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バックナンバー:2018年03月28日 配信号 収録

movie 桃色の罠――日本成人映画再考 02 もうひとつのヌーヴェル・ヴァーグ『狂熱の果て』(文:鈴木義昭)


半世紀を超えてフィルム『狂熱の果て』は、監督との再会を果たす!

 国立近代美術館フィルムセンターの大ホールが、久しぶりに満員に近い状態となった。特集「発掘された映画たち」の目玉といわれた映画『狂熱の果て』が上映された日のことである。
 半世紀以上の歳月を経て発掘されたフィルムの初上映ということもあり、上映前に監督の挨拶も行われた。多くの映画や映像を発掘しているフィルムセンターでも、めったにはないことである。「年月をかけてようやく出会った」という山際永三監督の言葉に、集まった観客らの上映作品への期待はピークに達した。監督デビュー作『狂熱の果て』を撮った時、29歳であった山際監督も、今では白髪の目立つ映画界の巨匠といった風情となっていた。実際、劇場映画はこれ一本の作家だが、テレビ作品にドキュメントにとさまざまなジャンルに、多くの仕事を手掛けてきた職人監督だ。同時に、ならではのエッセンスを作品に盛り込んで熱烈なファンもいる名監督だ。
 あとでも触れるが、この作品の主演女優・星輝美も半世紀ぶりに主演自作を観ようと会場にやって来ていた。彼女もまた、当時は新東宝撮影所のニューフェイスからデビューを果たしてニュースターへ歩を進めている時期だった。今では、女優業を引退して何年も経ていて、懐かしそうに観賞し目を細めていた。


20代で監督デビューすることが当時ではまだ珍しい時代だった。ブルジョア宅のパーティーシーン


愛らしく可憐な役の多かった星輝美は、一気に苦悩するニューヒロインに

 作品上映が始まると、スクリーンには白黒の画面に古い街並みが映し出された。知らない人には、どこかの地方都市だと言っても気がつかない街並みだった。だが、そこに映し出されたのは1961年の六本木の街である。
 それは、僕らの知っている六本木とは全く別の街のようだ。若者たちが闊歩する街並みが今どきの六本木なら、この頃の六本木とは、街そのもの黎明期とでも言うべきだろうか。

 映画の脚本には、こうある。

あけがたの街路――
 真正面に黒々と東京タワーがそびえ立っている。

 タイトルが終わると、

 大ロングから二台の自動車がフルスピードでやってくる。Uターンして急停車しようとした時、そばを通りかかった牛乳屋の自転車がひっくり返る。
 ビンが割れて牛乳が飛び散る。
 最初の車を運転している男(健次)が降りて来て
「これでいいだろ」
と千円札を牛乳屋に投げてやる。
二台の車から降りた男女が、ガヤガヤとレストランの中へ入って行く。


『狂熱の果て』シナリオ、映画評論1961年10月号より

 細かいカットの連続の次に観客を浚っていったのは、叩きつけるようなビートの効いた音楽で、タイトルロールが始まった。後には現代音楽でも知られるようになる林光が担当していた。
 白黒画面の中に、ポツンと立っている東京タワー。まだもちろんビルの森はなく、車の流れも見当たらない。どこか東京の喧騒とも無縁のように見える。戦後社会と高度成長期の象徴のような鉄の放送塔・東京タワーが、バベルの塔のように一際高くそびえ立っていた。眼下の景色を眺めようと、母に連れられ塔に昇ったのは、ちょうどこの映画が撮影された頃だったのかもしれない。いや、子供の頃のタワーの記憶は、もうない。いつだったか、タワー直下の路上から見上げた異様な鉄骨組だけがインプットされている。
 タワーの真下で、若い男女の物語が繰りひろげられ、映画になって遺っているのだ。不思議と言えば不思議だ。こんな映画があったのか。確かにそんな思いに囚われたのは、僕だけではあるまい。

 フィルムセンターの今回の特集チラシから解説を引いてみよう。
「ジャズと車と痴戯に明け暮れる六本木族の若者たちを待ち受ける虚無と退廃を、過剰な演出で描破したもう一つのヌーヴェル・ヴァーグ」
 そんな冷ややかな映画研究的な言葉が目に飛び込んできた。そう、その通り。そんなふうに見るべき映画だ。「ロカビリー歌手の映画」でもなければ「アクション映画」でもない。もしかして「ピンク映画」? そう思った方々には後ほど説明しよう……。

 野蛮な男女のいたずらごっこと子供じみた徒党。ワイドスクリーンに切り取られた六本木族と呼ばれた若者たちの総て。彼らは、狼なのか豚なのか。それが問題だ。だが、狂ったような情熱の日々は、手酷いしっぺ返しとともに、いつか消えていく。ほんの青春の一瞬に、若者たちが戦後社会から零れ落ち自滅する時間を切り取っただけの映画なのかもしれない。だが、鳴り物入りの高度成長は、多くの若者の狂おしい挫折の果てに築き上げられたし、彼らの父母である戦争世代の狂おしい日々の上に成り立っていた。そう考えると、『狂熱の果て』が、どんなヌーヴェル・ヴァーグの波より気高い波のようにさえ感じられる。波は、歴史にかき消され泡となり露となって消えてしまうはずだった。

 だが、フィルムの生みの親の揺ぎ無い努力で、ここに蘇った。


『狂熱の果て』公開時立看板用ポスター。高校生ミチ役の星はセーラー服だ

 マンションの一室の奇妙な踊りと悪い遊び。「アウシュビッツ遊び」と名付けられた死体ごっこ。一人また一人と相手を見つけて消えていく深夜のメスとオス。レイプのようなセックス。鳴りやまないジャズ。ダンスに明け暮れる日々。パーティ会場で浮足立ってはしゃぐ少女たち少年たち。
 六本木から何台かの車で繰り出した葉山。我が物顔で走る車が、無意味に轢き殺してしまう老婆。常軌を逸脱した若者たちの、それでも今から見れば幼くさえ見えるような不良たちの蛮行。結末は、あっけない崩壊と虚無感が、果てしない。
 スピードとスリルと不安と欲望。フィルムの向こう側に、監督は何を見ようとしたのか。


肌に火の着いた煙草を押し付けるリンチまがいのシーン。悲鳴を上げる女

 物語を駆け抜けて行く、まだティーンの星輝美。いつか見たデビューの頃の可愛らしさとは変わって、キュートだが女になろうとしてもがくように呼吸する。全編を、まるで走り抜けていくようだ。ラストに至り、その可憐な姿を顕にして、物語を終末へ導くだろう。大島渚『青春残酷物語』の桑野みゆきの幻惑するような演技にも匹敵するではないか。
 山際監督は、微笑みながらスクリーンを見つめていた。時に冷ややかな視線を見せながら、恋焦がれた人たちに再会したように『狂熱の果て』というフィルムと対峙していた。
 「今観ても、自分の体質、作品の共通性は、最初から出ていましたね。私は、テーマ主義者なんです。映像派じゃない。それはちゃんと出ていた。挫折した者への共感。それが、僕の全作品に亘る共通したテーマなんです」


山際永三監督 2010年8月、神戸映画資料館にて。この日、「時代劇の名人・並木鏡太郎」について語ったが「『狂熱の果て』を捜している」と初めて聞いた。

 山際永三は、1932年東京生まれ。麻布高校、慶応大学を経て新東宝撮影所に入社。内田吐夢、並木鏡太郎、石井輝男、三輪彰らに師事したが、そろそろ監督デビューの順番が回って来るという瀬戸際に撮影所が倒産し、その後解散状態になる。多くのスタッフ、俳優たちがテレビなど新しい仕事場を見つけて移動していく中、長く助監督であった山際永三に監督作品の話が舞い込んだ。それは、まだ新東宝という撮影所が完全に解散する前のことだった。映画『狂熱の果て』の企画は、最初、ある手記から始まったという。
 手記とも小説ともつかない四百字の原稿用紙で200枚に及ぶ文章を書き上げて来たのは、秋本まさみという十八歳の少女だった。
 手記の内容は、ミチという主人公の少女が体験する、まさしく狂ったようなハイティーンたちの性態というものだった。複数の人物の体験談を重ね合わせて再構成したり、妄想も入り混じった日記形式のものだ。それは、ミチが家庭教師の下宿で、突然初潮を迎える場面から始まる。
 ボーイ・ハントの話で持ちきりの朝の電車内。家庭教師に暴力的に体を奪われるミチ。新宿のジャズ喫茶で、ロカビリー歌手の修と出会う。銀座の喫茶店で、ユキオという少年と出会う。ドライブしたり、六本木のレストランで夜を明かしたりする。踊ったり、ダベったり……。


原作者秋本まさみのように、実際の六本木族も出演して話題に

 山際監督は、振り返って言う。
「秋本まさみの手記を持ち込んだのは、当時“六本木族”を売り込んで流行らせようとしていた渡辺プロの渡辺美佐さんなんだよ。美佐さんが秋本の手記を推薦して、新東宝のプロデューサーの佐川澋さんに映画化を要望したんだ。タイトルの『狂熱の果て』というのは、その時からあった。今の六本木で遊んでいる若者たちを描いてくれみたいな企画だったんだね。若者たちが破滅していくストーリー。それは決まっていたんだけど、企画全体や物語の内容に、渡辺美佐が事細かく口を出すようなことはなかったと思う。
 秋本さんにも渡辺美佐さんにも会いましたよ。美佐さんにどこで会ったか想い出さないんだが。もう57年前のことだからね。まだまだ、みんな映画界に力があった時代だからね。ぜひ映画にして欲しいということを言われた。だから、これから“六本木族”を売り出したいみたいなところもあったんだよ」




週刊サンケイ1961年5月15日号。六本木族・秋本まさみが取り上げられている。秋本は、主人公ミチの友達・アキ子役で『狂熱の果て』にも出演した。

 フィルムと監督の間には、半世紀を超える時間が流れている。57年前の『狂熱の果て』が製作された頃にタイムスリップしてみよう。
 この『狂熱の果て』を撮る企画が動き出すと、山際監督は、すぐに主演女優の星輝美に会っている。内容を説明しなければならなかったからだ。やはり、どこで会ったか覚えていないそうだが、家まで行ったのではないかと山際監督は言う。19歳になったばかりの星輝美本人だけでなく、星のお母さんにも企画の内容を説明した記憶があるそうだ。
 星輝美が『狂熱の果て』に主演したのは、新東宝にはキャスティングできる少女っぽい俳優が、もう彼女しかいなかったし、大宝作品に出てくれる女優は他にはいなかったと、山際監督は言う。「星を起用しろ」と言ったのは、プロデュサーの佐川澋だった。
 確かに週刊誌に載っている秋本まさみの写真を見ると、コケティッシュでどこか星輝美に雰囲気が似ていなくもない。しかし、それは、偶然と言えば偶然だった。佐川プロデュサーからは、新東宝時代にも増して「裸」の露出度が要求された。
 当然撮って欲しいといわれた「パンツ」や「お尻の割れ目」の露出を、19歳の星は拒否したというのだ。暗黙の了解で撮れるのではないかという、山際監督の目論見は準備段階から壁にぶつかった。
「星輝美は、あの少し前の『地平線がぎらぎら』って土井通芳監督の映画でも後半から出て来て、とても良かったんだ。もちろんあの作品は藤原審爾の原作が効いてるんだけど。グラマーな感じじゃないけど、ティーンエージャー路線で人気が出て来ていたんだ」


「私たち、これからどうなるの?」
「ただ、一緒に寝たことがあるだけさ…」

 山際永三には、ひとつの企みもあった。それは、前年に松竹撮影所から起きたヌーヴェル・ヴァーグの波に自分も乗ろうというものだった。もともと『映画批評』誌に関わったり、撮影所内外の映画運動に同調をしていた山際監督は、大島渚や吉田喜重ら松竹ヌーヴェル・ヴァーグの作品と監督に刺激を受けて、自分の映画の文法を変革し、撮影所の若い世代と共有できる同時代的テーマに挑んでみたいという気持ちが強くあった。




映画評論1962年1月号「新人監督展望」より。松竹ヌーヴェル・ヴァーグの反動で新人監督に厳しい年だったが、新東宝(潰れて大宝)の山際永三、東映の深作欣二、東宝の恩地日出夫、松竹の森川英太郎などが注目される。

「六本木族」をテーマとした映画は、61年秋から62年にかけ、まるで各社競作の様に作られた。「六本木族映画」が出現したのだ。大映では増村保造監督が『うるさい妹たち』を撮り、東宝では恩地日出夫監督が『非情の青春』を撮る。六本木族を題材にした映画が、次々に製作されたのだ。
 山際永三の『狂熱の果て』は、それに先行しながらヌーヴェル・ヴァーグ的手法を試みたのである。現代若者論の背景に戦争世代の父母を置き、戦後社会の閉塞感を浮き彫りにするというのは、まさしく大島渚『青春残酷物語』の構造にも似ている。大島渚は、60年安保のデモ隊をさらに背景に加え、時代の混迷を強く描いた。
 山際は交流のあった大島渚や吉田喜重に山田健と共に書き上げた脚本を送っていた。吉田からは手厳しい苦言が返ってきたが、大島からの返信はなかった。きっと、大島は意地悪くか心優しくか、完成された映画として観てから批評しようとでも思ったのだろう。


『狂熱の果て』は、映画評論ベストテン第8位/映画評論1962年2月号より。1位は『人間の條件』、2位は大島渚の『飼育』だった。


映画評論62年2月号より、ベストテン表組。佐藤忠男、佐藤重臣(山際の麻布高校時代からの友人)、小川徹らが『狂熱の果て』に点を入れている

 脚本段階では自由だったが、映画が出来上がると、映倫から注文がいくつも出て来た。プロデューサーと配給会社は、「成人指定」の方が商売はしやすいと踏んでいた。今から考えると、「オッパイのアップ」も「ヘア」もないのにいったい、どこを問題にして「成人指定」映画にしようとしたのか。
 当時、映倫が審査段階で注目して指摘をしたのは、主人公のミチが強姦される畳の部屋のシーンだった。審査員は「しつこい」「長い」と執拗に強姦シーンのカットと短縮を要請した。衝動的な殺人や暴力シーンもあるが、やはり問題はエロシ-ンだった。当然、結果的には『狂熱の果て』は、「成人指定」となっている。「成人指定」を売りに、もう少し映画はヒットするはずだった……。


ロカビリー歌手の藤木孝が「トランペット吹き」の中岡陽二役で出演。藤木がフルコーラスを歌うシーンがあるのも珍しい

 映画が完成すると、試写が行われる。既に旧新東宝撮影所の試写室は使用できず別な場所で行われた。渡辺美佐も試写に顔を出したが、何も言わなかったそうだ。
 新東宝の全盛期なら、新宿や銀座の盛り場にも系列館や提携する映画館もあった。その時代なら全国の盛り場での上映も可能だったかもしれないが、新東宝から大宝という映画配給の新会社へ移行すると、もともと郊外の盛り場や地方にしか系列映画館がなくなっていた新東宝のチェーン館が、櫛の歯が欠けたようにどんどん少なくなっていた。いくらかの話題性ある作品でも、安定したプログラムを作るために契約した映画配給会社以外から作品を拾って上映することは難しい。『狂熱の果て』は、結局、あまりにも上映館が少なく、ヒットどころではなかったのだ。

 山際監督は、出来上がった『狂熱の果て』を東京・山手線の大塚駅前の大宝封切館で一人で観賞したらしい。新東宝が解散した後にできた大宝に残された数少ない山手線の駅前の劇場だった。大塚の他には、京浜東北線の蒲田に封切館が残っていた程度だった。
 東京近郊では、毎月、何館かの映画館が新東宝から(第二東映も含めた)東映やピンク映画の上映館に転向していた。
 たった一年間の出来事だった。春から夏に撮った映画『狂熱の果て』が秋に公開され、他にも、次々と数本の映画が公開されたが、すぐに大宝も潰れてなくなってしまう。『日本の夜と霧』事件で、松竹を飛び出した大島渚が初めて松竹撮影所の外で撮った作品『飼育』も、大宝の配給チェーン網に乗ったが、一時は話題にはなっても、多額の利益が出るほどの館数での上映は出来なかった。当然、観客の入りも限られている。『飼育』は、後になって名画座や地方館で観た観客のほうが多いといわれる。
 山際監督が覗いた大塚駅前の大宝封切館は、六本木族の映画を観るのに向いていたかどうか。やはり、過激な青春映画は、新宿や銀座といった繁華街、またそれに隣接した劇場で観てこそ気分も高揚するというものだ。


大宝映画の文字がスクリーンに踊ったのもほんの一年足らずのこと

 山際監督は、僕の取材に応えてこうも言う。
「50年ぶりに観てみてね、非常に若気の至りという気にもなる。稚拙な表現や演出も目に付く。セットもベニヤ板で薄っぺらなら、出てくる俳優も、エキストラが若い子があまり集まらないで年寄りが多いのが気になった。もっともっとドキュメントタッチにしたかったんだが、できなかったんだ。だから、僕はこの映画の後、もっとドキュメンタリーを勉強しなきゃいけないと思った」
「フィルムの運というものもあるよ。ドタバタと公開して、いつの間にか『狂熱の果て』は孤児になったんだ。どっか僕の手の届かない所へ行ってしまったんだ。探しても捜しても出て来なかった。それが、灯台下暗しでね、フィルムセンターの保管フィルム原版の中に紛れ込んでいたんだ。3年くらい前に見つかったんだが、権利上の問題があってすぐにニュープリントを焼けなかった。ようやく諸問題をクリアして今回の上映になったんですよ」


『狂熱の果て』封切り公開時ポスター半裁版。

 まさに眠りから覚めた映画『狂熱の果て』を、今回、観賞して思うことがいくつもある。
 センターの解説にあるように、また山際監督が語ってくれたように、この映画は「もう一つのヌーヴェル・ヴァーグ」であるだろう。松竹ヌーヴェル・ヴァーグに一年遅れながら、新東宝の撮影所にもヌーヴェル・ヴァーグの波があったのを、今では誰も憶えていない。このフィルムが出て来てはじめて、そうしたムーブメントがあったのを、みんなが想い出し再確認することができた。
 山際永三が在籍した新東宝という映画会社は、文芸映画と娯楽作品の牙城として、映画史的にも知られている。戦後すぐから東宝撮影所を長く覆った、戦後最大と言われる大争議の渦中から新しい撮影所ができた。それが、新東宝撮影所である。当初は、長引くストライキに反対した人々の避難場所だった。出発時の評価は分かれ、始まりには問題を抱えても、稼働すると日本映画を牽引し、また底辺から支える魅力ある撮影所になった。


鈴木義昭著「新東宝秘話・泉田洋志の世界」カバー。泉田洋志(今清水英一)は新東宝のスタートから解散までいた数少ない俳優の一人である

 僕は、新東宝という映画会社の歴史を長く取材したことがある。『新東宝秘話・泉田洋志の世界』(青心社・2001年)という拙著に書いたのが、それだ。
 東宝撮影所から新東宝撮影所へ、そして新東宝映画が倒産、崩壊すると、台頭するテレビ界へ、あるいは勃興した「ピンク映画」の独立プロダクションへ、時には舞台活動へと転戦した一人の映画俳優がいた。俳優をやりながら、後年は千葉県で喫茶店を経営した。喫茶店は、また彼の趣味のミニチュアで一杯となり、多くの客に足を運ばせた。そんな数奇な足跡の異能なる俳優・泉田洋志。今清水英一という名で擬闘師をもやりながら、多くの新東宝映画で悪役や怪人を演じ続けた。喜劇映画の神様といわれた斎藤寅次郎に気に入られ、怪談映画の巨匠中川信夫にも重用された。時代劇では戦前マキノ映画、アラカン(嵐寛寿郎)以来の名人・並木鏡太郎にも才を見込まれた。そんな一人の大部屋俳優の見事な生き様を、長い聞き書きと関連する取材で書いたが、その時にも実は山際監督にお会いして当時の新東宝の撮影所の様子を伺っている。


『女と命を賭けてブッとばせ』(1960年)、星輝美(左)泉田洋志(中)


『女と命を賭けてブッとばせ』(1960年)、星輝美(左)泉田洋志(左上)、右は主演の宇津井健

 山際監督は、『新東宝秘話』第23話「激震撮影所」で登場する。自らの足取りと崩れ行く撮影所について語っていただいた。もう20年くらい前のことである。
「入社して2本目に付いたのが内田吐夢さんの『たそがれ酒場』ですが、それが終わった頃には社長が交代したんですね。服部っていうそれまでの社長は後楽園資本で、僕が入社する前からもう何年も赤字、赤字で給料が遅配したりもしてたんです」
「僕が入った頃には企画部なんかに元々の新東宝の人がいてバリバリやっていましたからね。内田吐夢監督も新東宝でもう1本撮る予定だったけど、プロデューサーの栄田さんが大蔵さんと合わなくて辞めちゃって実現しなかった」
「やはり第二東映が新東宝の館を喰い潰してったんですよ。それだけじゃないだろうけど。日本映画の本数競争のピークですよね。毎週二本立てという、それに新東宝が負けちゃうわけですね。やってけなかった。34年から具合が悪くなって、35年、1960年ですけどいよいよストライキってことになるわけです」
 山際さんの話は、この後、60年安保のデモに新東宝の組合員だけで何百人も集まった話やワンマン経営者だった大蔵貢さんが撮影所を追われる話などに繋がっていく。
 大蔵貢社長が「女優を妾にしたのではない」「妾を女優にしたのだ」という暴言を吐いて、組合の活動やストライキに火に油を注いだ話などは、本稿のテーマではないだろうから端折るが、安保の年に始まったストライキは、激化した。撮影所は混乱の中で、1961年(昭和36年)8月、負債総額七億八千万円で新東宝映画が倒産することで大きなピリオドが打たれることになる。


『狂熱の果て』地方版ポスター。この時、配給は既に大宝からゼネラル映画社に変わっている。以後、タイトルを変えられた上映やキワモノ扱いで全国に。


『狂熱の果て』のフィルムは、さまざまに改題され「エロ映画」として、よくわからない配給会社や個人の手で何年も全国上映されていた。この『狂熱の誘惑・けもの』もそのうちのひとつで、ポスターには「新日映配給」の名がある。おそらくタイトル部分はカットされたか、書き換えられて上映されたのだろう。このポスターを発見したのは、奈良在住のポスターコレクター東舎利樹さん。山際監督も知らなかった、大発見である!

 山際永三は、こうした動きの渦中にあって、それらの動きを横目にしながら『狂熱の果て』を撮っていたことになる。最初は、新東宝作品のつもりでスタンバイしただろう。撮影所を逸早く出て行った者もいたから、まさに撮影所を枕に討ち死にする覚悟のあったスタッフ、キャストが集められたに違いない。
 山際監督は「星さんは佐川さんが出演を決めてくれた」というが、星輝美は当時の上映記録やフィルモグラフィを当たれば、「最後の新東宝スター」であったことが判るだろう。スタッフも助監督の青野聰をはじめ意地でも撮影所を守ろうとした勇気ある人々が結集しているようだ。そんな映画だと、半世紀後に観る僕には想いたいところもある。そうであるなら、『狂熱の果て』は、新東宝のフィナーレを飾る重要な作品だったことになる。
 撮影所のセットをまだ十分に使用し、あとは六本木や葉山のロケーションだった。映画がクランクアップした頃には、新東宝という映画会社はなく、『狂熱の果て』は新東宝系の劇場を再編するため急きょ立ち上げられた大宝において配給された。
 まさに『狂熱の果て』というフィルムは産み落とされた時から、「鬼っ子」のようだ。その後の流浪も、フィルムには抗うことのできない悲しい運命だった。
 ナベプロの渡辺美佐が「六本木族を映画にして欲しい」と、秋本まさみの原作を新東宝に売り込んだことは先に書いた。その後も、映画各社へ売り込みがあった。なんとか「六本木族」を流行させたかったのだ。


熱に浮かされ、出口の見えないトンネルの果てまで駆け抜けて行く若者たち


「六本木族映画」も『狂熱の果て』が始まりの一本だった

「六本木族」が、銀座のみゆき通りを根城にした「みゆき族」の後継を狙うようにして、芸能プロや商業的な力によって始まったのは事実ではないかと、僕は推理している。銀座で遊んでいた不良少年、不良少女らが、家に帰りたくないからと深夜まで店がやっていた六本木へ、あるいはたまり場になる部屋があった六本木へと、足が向いたのが「六本木族」のはじまりだったかもしれない。
 大原麗子、峰岸徹ら新進の映画俳優たちが属し、幾多の話題を生み出した「野獣会」は、「六本木族」がマスコミで取り沙汰された少し後に結成されている。ここにも渡辺美佐ら大人の手引きがあったと考えるのが自然だ。
 六本木族の映画が、まるで「太陽族映画」と同じように、俄かに脚光を浴びたのである。大映や東宝ばかりではない。


愛欲シーンには映倫の規制はうるさかった


ミチ役の星輝美は、この映画でニュースターになるはずだった

 1962年の春、3月15日。一本の独立プロダクション製作の映画が、既に上映中の映画館から警視庁により摘発される事件が起きる。
 摘発されたのは、神田駅前の神田アカデミーほか都内4館で上映中だった『肉体の市場』という映画だ。監督したのは、新東宝の系列会社富士映画出身で、それまでに新東宝系列にも監督作品が公開さたこともあった小林悟。『肉体の市場』が摘発されたのは、公然ワイセツ罪即ち刑法174条に抵触する疑いによるものだ。
 この『肉体の市場』もまた、「六本木族」をテーマと題材にした映画である。
 主演は日活出身の香取環と。後の「ピンク映画の女王」である。扇町京子、浅見比呂志、江波志郎などの新東宝出身者の顔も主要キャストに揃っていた。製作は、大蔵貢がやはり旧新東宝の劇場を組織した大蔵映画の系列の独立プロダクション・協立映画。独立プロ作品だった。完成後すぐに大蔵映画の配給で公開した。
 小林悟監督は、六本木を舞台にした若者の生態を描く企画と聞き、すぐにやる気になった。六本木の深夜レストランのトイレで姉(扇町京子)がレイプされ、それが原因で自殺する。姉の死の真相を知ろうと上京した妹(香取環)が、六本木で次々と危険な目に出会う。恐喝、強盗、乱暴、睡眠薬遊びといった犯罪の匂いのする映画でもあった。小林が脚本も書いた。
「偶然にも、六本木のクラブの地下で女の子がレイプされるという衝撃的な事件があってね、これは映画になるのではないかと考えたんですよ」
 もうだいぶ以前のことだが、生前の小林悟監督に取材をしている。彼は、確かにそう言った。『肉体の市場』は、後年、内外タイムスの芸能記者で、映画評論家ともなる村井実の文章によって「ピンク映画第1号」という名称を与えられた映画だ。しかし、小林悟が『肉体の市場』を撮る時、「ピンク映画」などという言葉は、新聞も雑誌も使ってはいない。「ピンク映画」という言葉がマスコミに登場するのは、それから数年後の内外タイムスほか芸能・スポーツ新聞で、初めて「ピンク映画」という言葉を使ったのは村井だとされている。


深夜、死体のようになった連中を重ねる「アウシュビッツ遊び」

 小林悟もまた、「ピンク映画」という言葉と別に「六本木族」を撮りたいと思ったのではなかったか。当時、小林は新東宝が潰れてから、テレビの子供番組の仕事などをしていた。小林もまた、先行する「六本木族映画」である『狂熱の果て』を劇場で観たか。おそらく、小林は「俺も六本木を舞台に撮ってみたい」と、自作を思い描いたのではないか。
 佐川プロデューサーではなく、今度は大蔵貢社長直属のプロデーュサーによる企画だった。『狂熱の果て』の噂を聞いていた大蔵貢は、すぐに「ウチで配給しろ!」と言った。
『狂熱の果て』というフィルムが封切り公開されたのは1961年11月。『肉体の市場』というフィルムが公開、摘発されたのが1962年3月。数カ月しか違わない出来事だった。
「僕は小林悟監督とは付き合ったことはないんですよ。彼は、正確には新東宝の社員ではなく、大蔵貢さんが新東宝の系列に作っていた富士映画の社員だったから、余り交流する機会がなかったね。石井輝男監督は富士映画でも撮ってるけど、僕はまだ監督デビュー前だから。その後、映画監督協会ほかで長年付き合いのあった若松孝二監督がスタッフで参加をした最初の映画会社も、確か富士映画のじゃなかったかな。小森白さんが監督した戦争映画のスタッフに付いたのが始まりだったって、若松さんに聞いた気がする」


ドドンパ歌手・ユリ役沢村みつ子のブルージーでパンチの効いた歌声

 山際永三を、僕が深く意識したのは、テレビ作品『恐怖アンバランス劇場第4話・仮面の墓場』を観た時からだ。それは、16歳の真冬、正月の末のことだ。その日、月曜日の深夜23時を過ぎた時間帯にオンエアされた『仮面の墓場』な る作品を初めて観た。
 唐十郎と緑魔子というテレビのフレームには到底収まりきらない怪優たちの演技に圧倒された。小さな劇場の舞台に展開する迫真の狂気なる物語に驚かされた。脚本は『ウルトラマン』などの市川森一だが、その名前には興味を持たなかった。忘れられなくなったのは、山際永三という監督の名だった。こんなヘンテコなテレビドラマが許されるのか訝しかった。作っているのは誰だ? と思った。
 猫の目のデザインのタイトルバックが終わると青島幸男が登場し解説を語り、スリラー仕立ての物語が始まる。お茶の間のブラウン管で見る唐十郎と緑魔子の強烈な違和感に目を丸くして見入った。1973年、僕が「アングラ演劇」に魅かれていく始まりに、山際永三が演出した『仮面の墓場』があった。
 本来、この『アンバランス劇場』はゴールデンタイムのオンエアを想定して作られた番組だった。『ウルトラQ』や『ウルトラマン』で実績を上げた円谷プロダクションが1969年に取り組んだ全13話のシリーズだ。ところが、完成するとあまりに過激な内容に、ゴールデンタイムの放送はおろか、お蔵入りになってしまう。そして、「アンバランス劇場」は4年後の1973年の深夜に放送されている。時代が変わり、夜更かしの人間が多くなり、テレビも深夜枠の見直しが考えられたからだ。


2018年2月20日、上映会後の「集合写真」、2列目中央が山際監督。足立正生、内藤誠、梶間俊一ら山際と親しい監督の顔も

 先日、『狂熱の果て』上映後、関係者らが集まって「山際永三監督を囲む会」が居酒屋で行われた。乾杯の後に、一人づつ『狂熱の果て』の感想を短く言おうということになった。順番が回って来て、僕は言った。
「僕は、十代の時に『仮面の墓場』という山際監督のテレビ作品を観て大変驚きました。それからずっと山際永三という名を意識してきて、何度も違うテーマでインタビューをしました。新東宝撮影所について、テレビ番組について、時代劇について、映画の著作権について、大島渚について、近年はオーファン(孤児)フィルムと言われる問題についても聞きました。そうして、ようやく今日、念願叶って山際さんのデビュー作『狂熱の果て』を観ることができた。凄いかっこいい作品だと思いました。本当にぐるっと回って山際永三の世界が腑に落ちた。そんな気がします」


若松孝二監督デビュー作『甘い罠』(1963年6月公開・東京企画・五所玲子、竹田公彦、香取環ほか出演)ポスター このフィルムも数年前に復元された。

 いわゆるピンク映画の「第1号」には諸説ある。定説では小林悟の『肉体の市場』だが、それより半年遅れた本木荘二郎(高木丈夫)監督の『肉体自由貿易』(1962年11月封切)とも、翌年の関孝二監督作品『情欲の洞窟』(63年)とも、若松孝二が最初に撮った『甘い罠』(63年)ともいわれることもある。だが、それら全てに先行する「成人映画」が『狂熱の果て』であることを忘れてはならない。もしかしたら、「ピンク映画」は山際永三の六本木族映画『狂熱の果て』から始まったのかもしれない。小林も本木も、関も若松も、みな桃色の罠に嵌ったようにピンク映画を撮り始めるが、山際永三だけは違っていた。それは、やはり不思議というしかないのだ。


星輝美(左)と藤木孝(右)。二人は、モーターボートに乗ったまま夜を明かす

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ROADSIDE LIBRARY
天野裕氏 写真集『わたしたちがいたところ』
(PDFフォーマット)

ロードサイダーズではおなじみの写真家・天野裕氏による初の電子書籍。というか印刷版を含めて初めて一般に販売される作品集です。

本書は、定価10万円(税込み11万円)というかなり高価な一冊です。そして『わたしたちがいたところ』は完成された書籍ではなく、開かれた電子書籍です。購入していただいたあと、いまも旅を続けながら写真を撮り続ける天野裕氏のもとに新作が貯まった時点で、それを「2024年度の追加作品集」のようなかたちで、ご指定のメールアドレスまで送らせていただきます。

旅するごとに、だれかと出会いシャッターを押すごとに、読者のみなさんと一緒に拡がりつづける時間と空間の痕跡、残香、傷痕……そんなふうに『わたしたちがいたところ』とお付き合いいただけたらと願っています。

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ROADSIDE LIBRARY vol.006
BED SIDE MUSIC――めくるめくお色気レコジャケ宇宙(PDFフォーマット)

稀代のレコード・コレクターでもある山口‘Gucci’佳宏氏が長年収集してきた、「お色気たっぷりのレコードジャケットに収められた和製インストルメンタル・ミュージック」という、キワモノ中のキワモノ・コレクション。

1960年代から70年代初期にかけて各レコード会社から無数にリリースされ、いつのまにか跡形もなく消えてしまった、「夜のムードを高める」ためのインスト・レコードという音楽ジャンルがあった。アルバム、シングル盤あわせて855枚! その表ジャケットはもちろん、裏ジャケ、表裏見開き(けっこうダブルジャケット仕様が多かった)、さらには歌詞・解説カードにオマケポスターまで、とにかくあるものすべてを撮影。画像数2660カットという、印刷本ではぜったいに不可能なコンプリート・アーカイブです!

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ROADSIDE LIBRARY vol.005
渋谷残酷劇場(PDFフォーマット)

プロのアーティストではなく、シロウトの手になる、だからこそ純粋な思いがこめられた血みどろの彫刻群。

これまでのロードサイド・ライブラリーと同じくPDF形式で全289ページ(833MB)。展覧会ではコラージュした壁画として展示した、もとの写真280点以上を高解像度で収録。もちろんコピープロテクトなし! そして同じく会場で常時上映中の日本、台湾、タイの動画3本も完全収録しています。DVD-R版については、最近ではもはや家にDVDスロットつきのパソコンがない!というかたもいらっしゃると思うので、パッケージ内には全内容をダウンロードできるQRコードも入れてます。

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ROADSIDE LIBRARY vol.004
TOKYO STYLE(PDFフォーマット)

書籍版では掲載できなかった別カットもほとんどすべて収録してあるので、これは我が家のフィルム収納箱そのものと言ってもいい

電子書籍版『TOKYO STYLE』の最大の特徴は「拡大」にある。キーボードで、あるいは指先でズームアップしてもらえれば、机の上のカセットテープの曲目リストや、本棚に詰め込まれた本の題名もかなりの確度で読み取ることができる。他人の生活を覗き見する楽しみが『TOKYO STYLE』の本質だとすれば、電書版の「拡大」とはその密やかな楽しみを倍加させる「覗き込み」の快感なのだ――どんなに高価で精巧な印刷でも、本のかたちではけっして得ることのできない。

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ROADSIDE LIBRARY vol.003
おんなのアルバム キャバレー・ベラミの踊り子たち(PDFフォーマット)

伝説のグランドキャバレー・ベラミ・・・そのステージを飾った踊り子、芸人たちの写真コレクション・アルバムがついに完成!

かつて日本一の石炭積み出し港だった北九州市若松で、華やかな夜を演出したグランドキャバレー・ベラミ。元従業員寮から発掘された営業用写真、およそ1400枚をすべて高解像度スキャンして掲載しました。データサイズ・約2ギガバイト! メガ・ボリュームのダウンロード版/USB版デジタル写真集です。
ベラミ30年間の歴史をたどる調査資料も完全掲載。さらに写真と共に発掘された当時の8ミリ映像が、動画ファイルとしてご覧いただけます。昭和のキャバレー世界をビジュアルで体感できる、これ以上の画像資料はどこにもないはず! マンボ、ジャズ、ボサノバ、サイケデリック・ロック・・・お好きな音楽をBGMに流しながら、たっぷりお楽しみください。

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ROADSIDE LIBRARY vol.002
LOVE HOTEL(PDFフォーマット)

――ラブホの夢は夜ひらく

新風営法などでいま絶滅の危機に瀕しつつある、遊びごころあふれるラブホテルのインテリアを探し歩き、関東・関西エリア全28軒で撮影した73室! これは「エロの昭和スタイル」だ。もはや存在しないホテル、部屋も数多く収められた貴重なデザイン遺産資料。『秘宝館』と同じく、書籍版よりも大幅にカット数を増やし、オリジナルのフィルム版をデジタル・リマスターした高解像度データで、ディテールの拡大もお楽しみください。
円形ベッド、鏡張りの壁や天井、虹色のシャギー・カーペット・・・日本人の血と吐息を桃色に染めあげる、禁断のインテリアデザイン・エレメントのほとんどすべてが、ここにある!

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ROADSIDE LIBRARY vol.001
秘宝館(PDFフォーマット)

――秘宝よ永遠に

1993年から2015年まで、20年間以上にわたって取材してきた秘宝館。北海道から九州嬉野まで11館の写真を網羅し、書籍版では未収録のカットを大幅に加えた全777ページ、オールカラーの巨大画像資料集。
すべてのカットが拡大に耐えられるよう、777ページページで全1.8ギガのメガ・サイズ電書! 通常の電子書籍よりもはるかに高解像度のデータで、気になるディテールもクローズアップ可能です。
1990年代の撮影はフィルムだったため、今回は掲載するすべてのカットをスキャンし直した「オリジナルからのデジタル・リマスター」。これより詳しい秘宝館の本は存在しません!

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捨てられないTシャツ

70枚のTシャツと、70とおりの物語。
あなたにも〈捨てられないTシャツ〉ありませんか? あるある! と思い浮かんだあなたも、あるかなあと思ったあなたにも読んでほしい。読めば誰もが心に思い当たる「なんだか捨てられないTシャツ」を70枚集めました。そのTシャツと写真に持ち主のエピソードを添えた、今一番おシャレでイケてる(?)“Tシャツ・カタログ"であるとともに、Tシャツという現代の〈戦闘服〉をめぐる“ファッション・ノンフィクション"でもある最強の1冊。 70名それぞれのTシャツにまつわるエピソードは、時に爆笑あり、涙あり、ものすんごーい共感あり……読み出したら止まらない面白さです。

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圏外編集者

編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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独居老人スタイル

あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。
たとえば20代の読者にとって、50年後の人生は想像しにくいかもしれないけれど、あるのかないのかわからない「老後」のために、いまやりたいことを我慢するほどバカらしいことはない――「年取った若者たち」から、そういうスピリットのカケラだけでも受け取ってもらえたら、なによりうれしい。

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ヒップホップの詩人たち

いちばん刺激的な音楽は路上に落ちている――。
咆哮する現代詩人の肖像。その音楽はストリートに生まれ、東京のメディアを遠く離れた場所から、先鋭的で豊かな世界を作り続けている。さあ出かけよう、日常を抜け出して、魂の叫びに耳を澄ませて――。パイオニアからアンダーグラウンド、気鋭の若手まで、ロングインタビュー&多数のリリックを収録。孤高の言葉を刻むラッパー15人のすべて。

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東京右半分

2012年、東京右傾化宣言!
この都市の、クリエイティブなパワー・バランスは、いま確実に東=右半分に移動しつつある。右曲がりの東京見聞録!
576ページ、図版点数1300点、取材箇所108ヶ所!

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東京スナック飲みある記
ママさんボトル入ります!

東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。
酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう、場末のミルキーウェイ。 東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。 チドリ足でお付き合いください!

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