が本になるのが87年ですから、ちょっと間がありましたよね。

それが写真を撮りだしてすぐ、APAっていう広告写真の団体の公募展があったんで、浅草で撮った写真をアレしたら、特選になったんですよ。で、写真って楽なもんだなあと(笑)、勘違いしたんですね。それまでは写真で食えるなんて思ってもなかったけど、いきなり賞をもらったんで、もしかして食えるんじゃないかと(笑)。


紅茶にこだわりを持つ人 2015

それで、なんとかして身を立てたいと思ったんだけれど、私は全然つながりもなにもなかったし。そこでこう、右往左往するわけです。『ブルータス』に持ってって、ちょこっと載っけてもらったり(笑)。だけど、やってけない。だいたい毎回毎回テーマを設定して、あれを撮ったりこれを撮ったりって、たいした金でもないのに、そんな商売、疲れるだけと。

それなら結局、ひとに戻るしかないだろうと思って。写真ごときとか、文学を書いているひとたちに言わせないために、やっぱり表現の核心にあるものは『ひと』。それはズラせないだろう、それを真正面から撮るろうと、またやりはじめたんです。

――じゃあ、いちど浅草から離れた時期があったんですね。

うん、73年、74年はここ(浅草)に来て撮っていたんですよ。その後10年くらいは、たまに覗きに来るぐらいで。あとはいろんなアルバイトしながら、たとえば35ミリで、デパートの屋上にたむろしているひとたちを撮ったりもしてたんですけれど、おもしろくないんですね。

で、そのうちにインドに出会うんです。最初に行ったのが79年ですが、そのとき非常に相性がいいとわかって(笑)。もともと金子光晴好きだったから、東南アジアを目指したんですが、やっぱりインドのほうが、土の根っこに近いっていう感じだった。それでインドを攻めようと。風俗じゃなくて、ちゃんと人間として撮ってみたいと。で、それからまたすぐ、82年に行くんですね。ちょうどかみさんと結婚して、子供も産まれたから、写真家としては子供に見せられる写真を撮っておきたいんで、ちょっと行ってくるって、7か月インドに行ったんですよ。


日帰り旅の女性 2007

――ちょっと行ってくるって、生まれた赤ん坊を残して7か月(笑)。でもそれだと、生活も大変ですよね。

いまだって大変ですよ! そのときは自動車工場の期間工です、半年働いて。それがものすごくキツイんだよ。マグロ船もキツイけど、期間工もほんとうに、頭が真っ白になるくらいキツイ。考える時間なんてのは、なにもないくらい。あれは労動と言えるもんじゃないです。

でも、すでにいちどインドに行ってるでしょ。だから、こんなもので行けるなら、あっちにさえ渡れば、まったく別の時間があるからって思えるんです。半年で、インドが呼んでる(笑)。それと人間はね、この現場を「見てやれ!」って思うと、自己客観するからね、キツイのが直接来ないですよ。人間はどうやって生きていったり、どうしてこういうシステムがあるんだろうとか思ってると、その中にいてもちょっと呼吸しやすいんですよね。

――そうやってインドに行きながら、また浅草を撮りはじめたってことですね。

そうですね。だけど日本人っていうのは扁平な顔だから、ポートレイトにならないっていう通念があるわけですよ。それはアーバスの写真を見たら、一目瞭然じゃないですか。あっちはもう完全に、彫刻のようにきれいになっているじゃないですか。

でも、そこでふと思ったわけ。人間本来の苦悩とか、生きるという営みがあるんだったら、それは絶対、ポートレイトにならないはずがないって。生きるっていうことは、モヤシのように速成の産物じゃなくて、かなりしんどいことだから、顔を持たないはずがないって思って、撮ったんですよ。そしたら幸いなことに、いちばん最初に撮ったのが、『王たちの肖像』の、あの大工さんです。で、「撮れる!」と確信したんですね。


大工の棟梁 1985

――それにしても、戻ったのが浅草だったのは、やっぱり前の経験があったからですか。

とにかく金がかからない(笑)。交通費さえあれば、おにぎり持ってくれば1000円で一日過ごせる。でもね、ここはほんとうにいい街で、金を使ってもいいし、使わなくても過ごせる街なんです。ひとがむき出しで生きてるから、ちゃんと見てるとおもしろいし。やっぱ、山形に近いしね、浅草は(笑)。

――東北の玄関口ですか(笑)。

たとえば新宿でビルのメンテナンスなんかやりながら、浮浪者を見てると、あっちはもらいが多いんですよ。酒なんかも集めると、けっこういい酒がボトルに半分くらいになる。だけど私はそういうところよりも、川のそばでテントを張るほうだろうなって。

でね、あるとき思ったんです。浅草っていう、この場所でずうっと撮っていれば、それが即、インターナショナル、海外のひとたちに見せても「これが人間だ!」と言えるものになると。それをあっちこっち移動してしまうと、そうは言えなくなる。ここにこだわることで、場所が触媒になってインターナショナルなものが撮れると思ったんですよ。それは何人か撮ってからですけどね。ヘーゲルの言う特殊性と普遍性っていう・・・・・・私、哲学科でしたから(笑)。

――なるほど。そういう構造を考えてから?

考えないと、すごろくは成り立ちませんから(笑)。

――撮ってるうちに、なんとなく見えてくるというんではないんですね。僕なんかそっちのほうだけど。

でも浅草じゃないインドやアナトリアの仕事でもそうだけど、最初ぱっと行って、ひとばっかりバンバン撮るんですが、たとえばインドは宗教のこともあるし、女のひとなんか、なかなかカメラを向けられないですね。


日舞をたしなむと話す婦人 2007

でもそのうち、空気が皮膚を通してなじんでくると、相手がほとんど等身大のひととして見えてきて、撮れるんです。あっち(撮られる側)も構えなくなる。写真家っていうのは、そういうコミュニケーションの能力だと思うんです。

こっちは卑下するわけでもなく、恐喝するわけでもなくて、対等に共有する時間を、「あなたも、ひとですね」っていう瞬間を撮るわけですから。で、いい挨拶もらったなとお互いに感じながら、すっとわかれる。

――そういう能力って、すごい大事ですよね。

だから浅草で何年間も会って、撮り続けてるひとでも、ぜんぜん住所も知らないし、名前も知らないです。聞かないしね。

――深くつきあうわけじゃないと。

それは、あるひとの代表として、あなたの影をもらっているだけであって、あなたそのものではない、と思うからね。ただし、撮った写真を見るひとに「彼ら」とか「ヤツら」とか思わせるようなものでは、絶対にダメなんですよ。なぜかっていうと、見ている側が、こういうひとにはなりたくないって思った瞬間に、想像力はストップするんです。


「 もみあげ の新」 と呼ばれていると語る料理講師 2008

実体がないところに想像力をばあっと働かせるのが写真なわけですよ。見るほうは写真1枚ずつと対面するでしょ。写真家はそこにいなくて。それが、ずうっと並ぶと、今度はうわーっと写真家っていう顔が見えてくるわけ。だから「威厳」というのが、私の写真には絶対に必要なんです。浮浪者を撮ってても、そこになにほどか、ナザレのイエスの苦しみを抱いているっていう感じにしないと、ダメなんです。

――それは作品としての仕上がりとかじゃなくて、鬼海さんがそのひとを見る眼っていうことですよね。

そうですね。だって、架空の王国をつくるわけですから。だからポートレイトといっても、訪問販売みたいな形で、強引に数を撮るっていうのと、相手に話しかけて撮るのとでは、まったく別でしょ。『フォーカス』に出ているような写真をバンバン撮る写真家が、人間を撮れるかっていうと、それはぜんぜん違うと思うし。

福田先生が最初に私の写真を見て、「こういうふうにひとが撮れるのか」って言ってくれましたけど、それがものすごい重要なことだとは、最近まで気がつかなかったんです。表現っていうものを、フラスコに入れて煮るんじゃなくて、ふだんどおりをさらしてOKっていうふうにするには、それがいちばん重要だと、最近になって思ったですね。

――それは長くやってないとわからない。

長く損してやってないと(笑)。


元松竹歌劇団のプロダンサー 2007

――でもいまはもう写真だけ撮っていればいいっていう環境なんでしょう?

いまはなぜか写真よりも、文章の注文のほうが多いんですよ(笑)。写真集が出るようになってからは、他の仕事はしてませんけど、40歳ぐらいまでは立ちんぼとかして、土方なんか行ってました。でも、一緒になったかみさんがわりとよくて、今月いくら持ってこいって、一回も言われたことない。金に対しては楽天的なんですね。

――それはすばらしい! ちなみに鬼海さんは浅草に住んでるんじゃなくて、撮影するために通って、夜はちゃんと(笑)帰るんですよね。典型的な一日って、どういう感じなんですか。

朝、10時17分登戸発の電車に乗ってきて、11時17分にここに着くんです。着くとまずひと回りして、ホリゾント(背景にする壁)の状態を見まわって(笑)。何ヶ所か決まった場所があるんでね。汚れていたら、拭く(笑)。

――拭く! だから鬼海さんの写真はバックがきれいなんだ。雑巾みたいなの持ち歩いてるんですか。

ティッシュ(笑)。で、光を見て、この時間だったらあの壁、とか、あの時間だったらあの壁、とか。で、おもむろにカメラ出しますよね。で、首にかけると……モードに入るわけですよ。

――戦闘態勢ですね。

カメラ持ってないと、絶対声かけたくないひとがいっぱいいるけど(笑)、カメラをパチっとすると、別な次元に入るんですよね。だから、けっこう時間があっても気が乗らないときとか、二日酔いで頭が痛いときは、絶対写真撮れないです。相手というより、まず自分との勝負ですから。


右肩だけが凝るとわらう人 2008

――被写体は散らばっているわけじゃないですか。人間だから動いているし。動いてないひともいるだろうけど(笑)。そうすると、猟場を歩きまわって?

いや、門のところにずーっといて。ときどき歩きまわって裏のほうに回ってみたりして。そうやって一日いるうちに、何千人って通るんですが、撮るのはひとりかふたり。一日に3人なんか撮ると、「ツキが逃げるぜ」って感じがする(笑)。

私の写真は35ミリのスナップと違いますから、10人撮ったら、たぶん8人は写真集に載るんです。まぐれってないのね。カット数も少ない。たぶんいままでに600人くらい撮ってきたと思うんだけど、フィルムで800本も撮ってないですよね。前は貧乏だったから、ワンロールで3人くらい撮ってた(笑)。

――お話を聞いていると、狩りみたいですね。

だって散弾銃で撃つわけじゃないから。頭にないものは撃てないのよ。カメラという、機器がたまたま偶然に撮ってくれるなんていうことは、絶対ない。完全に頭で考えるものを、写真で撮る。


連合いを亡くし、呉服屋を閉めたと話すお婆ちゃん 2007

――しかし考えてみれば40年くらい、浅草とつきあっているわけですよね。定点観測というか。街の雰囲気や、人間の濃さも変わってきたと思いますか。

それはもう。職業柄というのがなくなったからね。手に職というか、肉体労働が全然魅力なくなったじゃないですか。働くっていうことは、ほんとうはそういうことなんですけどね。でも浅草のうれしいのは、小売りがしっかりしてるでしょ。じいさんばあさんとか、家族でやってる個人商店がけっこうある。マクドナルドみたいに、どこいっても同じ形なんじゃなくて。ここには大きいスーパーマーケットもないしね。

だから浅草の変化って、ゆっくりゆっくりなんだけど、浅草寺境内が広くなって、整備されてから、つまんなくなったね。昔は回廊まわりに浮浪者がいても、絶対に排除しなかったんですよ。いまは、入れなくしてるから。酒盛り始めたりするからって。回廊を開放するのは、三社祭とかほおづき市とか、限られた日だけでしょ。前はそうじゃなくて、知らない人同士が参拝に来て、知らない者同士で話をしてたんですよ。しょぼくれた木もたくさんあって、その下にベンチもあって、ベンチのところで、みんなのほ~んとしていた。ところがそういう、滞留するのを嫌って、どんどん参拝客を流すようになってから、つまんなくなった。


「ロック世代よ!」という清掃事業公務員 2013

あと決定的な違いは、テレビとクーラーになってから、つまんなくなったってこと。家は暑いけど、浅草寺に来ると風通しがあるからって、家から出てきて、知らないひとと話すっていう贅沢があったのね、昔は。

――クーラーとテレビが、ひとを家の中に閉じこめたんですね。

そう。外に出て、ひととしゃべるっていうのが、ひととしていちばん贅沢だっていうのが、どこかにあったんですよ。

――ほんとですね。しかしそれだけある意味、浅草と一緒に生きてきて、こっちに住もうという気持ちにはならなかったんですか。

それは浅草って、私の仕事場ですから。仕事場には住まない。わざわざ来るっていうことが、私にとっては大切なことなんですよ。ふだんは写真機持って出歩かないし、写真撮るときに、写真家になるわけ。

――写真家にもいろいろありますねえ(笑)。浅草ではだらだら飲んだりもしないんですよね。

カネがないから(笑)。でも、そんなことして、おもしろさをぜんぶ知っちゃうとダメだなあという感じがあるんですよ。


毛が抜けるが、暖かいとほほえむ人 2013

――その踏みとどまり方がすごい。もし僕が同じことやるんだったら、ここで飲んでだれかと仲良しになって、だれか紹介してみたいなことになりますから。

それはね、都築さんが街ッ子だから。私は田舎だから。まず臆病っていうのがある。知らない店に入るの、ほんとうに大変だもの、決断するまで。それなら吉野家のほうがいいと(笑)。

でも、想像する部分がいいんですよ。なんでずっと街歩きしてるかっていうと、想像力ですよね。洗濯物を見れば、こういう家族構成でこういう……っていう。下町っていうのは、ほとんど生活をむき出しにするでしょ。それがすごくおもしろいわけですよ。一編の小説を読むような感じで。ところがマンションとか、高級住宅になると、なんの物語もしていない。ただ器だけ。

――入り込み過ぎないから、想像力が働くんですね。

そうです。


三人の息子を引き取り、育てていると語る男 2015

――僕はもともと鬼海さんの写真を見ていて、すごくいろんな浅草の地元民と仲良しになってるんだと思ってたんです。でも、お聞きすると、長話なんてほとんどしないという。だから、ときには知らないうちに、すごい人が写っちゃったりもするんですね。写真ができたあとで、「これ、こまどり姉妹だ」ってわかったりとか(笑)。

姉妹のどっちかわかんないんですけど、上野の不忍池を歩いてたら、鳩にエサやってたんですよ。なかなか魅力的なひとでした。芸人としてどうこうじゃなくて、こう、立ち居振る舞いがすごくいい感じで。

――浅草の「横浜メリー」みたいな、有名な立ちんぼのおばあさんもそうですよね。

名前も知らないし、私も聞かないですし。でも、道で会うと「先生のおかげで有名になっちゃってねえ、ちょっと御馳走したいから」って言って、缶コーヒー買ってくる(笑)。3本御馳走になったから、今度は私が「マクドナルドでポテト御馳走します」って(笑)。


死去する年の夏。お姐さん 2011

――でも、それ以上仲良くならないところが鬼海さんらしいですね。僕だったら、なんとかインタビューに持っていこうとする。

だって彼女は彼女なんだけれど、彼女を彼女にとどめることは、まったくないと思っているわけですよ。もっともっと、だれにでもある一部分で、彼女は存在しているから。

――そうか、ポートレイトの真価って、そういうところですよね。

だから彼女で知ってるのは、競馬好きだっていうことぐらい。

――知ってるじゃないですか(笑)。

だって、いっつもバッグに馬券入っているんだもん(笑)。


亡くなる1ヶ月前、21年間の知り合いだった人の最後の写真 2011



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PERSONA 最終章 2005―2018(筑摩書房刊)
右がAsakusa Portraits (ICP/Steidl)
この2冊を揃えれば浅草シリーズはかなり網羅できる!

[PERSONA 最終章 誌上写真展]


どの上着の肩も、破れていると話す男 2007


ラメ入のビキニのTシャツの男 2007


三日ごと、イネ科の草で三匹のバッタを作りかえていると話す人 2013


休日に、ニセ髭をつける男 2007


「100人中97人が戦死した」レイテ島からの生残りだと語る老人 2009


晴天が続くと話す婦人 2008


ダンス・パフォーマー 2007


日除け帽子にもなる扇子を持つカラオケ・スナックのマスター 2012


むかし「お座敷」にあがっていたと話す婦人 2011


春の陽気に誘われて、野外でランチだと話す人 2007


「大家さん、やっているのよ……」と話す女性 2009


黒レ一ス手袋、十字架のついたネクタイの女性 2007


風神雷神の扇子を拡げる演歌歌手 2007


「六本木族」のはしりだったと語る婦人 2013


バイオマス研究所職員 2007


「味気ない世の中になった……」とこぼす人 2008


ただ頷くだけで、一言も話さなかった人 2015


いつも、寝床に潜り込んでくると話す人 2011


1945年3月10日、東京空襲での10万人罹災者への慰霊巡礼中だと語る老人 2007


鬼灯市に来たという青年 2007


父親似の赤子 2007


緊張すると、口が動<癖があるという人 2017


若いときにバレーボールで鍛えたので、90歳すぎた今でも独り暮らしができると話す婦人 2006


時代小説家、中里介山の研究家 2008


春先の風邪は長引くという男 2013


ルイヴィトンの毛皮襟巻き 2008


「ハイライト」を吸う婦人 2011


ゆっくりした口調の婦人 2012


秋なので、赤糸のコーディネートだと語る女性 2013


芸事が好きだと話す板前 2008


修学旅行生 2006


自転車に何本ものビニー傘を縛っていた男 2012


遠くから、重賞馬券を買いにきたと語る青年 2006


「鉄骨屋だ」と云う男 2015


時間がかかるが、フリーパスの都バスで帰るという人 2009


ブライダル関係だったと話す婦人 2015


リストラされたが、ゆっくりと、次を探していると話す人 2012


仏像を持ち歩く、信心深い大工さん 2015


七夕の日、24時間テレビのTシャツを着た青年 2013


一緒の女(ひと) 2013


頗紅をしたお母さん 2011


三頭の愛犬 2007


地方都市の商家の主人 2008


その奥方 2008


前髪を気にする青年 2007


怪我をした鳩を抱く男 2005

PERSONA最終章:
筑摩書房・特設サイト http://www.chikumashobo.co.jp/special/persona/
ウェブマガジンでいしいしんじさんの書評も読めます:http://www.webchikuma.jp/articles/-/1666


lifestyle 追悼・浅草のチェリーさん

浅草を歩くと、いつもそのひとがいた。六区のマクドナルドあたりに、小さなからだを独特のセンスの服で包んで、ふらふらと立っていたり、道端に座り込んでいたり。チェリーさんとも、さくらさんとも、あるいはただ「おねえさん」とも呼ばれてきたそのひとは、道行く男たちに声をかけ、からだを売る、いわゆる「立ちんぼ」だった。だれかに声をかけたり、かけられたりしているところを見たことは、いちどもなかったけれど。

ほとんど浅草の街の風景の一部と化していた彼女が、亡くなったらしいと聞いたのは去年の年末のことだった。その詳しい経緯は、彼女の生きてきた人生と同じく、だれも知らないのだが、でも彼女がいたあたりには花や、大好きだった缶コーヒーが供えられていると地元の友人に教えられて、僕は浅草という街の懐の深さに、あらためて感じ入った。道端で倒れた売春婦のために花を手向ける街なんて、浅草のほかどこにあるだろうか。

映画にもなった横浜の「メリーさん」と同じくらい、浅草のおねえさんは地元で知らないひとのない存在だったが、おねえさんを取り巻く浅草の空気は、横浜よりもっとおだやかで、温かかった気がする。

だれも知らない人生を生き、だれも知らないうちに世を去った彼女を偲んで、浅草のチェリーさんをずっと見てきた写真家のおふたり、鬼海弘雄さんと多田裕美子さんに写真と文章を寄せていただいた。鬼海さんには今回の書き下ろしに加えて、連載中のPR誌『月刊ちくま』に去年掲載された文章と写真も再録させていただいた(2012年1月号)。

彼女を知る方も、聞いたことのなかった方々も、街角に生きたそのいのちに、ひととき思いを馳せていただけたら幸いである。

浅草の女、チェリー

写真・文 多田裕美子


一番最初は2009年4月の寒い日、浅草ロック通り。十字架のマントを着た人がちょっと前を歩いてた。

小さかったけど日が傾いた通りではその十字架にかなうものはいなかった。


私のまわりでは彼女を『チェリー』さんと呼び、最近知ったのだが『さくら』さんや『もも』さんとか、まだあるかもしれない、いくつかの名前で呼ばれていた。いつもロック通りの同じ場所に立つ女、チェリー。そこにいるのは当たり前で、いないと何かしっくりこない。




チェリーさんのファッションはバライティに富み、楽しく、悲しみをふっとばしてくれる。自身も皆の注目を浴びその人生を楽しんで、そのセンスはチェリーさんのもの。

ROXビルで何度かすれちがったが、あの十字架のマントはどこに売っているのだろう?






色々話したわけではないが、いつも一言二言の中で誠実さを感じる。見た目ではわからないかもしれないが、きらっと光る品のような。それは、ただ好きだけではなく、「みんな楽しんでおもしろがって、観せてあげるわよ」というサービス精神の源泉のような。

誰よりも浅草を浅草らしくしてくれた人、浅草の女として生きたチェリーさん、ありがとう。


一番多く写真を撮らせてもらったひと

写真・文 鬼海弘雄


たくさんの衣装を持った女性 1991.11.23

暮れの19日。風邪を引いたせいで夜中に何度も目を覚ました。

眠れないので、パソコンを開いてブログを観ているとメール着信の音。

浅草によく通っている友人の編集者からの届いた深夜のメールには、長年互いにお姐さんと呼んでいた人が亡くなったと書かれていた。友人も浅草に住む知り合いから、お姐さんがいつもいた六区の交叉点の路上に、幾つもの花束が捧げられているというメールを受けたと綴られていた。お姐さんは周りからはさくらさんと呼ばれていたとも書かれていた。20年来ただお姐さんと呼んでいたひとの名前が、なんともさくらさんだったとは・・・。これまで特に理由もなく、名前も年齢も訊いたことが無かった。


1998.10.28

師走の5日に浅草に行った時に、いつもお姐さんがいる場所を昼ごろ訪ねたが、お姐さんの姿を見かけなかった。今冬は例年になく寒さが厳しいので、気に掛けてはいた。何年か前から徐々に顔色が悪くなりだし、疲れ易いのか昼の路上に横になり寝込んでいることを、昨年の夏ごろから何度か見かけてもいた。深夜に届いた訃報に大きなショックを受けた。引きはじめの風邪のせいばかりと思えなかった。

翌朝浅い眠りから目を覚ますと、あの路上にお悔やみに行かなければと思ったが、躰が重く蒲団から抜け出せなかった。午後から、暗室の棚からコンタクトのスクラップブックを持ち出してきて、お姐さんの密着写真を探して数えた。


2001.4.24

写真を撮りはじめた1973年から、浅草で市井のひとの肖像を撮ってきている。19冊目になったペルソナシリーズのコンタクトブックを捲ると、1991年の11月23日の日付にお姐さんの最初のコンタクト写真が貼ってあった。 

今でもあの時の出会いははっきりと覚えている。丸襟のピンクのコートを着た小柄な女性が、人ごみに躰を埋めながら歩いていた。声を掛けて寺の回廊を背景に写真を撮らせてもらった。レンズを向けると小柄な婦人は、片手の人差し指を頬に添えてポーズをきめた。シャッタを切るたびに微笑んでいた。


2001.4.27

それから何年かして、お姐さんは境内に毎日やって来るようになった。広い境内を歩き回ることも全くなく、「鳩ポッポの歌碑」が建つ近くにいつも佇んでいた。たくさんの衣装を持っていて、毎日、衣服と帽子が変るのに驚かされた。その出で立ちを見るのも境内に出かける楽しみにもなった。150センチにみたない小柄な身長には、どの上着やコートも大き過ぎて袖がすっぽりと指先まで包んでいた。ずいぶんと衣装もちですねと話しかけと、まあ~ねと言って声を立てずに笑った。


2001.5.7

お姐さんを境内で頻繁に見かけるようになった頃に、絵画の肖像と写真のポートレイトの違いが気になり出していた。同じ人物をある年月を置いて撮ったものを、一緒に並べたら面白いだろうと思い始めていた。お姐さんの毎日変る衣装を連続して撮ったら、時間差とは違ったポートレイトが成立するかも知れないと思うようになった。そんな訳で、びしりと恰好が決まった日には、お姐さんにカメラの前に立ってもらうようになった。毎回、儀式のように人差し指を頬に当てるポーズをきめた。日によって右指になることも左指になることもあった。撮られることが好きなようで、お願いすると嬉々としてバックにしている壁まで来てくれて、カメラの前に立ってくれた。幾つかのポーズ、Vサインなどのパターンがあって、それを止めるのが大変だった。


2001.8.4

浅草に行く日は決まった時間に家を出て、1時間半ほどかけて11時15分に浅草寺境内に着いている。お姐さんはすでにいつも場所に立っていて、あいさつするとはにかんだ少女のように微笑んだ。

レンズの前では表情や仕草があんなに饒舌になるのだが、普段は実に無口でお姐さんから話しかけられることはなかった。毎日、件の場にひとりぽつ~んと立っていた。人と話しているところを見た記憶が無く、人とたむろしていることもなかった。近くの「鳩ポッポの歌碑」の台座には人が腰を掛けて一休みをしているのだが、お姐さんが座っているのを見たこともなかった。

週末には赤いペンで染まった競馬新聞を持っていたので、競馬好きであるのが分かった。競馬のことは解らないので、儲かってるのと冗談めかして訊くと、やはり声を漏らさず頬を崩して笑った。何回か六区の場外馬券売り場から出て来るのを見たこともあった。その頃には、もちろんお姐さんは「たちんぼ」だというショウバイの人だと知っていた。愛嬌が元手のはずなのに、決して人の袖を引いたり、粘っけのある視線で人に近づくことがなかった。

お姐さんは、私にはエロチズムとは対極な存在だと思えた。それでもほんのたまに、老人と連れ立って境内を出て行くのを見かけこともあった。


2001.11.17

新しい世紀になって何年か経つと、突然、お姐さんの姿が境内から消えた。しばらくして居場所を六区の興行街に変えたことを知った。久しぶりに六区で顔を会わせた時に、境内に来なくなった訳を訊いた。追い出されたのと、その日の天気を云うようにぼそっと言った。

そんな事情で境内にいた時のように撮ることがなくなった。それでもたまには500メートルほど歩いてもらって、寺の朱塗りの壁の前で撮らせてもらった。

去年の新年号から月刊ちくまに、表紙の写真と短いエッセーを載せてもらっている。1回目は、付き合いの長いお姐さんに登場してもらった。撮ったのは2011年の9月で、まだ残暑が厳しいかったせいか急に老け込んだように見えた。

それ以降も浅草に出かけると馴染みのお姐さんの顔を見に、寿司屋通りと新仲見世の交差点の場所に行っていた。どこか内蔵が悪いのか、徐々に顔色が土色になってきているのが気になった。次第に服の汚れにも無頓着になっていった。


2002.5.13

最後に会った11月の末日には、脱いだ靴を枕に地べたに横になって眠り込んでいた。肩を揺すってカイロがわりにと熱い缶コーヒーを2本渡した。重そうに躰を起こし、何回もありがとうと言ってはお辞儀をした。どこか童女のような表情だと感じた。もしかしたらお姐さんはこれまで、心にあらゆる悪意を溜めたことがない人かもしれないという思いも、脳裏をよぎった。

編集者からメールが届いた3日後の21日に、お姐さんのいた場所を訪ねた。いつも時間を過ごしていた興行街の入り口の、車両侵入禁止の衝立ての周りには、たくさんの小さな花束や飲み物などが供えられていた。しばらく黙祷をしてから、その交叉点の角にあるマクドナルドの外のテラスの椅子に座ってコーヒーを啜った。以前にお姐さんと二度ほど、コーヒーをそのテーブルで飲んだことがあった。


2002.10.19

お姐さんを偲んで路上に捧げられた供物を見ていた。しばらくすると、黒のオーバーを着たおばさんがやって来て、合掌してから「祭壇」周りの清掃を始めた。古くなった花を持って来た新聞に包み、供物をきちんと並べ変えた。

おばあさんはサンダル履きだったので、近くに住んでいる人だと分った。冷たくなったコーヒーを飲み干してからおばさんに近づき、ありがとうございますと何となく礼を述べた。いつ亡くなったかと尋ねると、4日の昼に救急車で運ばれたと聞いているが、正確な亡くなった日にちは分からないと語った。2日前から供養と片付けに来ていると大きなマスクで籠った声で言った。可愛らしい人だったとも言った。おばあさんと話をしていると、自転車で通りかかったおばさんがブレーキを鳴らして停まった。いつもここにいたおばさんが亡くなったのかと訊いてきた。 

三角巾を被ったおばさんは自転車に股がったまま手を合わせてから、ひょいとペダルを踏んで寿司屋通りに、ベルをちりんちりんと鳴らして走って行った。

それからまた何日かしてポートレイトを撮りに行き、お姐さんのいた場所を訪ねた。すっかり供物が取り払われていた。きっと初七日の区切りの日が過ぎたのだと思った。


2003.11.18

周りの人たちはお姐さんを排除もせずに見守っていたようだ。やはり浅草は体温のぬくもりのある町だとほめたい。他人の哀しみを人間の悲しみとして感受する自然な許容が、まだ伝統の町にのこっているのだろう。

浅草でポートレイトを性懲りもなくつづけているのは、人間とは何だろうという素朴な答えのない問いをずっと抱えているからだ。揺らぎ易いそのこだわりを、時代や社会の風潮に流されないよう私なりに降ろした錨のそばに、たまたまお姐さんがいてくれたような気もする・・・。

その事でたぶんお姐さんの名前も年齢も尋ねることなく、二十数年間の知り合いだったのかもしれない。


2003.11.21

正月の6日に今年初めて浅草寺にでかけた。たくさんの人出で混んでいて松が過ぎてから出直そうと思った。ふと、お姐さんがいつも佇んでいた近くに立っている「迷子しるべ石」の碑の説明文を読む。

昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。

「南無大慈悲観世音菩薩」と刻まれた石碑の一方に「志らする方」、片方に「たづぬる方」とし、貼紙に用件を記して情報を交換していた。

碑は安政7(1860)年に吉原遊郭の松田屋嘉兵衛が建立した。

建立の5年前に起こった安政の大地震で、行方不明になった吉原の娼妓の消息を尋ねる意味があったとも、何かの本で読んだことを思い出した。

もしかして、さくらさんはあの時の迷子だったのかもしれないと思ったのは、きった風邪の微熱せいにちがいない。


2003.11.23



月刊ちくま:透ける鏡 1  缶コーヒー


2年ぶりに撮らせてもらった馴染みのお姐さん

夏の暑い日。都築響一さんのwebちくま連載「東京右半分」のインタビューを浅草で受けた。陽の高いうちに終わったので界隈を久しぶりに歩いた。お姐さんに会えるかもしれない。

お姐さんとは、二十数年前から「たくさんの衣装をもつお姐さん」として何度も撮らせてもらっている女性だ。顔見知りになって長いのだが、互いに名前も住んでいるところも知らない。

興行街を歩いていると、前方から相変わらず目立つ恰好でやって来る。小柄な躰を以前から左右に揺らし歩いていたが、その幅が大きくなっている。「センセィのお陰で、すっかり有名になって・・・。缶コーヒーを奢る・・・」とこの前と同じことを言う。

とりあえず、いつものように境内の壁をバックに撮らせてもらうために一緒に並んで歩いた。歩調を合わせるのだが、お姐さんは遅れがち。

撮らせてもらったあと、ふと、缶コーヒーが好きだったのを思い出し自動販売機で買って追いかけた。人出のある仲見世通りを、躰を見え隠れさせながら歩いていた。冷えた缶コーヒーを渡すと直に入れた。結露が持ち物を湿らすかもしれない。

またね!とあいさつすると笑いで顔を崩した。

佇んで見送ると、前方を向いたままお姐さんは右手を振りながらあいさつを返して、人ごみにゆっくりと消えていく。

合掌


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ROADSIDE LIBRARY
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(PDFフォーマット)

ロードサイダーズではおなじみの写真家・天野裕氏による初の電子書籍。というか印刷版を含めて初めて一般に販売される作品集です。

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旅するごとに、だれかと出会いシャッターを押すごとに、読者のみなさんと一緒に拡がりつづける時間と空間の痕跡、残香、傷痕……そんなふうに『わたしたちがいたところ』とお付き合いいただけたらと願っています。

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ROADSIDE LIBRARY vol.006
BED SIDE MUSIC――めくるめくお色気レコジャケ宇宙(PDFフォーマット)

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ROADSIDE LIBRARY vol.005
渋谷残酷劇場(PDFフォーマット)

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これまでのロードサイド・ライブラリーと同じくPDF形式で全289ページ(833MB)。展覧会ではコラージュした壁画として展示した、もとの写真280点以上を高解像度で収録。もちろんコピープロテクトなし! そして同じく会場で常時上映中の日本、台湾、タイの動画3本も完全収録しています。DVD-R版については、最近ではもはや家にDVDスロットつきのパソコンがない!というかたもいらっしゃると思うので、パッケージ内には全内容をダウンロードできるQRコードも入れてます。

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ROADSIDE LIBRARY vol.004
TOKYO STYLE(PDFフォーマット)

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電子書籍版『TOKYO STYLE』の最大の特徴は「拡大」にある。キーボードで、あるいは指先でズームアップしてもらえれば、机の上のカセットテープの曲目リストや、本棚に詰め込まれた本の題名もかなりの確度で読み取ることができる。他人の生活を覗き見する楽しみが『TOKYO STYLE』の本質だとすれば、電書版の「拡大」とはその密やかな楽しみを倍加させる「覗き込み」の快感なのだ――どんなに高価で精巧な印刷でも、本のかたちではけっして得ることのできない。

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ROADSIDE LIBRARY vol.003
おんなのアルバム キャバレー・ベラミの踊り子たち(PDFフォーマット)

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ROADSIDE LIBRARY vol.001
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捨てられないTシャツ

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圏外編集者

編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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独居老人スタイル

あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。
たとえば20代の読者にとって、50年後の人生は想像しにくいかもしれないけれど、あるのかないのかわからない「老後」のために、いまやりたいことを我慢するほどバカらしいことはない――「年取った若者たち」から、そういうスピリットのカケラだけでも受け取ってもらえたら、なによりうれしい。

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ヒップホップの詩人たち

いちばん刺激的な音楽は路上に落ちている――。
咆哮する現代詩人の肖像。その音楽はストリートに生まれ、東京のメディアを遠く離れた場所から、先鋭的で豊かな世界を作り続けている。さあ出かけよう、日常を抜け出して、魂の叫びに耳を澄ませて――。パイオニアからアンダーグラウンド、気鋭の若手まで、ロングインタビュー&多数のリリックを収録。孤高の言葉を刻むラッパー15人のすべて。

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東京右半分

2012年、東京右傾化宣言!
この都市の、クリエイティブなパワー・バランスは、いま確実に東=右半分に移動しつつある。右曲がりの東京見聞録!
576ページ、図版点数1300点、取材箇所108ヶ所!

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東京スナック飲みある記
ママさんボトル入ります!

東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。
酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう、場末のミルキーウェイ。 東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。 チドリ足でお付き合いください!

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