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バックナンバー:2022年07月13日 配信号 収録

lifestyle 新宿区立総合天然宙屯地 2 じいさんの埴輪 (画・写真・文:小指)

 ここに住み始めてから一ヶ月ほど経ったある日、驚くべき事実を知ることとなった。なんと、あのいつも家の周りに置かれている大量の埴輪は、全て下の階に住むじいさんが自作しているものらしいというのだ。ただの度を超えた埴輪好きとしか認識していなかったので、まさかこんな職人、というか芸術家だったとは、全く想像もしていなかった。大家いわく、この家にはもう何十年も前から住んでいて、こうして一人で埴輪を作りながら生活しているのだという。家族は別の場所に住んでいるらしく、ここはアトリエのように使っているようだ。こんな人は、探そうと思ったってなかなか見つけられるものではない。私はすっかり一階のじいさんに対して尊敬の念を抱くようになった。
 私はじいさんのことを、尊敬と親しみをこめて「埴輪のじいさん」と心の中で呼ぶようになった。

 じいさんの「埴輪」は、博物館で見るような普通の埴輪とは一風変わっており、初めて見るような珍しい風貌をしていた。
 普通の埴輪は土で形を作ってから焼くイメージがあるが、じいさんの埴輪は陶器のように色が白いものが多く、大きさも小さい。そして、手触りは土でも陶器でもなくサラサラとしていて、材質はいまいち不明である。それに、普通の埴輪は寸胴だが、じいさんの埴輪の形は丸っこくてどこか子供のようだ。ひとつひとつ表情も違っているので、全て手作業で作られているのだろう。私は、歴史の教科書に載っているような埴輪よりも、じいさんの埴輪の方が風変わりで面白いなと思った。
 家の周りに置いているのは、完成品ではなく制作途中のものらしい。日昼に、太陽で天日干しして乾燥させているのだという。だから夜間や雨の日はすべての埴輪が家の中にしまわれているのか、と納得した。
 じいさんの埴輪は、見たこともない形、自然に変色した色合い、本家の埴輪以上にすっとぼけた顔、こんな埴輪は他のどこでも見たことがない。この唯一無二の埴輪が見られるのは、ここ埴輪ハウスだけなのだった。


 埴輪のじいさんの特徴をここに記しておきたい。
 じいさんは、年齢の割にはひょろひょろと背が高く、とても痩せている。服装はいつも浴衣の上に半纏といった格好で、その上からなぜかいつもベルトをしめていた。季節は関係なく、真夏でも真冬でもこれである。夏などはさすがに「熱中症にならないだろうか」と見ていていつも心配だったが、いつも平気な顔でヒョロヒョロと近所を歩いていた。
 そういえば昔、自分で辛さを申告することができる激辛好きが集うカレー屋へ行った時、その店では「2辛」でも市販のカレールーの辛口くらい、「10辛」で相当な激辛という店なのだが、そこである時「86辛」を頼んだ客を目撃したことがある。どんな人なのかと思わず立ち上がって見てみると、真夏で冷房の効きの悪い蒸した店内にいるにも関わらず、その男性はダウンジャケットを着たまま、耳にはさらにイヤーマフまでしていた。時々、こういう暑さや寒さを超越した超人類的次元の人と遭遇することがごく稀にあるが、じいさんもきっと、そうした超人類の一人だったのだと思うのだ。

 じいさんの風貌は、仙人のようでもあり、芸術家のようでもあって、病院から抜け出してきた患者にも見えなくもなかった。そんな、世間擦れしていない浮世離れした雰囲気のある人だったのだ。また、よくペットと飼い主の顔は似るというが、じいさんの作る埴輪も、見れば見るほどじいさんに似ているように感じた。じいさんはもしかしたら日頃、自分の分身を作っていたのかもしれない。普段の喋り方は楳図かずお先生のような感じで、とても明るく優しい人だったが、埴輪と向き合っている時は人が変わったように真剣で、玄関先でひとり埴輪を作っている後ろ姿はまるで”隠遁者”といった風格があり、私はその姿を見るといつも釘付けになってしまった。
 埴輪のじいさんがこれまでどういう人生を歩んできて、どうやってこの家に流れ着いたのか、私はとても気になったのだった。


 そんな謎に包まれたじいさんであったが、少しだけ正体が明かされかけた日があった。
 引っ越してからしばらく経った頃、私は親に初めて新宿の家のことを伝えた。あの手この手で誤魔化していたが、隠すのがもう限界だったのだ。だが、これまでどんなところに住もうが何も言われなかったのに、「新宿に引っ越した」と言ったら急に「家に行く」と言いだした。どうやら、実家の家族たちは私が悪事に手を染めて新宿という危険な大都会に住みだしたんじゃないかと疑っているようなのだった。「下に知らないじいさんが住んでいるから家賃が安くて……」と釈明したが尚逆効果となり、結局、次の日曜に「埴輪のじいさんへ菓子折りを持って挨拶しに行く」ということになってしまった。
 心配してくれるのはありがたいが、これはまずいなあと思った。あのボロ家とじいさんを見たらどんな反応をされるだろうか。「とにかくもう実家に帰ってこい」と言いくるめられる自分の姿が頭に浮かんだ。まだ何も成し遂げられてもいないのに、今連れて帰られては本当に困るのだった。

 当日は、父が一人で来た。駅まで迎えに行き、「ここが家だよ」と教えると流石に父も半笑いになっていた。なぜわざわざ、実家の二倍以上の築年数の家に住んでいるのか、それほどまでなぜ実家に戻りたがらないのか不思議に思ったに違いない。困惑している様子は見てとれたが、私は気にしないふりをして押し切ることにした。
 その日は、珍しく埴輪のじいさんの部屋の玄関が閉まっていた。玄関の戸を叩き、「こんにちはー」と声をかけても出ない。どうも留守のようだ。いなくてよかった……と安心したのも束の間、玄関の戸が開き、「ハイ~!」と中からびっくり箱のようにじいさんが飛び出してきた。父の顔を恐る恐る見ると、どうやら言葉を失っているようだった。
 結果はというと、相当なインパクトはあったもののじいさんは想像以上にちゃんとした対応をしてくれ、父もなんとか安心してくれたようだった。しかも、ただの挨拶にも関わらず埴輪のじいさんは名刺まで寄越してくれた。そこにはお堅そうな雰囲気の民俗学系の団体名と(申し訳ないが私が忘れてしまった)、左上には確実にどこかで見たことがある紋章が金色で箔押しされてあった。むしろ、私と父の方がかえって動揺していた。
 そして、「娘がお世話になりますがどうぞよろしくお願いします」なんて言って頭を下げ、伊勢丹で買ってきた菓子折りを渡し、そそくさと部屋に戻ったのだった。

 後で、じいさんの名刺をよくよく見てみると、父いわく、その箔押しされた紋章は“皇族”のものだという。「え、まさかおじいさんって皇族なの?」と聞くと、父は低い声で「……そうかもしれんぞ」と言った。
 結局謎は深まるばかりではあったが、父は埴輪のじいさんの人柄の良さをあの短時間で感じ取ってくれたようで、どうにかギリギリ納得してくれたようだった。そして、一級建築士でもある父は最後にあの家の耐震やベニヤについて問題を次々と指摘し、「次に大地震が来たらあの家はティッシュ箱のように潰れる。気をつけて暮らせよ」と言い残し、実家へと帰っていった。

 後にじいさん本人から聞いたことによると、実は過去に大学で教鞭をとっていたこともあるらしく、いまも日本でいちばん良く知られた国立大へ時々埴輪についての講義をすることがあるのだという。他には博物館などにあるような埴輪の復元作業などをしていたこともあるらしく、じいさんの会話の節々に感じる上品さはこうした教養や皇室(?)の血筋などからきているのだろうな、と私は妙に納得したのだった。
後で両親にもそのことを話すと、権威に弱い両親はすっかり安心してくれて私はほっとした。だが、その後に発された「でも、なんでそんなすごい人があんな家に住んでるの?」という素朴な質問に対して、私は「さあ……」としか答えられなかったのだった。


 あれからますます私は埴輪のじいさんが気になり、フルネームで検索してみたがどうも関係するような人やものは見当たらず、もしかしたら芸名の可能性もあるかなと思ったがそれ以上の詮索をするのはやめた。同じ家に住んでいるのに、名前をコソコソ隠れて検索するなんて自分だったら嫌だからだ。今度もし話せる機会があったら、本人から聞いてみようと思った。
だが、ネットにも特に情報が無いとなると、こんなに面白い人が自分と大家以外にほとんど知られていないなんて、あまりにももったいないと思った。そして私は、時々じいさんの埴輪を写真で記録することにした。

 当時、何枚か撮った後「でも、撮ったはいいけどどうすればいいんだろう。自分のTwitterなんかに載せたってたいした反応は無いだろうし、都築響一さんとかだったら興味持ってくれるかなあ。でも会えるわけないしなあ」なんて思っていたのだが、その10年後にこうやって都築さんの媒体で埴輪のじいさんを紹介できたのだから、本当に人生ってわからないものだなあと思う。

埴輪のじいさんとの出会い

 ある日、仕事が早く終わり自宅へ帰ってくると、じいさんの部屋のほうの玄関が半開きになっていた。そして、玄関にかけられた白いレースカーテンの隙間から、老木のような細い足が2本、ぬっと飛び出ていた。私は「まさか」と思い、慌てて自転車置き場に自転車を投げ出し、真っ青になって駆け寄って「大丈夫ですか!!」と声をかけた。すると、じいさんは「はがあ!!」と叫んで跳ね起き、「すみません、寝てしまっていました」と言いながら体をおこし、恥ずかしそうに部屋の中へ戻っていった。
 後日聞いたところによると、家の前で埴輪を並べているうちにうっかり昼寝をしてしまっていたらしい。私は、大家から「ここらへんはみんな年寄りしかいないから、死んだ時に気付くのはお前だからな。色々とよろしくな」と言われていたので、“その時”でなかったことに心底ホッとしたのだった。


 その後も、私は埴輪のじいさんが玄関から下半身だけを外に投げ出して昼寝をしている姿を、かなり頻繁に目撃した。我が家の隣には中学校があったのだが、時々学校関係者が覗きにきたりしていたので、埴輪のじいさんを近所の不審者としてマークしていたのは明らかだった。でも、あの埴輪だらけの部屋では昼寝もできないだろう。そこは少し気の毒でもあった。
 だが、通報されて二人でこの家を追い出されても困るので、私はじいさんが外で寝ているのを見かけるたびに、声をかけるようにした。すると、不思議と自然と仲良くなって世間話をするようになり、特に埴輪の話や創作についての話はとてもウマがあって、私は「理解者とついに出会えた」とすら思ったのだった。
 埴輪のじいさんに「こういうのお好きなんですか。普段は何かやられているんですか」と聞かれたが、急に自分のことを聞かれると気恥ずかしくなり、思わず「ただのフリーターです」と言ってしまった。本当は、<私もじいさんと同じです、ものを作ったり絵を描いてるんです>と言いたかったのに、どうしてもそれが言えなかった。その頃はバイトで忙しくてろくに絵も描けておらず、何を言っても口だけだということを自分で一番よくわかっていたのだ。

 ある日、喫茶店で絵を描いてきて帰ってくると、家の前で座り込んでいる埴輪のじいさんを見つけた。私は「今だ」と思って、初めて「実は私も絵を描いてるんです」と言った。バイト先でも「金にならないのにいつまでやってるんだ」と笑われるのが嫌でずっと隠していたから、話がわかってくれそうな埴輪のじいさんとやっと出会えて、自分も同族であるということをどうしても伝えたくなってしまったのだ。心のどこかに、認めてほしいという気持ちもあったように思う。だが、言ってから段々恥ずかしくなって後悔し始めていると、埴輪のじいさんは満面の笑顔で「お仲間ですね!」と言ってくれた。なんだかそれが、すごい嬉しかったのをよく覚えている。
 そして、埴輪のじいさんは「お近づきの印に」と言って、なんと埴輪を一体くれた。私は遅かれ早かれ、お金が貯まったらじいさんから埴輪を買いたいと思っていたので「買います」と言ったが、「どうぞどうぞ」とお金は受け取ってくれなかった。
 私はこの埴輪を一生大事にしようと思い、作業机の上に飾った。

 それからは、家の前で埴輪のじいさんと遭遇するたびに、芸術の話から将来の相談まで様々な話をさせてもらった。じいさんは、必ず最後に「お若いんですからなんでもできますよ」と言ってくれた。そして、永久歯がすっかり逃げ去ってほら穴のようになったじいさんの口元を見ていると、俗世の囚われなんかが全てどうでもよく感じてきて、不思議な底力が湧いてくるのだった。
 それから、埴輪のじいさんは会うたびに「お近づきの印に」と埴輪をくれるようになった。前回いただきましたよと言っても覚えてないようで、もらい続けていたら気づくと1ヶ月もしないうちに私の部屋まで埴輪だらけになり、我が家は正真正銘の埴輪ハウスとなっていったのだった。


埴輪のじいさんの部屋

 いつだったか、埴輪のじいさんの不在時に、ドアの隙間から部屋の中を覗き見てしまったことがあった。玄関脇の靴箱には、埴輪の材料や工具が山ほど積まれ、ドアに顔を近づけるとツン、とカビの匂いがした。鼻の頭にひんやりと水気を帯びた冷たい空気を感じ、以前じいさんから貰った埴輪のひんやりとした肌触りを思い出した。あの埴輪は、確かにここで作られているのだ、と感じた。
 部屋の奥の暗がりに視線を向けると、なにかの気配がした。目を凝らし、よく見てみると、なんとそこにはまるで中国の兵馬俑のように並べられた大量の埴輪が、足の踏み場もないほどずらりと並べられてあった。毎日違う埴輪が外に出ていたから、恐らく大量にあるだろうとは思っていたがここまでは想像していなかったので、さすがに私もこの異光景に愕然とした。まさか、自分の部屋の階下にこんな空間があったとは、思ってもいなかった。思った以上に深いじいさんの深淵を感じ、私は身震いするほどの好奇心を抱いた。
 呆然としていると、もう一箇所、別の方向からもなにかの視線を感じた。埴輪のじいさんか?と慌てて振り向くと、その視線を感じた棚の場所に、巨大埴輪が一体鎮座して私を見下ろしているのを見つけた。その埴輪は、いつも家の周りにある埴輪のサイズとはわけが違った。メガ埴輪だった。
 そのメガ埴輪の首には、なぜか名札が下げられており、そこにはじいさんの苗字が書かれてあった。咄嗟にこの埴輪がじいさんの分身であるように感じ、実際はそんなことはないのだろうが埴輪を通じてじいさんに見られているような気がして、私はうろたえながら自室に逃げ帰った。部屋に戻ってからも、あの埴輪だらけの光景がしばらく頭から離れなかった。

 その後、私はギーガーという著名な芸術家のドキュメンタリー作品を見た。
 初めて見た本物のギーガーは、予備知識なく「この作品を描いた人はどれでしょう」とおっさんを並べられてクイズに出されても即答できるくらい、作品と本人の印象が直結したような風貌をしていた。私はよく自分の展示会場などで「想像していた雰囲気と違う」とがっかりされることが多いので、あれほどギャップが無いのは羨ましいなと思った。
 ギーガーは喋っても猟奇的な雰囲気がほとばしっていて、この人に芸術がなかったらどうなっていただろうかと心配になるほどだった。作品は恐ろしいほどに緻密で、この狂気にこの作品あり、と非常に納得したのだった。
 だが、正直私はギーガー本人の話よりも、ギーガーの部屋に目を奪われた。ギーガーの家はやっぱり非常にギーガーだった。あまりにもギーガー全開すぎて、もし私がここで何日か過ごさなければならなくなったら、数日でノイローゼになるだろうなと思った。そして、庭に作られた「幽霊電車」と呼ばれるトロッコみたいな自作の不気味な電車に乗りながら呪いの子供のようにはしゃぐギーガーの姿を見て、私は埴輪のじいさんの部屋を思い出した。じいさんの部屋の印象も、ギーガーに劣らぬ狂気だったのだ。

 部屋はその人の精神世界を表す。
 私が本能的に怯えたあの埴輪のじいさんの埴輪部屋こそが、じいさんの芸術家たる所以を証明するものに違いなく、「本物」なのだろうな、と思った。それに怯えているうちは、私もまだまだなのだろう。負けないくらい、自分の濃度をこの埴輪ハウスで高めていかなければ。そう強く、確信したのだった。

大家の話

 大家は生まれも育ちも新宿で、貧しい家庭に生まれ、小学生の頃は新聞配達で一家を養う苦労の多い子供時代を送っていたらしい。だが、大人になってから不動産で一発逆転し、70代を過ぎた今も毎日働きながら週6で歌舞伎町に通うという、規格外のエネルギッシュな高齢者生活を過ごしていた。

 スナックを閉める時間が近づくと、ママが「小指ちゃん、大家さんにメールしなさい」と言う。そして私は、「今日もお疲れ様です。そろそろ帰りましょう」とメールする。これが、私の唯一の営業メールだった。
 10分ほど経つと、近所のクラブで飲んでいた大家が自転車に乗って現れる。大家はいつもチャリ通なのだ。そして、そこをママが一本釣りし、ボトルをおろして一緒に帰るというのが基本の流れだった。大体は世間話しながらまっすぐ帰るだけなのだが、時々大家の機嫌がいい時はタコヤキを買ってもらったりうどん屋に寄り道したりして、そういう時はラッキー!と喜んでいた。今思うと、なんだか部活の帰りみたいだったなと思う。
 大家と深夜、歌舞伎町を自転車で並走していると、いろんな人に声をかけられる。特に年配のホステスはほとんど顔見知りなんじゃないかと思うほどで、いつもその顔の広さに驚いていた。
「なんでそんなに友達多いんですか」と聞いたら、「馬鹿野郎!それだけここで金を遣わされてんだ」とのことだった。

 でも、酔いが回っている時はこんなことも言う。
「俺が毎日飲み屋に通うのもボケ防止だ。仕事が終わってその後もひとりで家に篭ってたら、あっという間にぼけちまうよ。飲んで喋って笑って、あれはリハビリだな。だからリハビリに付き合ってくれるお前らに感謝してんだよ」
 水商売という仕事には色々と思うことはあったが、こういうことを言われると嫌な気はしないのだった。


 また、私は生まれてこのかた「ご近所付き合い」なんてものとは無縁の世界に生きてきたつもりだったが、この新宿では意外に近隣住民、というか近隣老人との関わりができたことに自分のことながら驚いていた。
 隣のアパートには、3人の高齢女性が住んでいた。
 ひとりは、いつもニコニコしている丸顔の人懐っこい90歳近いおばあちゃん。もうひとりは、むげん堂で揃えたようなエスニックスタイルに身を包み、普段は清掃の仕事をしているやたらファンキーな女性。そして三人目は、いつも身綺麗にしていてどこか後妻業をしてそうな謎の色気を放っている女性で、どの人とも、何度か目があって挨拶しているうちに顔見知りになった。
 道でバッタリ会うと、老女たちはマシンガンのようにしゃべる。「今日の清掃の夜勤は辛かった」「こないだここで転んだのよ」「え?あのコンビニで働いてるの?買いに行くわ」と、ひとしきり自分の言いたいことを話し、満足すると「じゃあね」とみんな部屋に帰っていく。グイグイくるわりには、だれも嫌な干渉はしてこないので、私も近所で彼女らと遭遇するのが少し楽しみでもあった。
 大家や埴輪のじいさん、彼女らのような新宿で出会った大人たちは、私がどんな生活をして、どんな格好をしてようが、まったく気にしていないようだった。地元だとこうはいかない。街自体は好きなのだが、人が集まった時のあの息苦しさが本当に嫌だった。なんなら、新宿では近所の老人たちのほうが私よりもずっと派手に遊んでいる。むしろ「こんなに周りの目を気にせず生きていいんだ」と思わせられることばかりで、自分の親もあれくらい自由勝手に、楽しんで生きてくれたらなあ、と彼らを見るたび思う。

 ちなみに、この我が家の隣の老女だらけのアパートも、大家が所有している物件である。初めは「なんで女性ばかりなんだろう?」と不思議に思っていたが、どうやらこの周辺は少し前に再開発があり、立ち退きで自宅を追われてしまった行き場のない独居の女性に、大家が自分の管理している家を格安で貸してあげているようだった。
 そういえば大家は、亡くなった奥さんに昔とても苦労をかけた、とこぼしていたことがあった。もしかしたら、こうやって奥さんと同世代の女性を助けることで、奥さんへの贖罪をしているのかもしれないな、と思った。これは私の勝手な推測なので、真偽は定かではないが。
 顔は怖いが、苦労したぶんの優しさは持っている人なのだろう。

 大家と埴輪のじいさんは、埴輪のじいさんの方がだいぶ年上に見えるが、実は同い年だった。もしあのふたりが子供の頃同じ教室にいても、絶対仲良くはならないだろう。
 ふたりは、見た目も生き方も正反対のじいさんだったが、ひとつだけ共通項があった。それは、どちらも世間に迎合せず、我が道を突っ走っているところだろうか。このふたりには、世間で言う「じいさんらしさ」は皆無だ。一方は、俗世から自身を断ち切って隠居しながら独自の埴輪を作り続け、もう一方は、俗の中の俗である歌舞伎町へ毎日通い、高齢者らしからぬ生活を送っている。つい人の視線ばかり気にしてしまう私にとって、じいさんふたりの存在はいつも痛快なのだった。


Le petit terezes(2016)

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編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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