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バックナンバー:2022年08月03日 配信号 収録

lifestyle 新宿区立総合天然宙屯地 5 最終回  埴輪のじいさんに弟子入りする (画・写真・文:小指)

 そういえば私は一度だけ、埴輪のじいさんのところへ弟子入りを考えたことがあった。このままバイト生活を続けていても将来になんの展望もないことに悲観し、いつにもまして精神的にどん詰まっていた時期だったように思う。
 周りの知人は結婚して子供を産んだり、仕事もそれなりの立場になっているというのに、私は将来の糧にもならない仕事で日銭を稼ぎながらじいさんたちと悠長に暮らしている。本来の目的である画家の夢も、無計画に掛け持ちしたバイトで絵を描く時間すらなく完全に本末転倒になっていた。今更ながら、私は「自分の今の状況は相当やばいんではないか」と焦りだしたのだった。
 だが、自分も友人たちのような世間的な幸せや安定を手に入れたいかと問われたら別にそういうわけでもなく、とにかくバイトで忙殺されている時間を一分一秒でも多く創作にあて、将来に繋がることしたい。それだけだった。
 だが、実際はグループ展やイベントに出たとしても赤字にしかならず、好きでやっているから金銭面は仕方がないにしろ、ただ大人しく絵を描いて展示しているだけなのに変なストーカーに絡まれたりとろくなことばかり起きるので、段々と私の心は折れていった。

 その頃から、ひとりで部屋にいると巨大な木綿豆腐に押しつぶされるようなじめっとした不安に襲われるようになっていた。一人でいると将来や実家へのプレッシャーで落ち込んでくるので、仕事以外の時間はほぼほぼ近所の喫茶店や図書館で時間を潰した。今思えば、こういう時こそ同級生と久しぶりに会ったりして、愚痴を言ったり情報交換したりすれば気が紛れてよかったのかもしれないが、あの時は変に気持ちが焦って誰とも会えず、近所の老人としか関われなくなっていた。
 ある日、家の前でいつものように埴輪のじいさんと遭遇したので、少し世間話をしていると、突然「今度、埴輪の作り方を教えてあげましょうか」と言われた。教えてもらったところでどうするわけでもないのだが、じいさんの埴輪教室なんてこんな珍機会はなかなか無いなと思い、私は「お願いします」と言った。そして、バイトの無い日に約束し、メモと携帯を持ってじいさんの部屋の玄関へ向かったのだった。

 いつもの玄関前に集まると、埴輪の材料らしきものが家の前に広げられていた。謎の白い粉が入った洗面器、ヘラ、手拭いと新聞紙。埴輪のじいさんは、洗面器に入った「埴輪の素(もと)」を指差し、「これ、なんだと思いますか」と私に尋ねてきた。「粘土?…でも粉だからなあ…」と首を傾げながら答えると、じいさんは私が悩んでいるのを楽しそうにしながら「違うんです。これです」と言って、靴棚から大きなずた袋のようなものを持ち出してきた。
 袋の中には、さっきの洗面器の中に入っていた謎の白い粉が大量に入っていた。覗き込んでよく見てみると、石鹸のような匂いと、いつもじいさんの部屋から漂っていたカビのような独特な匂いがツンと鼻にきた。そして、じいさんはこう言った。
 「これ、洗剤なんです」

 まさかの答えに、私はぽかんと口を開けたまま固まってしまった。念の為もう一度尋ねてみたが、本当にそれはどこでも購入できるような、洗濯などに使う普通の洗剤であるらしい。私が毎日眺めていた埴輪の原材料は、なんと「洗剤」だったのだ。
 それにしても、じいさんは一体全体、なぜ洗剤なんかを使って埴輪を作ってみようと思ったのだろう。埴輪や焼き物なんかで洗剤を使う人なんて、一度だって聞いたことがない。粘土に少し混ぜたりして使うのだろうか。でも、逆に脆くなりそうな気もする。考えれば考えるほど意味がわからず、ぐるぐると考えているうちに埴輪のじいさんは説明を始めた。

 なんと、混ぜるも何も、じいさんはこの洗剤100パーセントで埴輪を作るのだと言う。
 この洗剤に少しずつ水を加え、ちょうどいい硬さまで練り上げて埴輪の形にし、天日干して乾燥させたら完成なのだという。水を加えたらただ泡立つだけなんじゃないかとも思うのだが、じいさんいわく「大丈夫」とのことだった。普通の埴輪は、粘土で作ってから焼いて完成させるのが普通だろうが、じいさんの埴輪はそうしたものとは全く違うもののようだった。
 じいさんの埴輪は、すべすべした手触りで、十分な硬さもある。これが洗剤で作られているなんてやっぱりどうしたって信じられない。だが、埴輪のじいさんが実演しているのを観察させてもらうと、水を混ぜて捏ねてしばらくするとそれは本当にうどん玉くらいの硬さになってしまった。その「手つき」も相当な修練が必要で、下手な人がいくら捏ねてもこうはならないと言う。
 そして、じいさんはその「埴輪の素」を手に取ると、あっという間に埴輪の形にしてしまった。その手捌きは、まさに職人技だった。
 「すごいですね!!」
 「もう何十年もやってますからね。手が覚えてるんです」
 そう言って、埴輪のじいさんは次々と、ひとつ、またふたつと埴輪を作っていった。

 すっかりいつものように並べられた埴輪を、私は指差し「この後、焼くんですか?」と尋ねた。すると、埴輪のじいさんは「普通の埴輪は窯で焼きますけど、私の埴輪は焼きません。人間も、焼いたら死んでしまうでしょう? 埴輪も同じなんです。だから、私が作る埴輪はみんな生きてるんです」と言った。そう言われると、確かにそのとおりだなと思った。


 この独特な埴輪づくりの技法は、埴輪のじいさん本人が編み出したもので、この技法を知る人はなんとこの世にじいさんたったひとりしかいないという。ということは、この粉石鹸で作られた埴輪もこの世でじいさんしか作れないもので、唯一無二のものなのだった。

 私はここまで話を聞いて、なんだかすごいことを知ってしまった、と唖然とした。まるで、ジャングルの奥地で絶滅したはずの珍種のサルを見つけて、挙句そのサルから謎のサルの風習を教えてもらったような、そんな不思議な気分だった。ここへ越してきたばかりの頃はただの変わり者くらいにしか思っていなかったのに、偶然にしろ、私は相当珍しい人物と関わりを持ってしまったようだ。

 でも、ここで怯んだら埴輪教室が終わってしまうので、生徒たるもの何か質問をしなければならない。「こんなにたくさんの埴輪を毎日作っていたら、洗剤を調達するのも大変なんじゃないですか。いくら安売りをしてても…」と、作家なら誰もが気になる材料費問題について切り込むと、埴輪のじいさんは少し得意げに「実は…」と洗剤の調達ルートを教えてくれたのだった。
 そこで聞かされたのは、世にも奇妙な洗剤入手ルートであった。じいさんいわく、この材料の洗剤は全て某企業が提供してくれているもので、なんと埴輪のじいさんにはスポンサーがいたようなのである。
 「すごいですね、そんな人いませんよ!」と大騒ぎし、さらに詳しく問いただすと、その企業というのは驚くことに誰もが知っているあの大企業だった。かの昔、小堺一機とライオンの着ぐるみがゲストにサイコロをふらせて話をさせる、あのお昼の番組のスポンサー会社である。私はそれを聞いて、絶対に何かの間違いに違いないと思った。


 でも、花王の件がよくわからずとも、私はじいさんの人生が羨ましかった。じいさんにしか作れない埴輪をこの世に生み出した上に、今もなお人生をかけて埴輪を作り続けているのだ。それこそ、私の憧れる芸術家像だった。
 私はつい感動し、話の流れで自分の日々の鬱積した悩みを埴輪のじいさんに吐露してしまった。すると、じいさんは意外にもとても真剣かつ親身に聞いてくれ、最終的に「お若いんだから、なんだってできますよ」と励ましてくれた。埴輪のじいさんに言われると本当にそんな気がしてきて、ジーンときた。よく考えたら、これまで私の周りの大人は「お前には無理だ」とか「現実的になれ」とかそういった消極的なことしか言ってくれず、半ば洗脳のように「自分は何もできない」と思い込んでいた。だから、シンプルに「なんだってできる」と言い切ってくれたことが、できるできないは関係なしに嬉しかった。私は、埴輪のじいさんマインドの方で生きていきたいと思った。

 すると突然、埴輪のじいさんまで「私にも悔いがあるんです」と、告白を始めた。なんだなんだと聞いてみると、じいさんはどうも自分の埴輪の後継者を育てられないままにこの年齢になってしまったことが、とても心残りなのだと言う。
 「この技法が自分の代で絶えてしまう。そんな悲しいことはないです」と、そう憂いていた。埴輪業界のことはよく知らないが、確かに「洗剤で作る埴輪」なんてあまりにもニッチすぎて、継承しようとする人などよほどの変わり者か何も考えてないかしかあり得ないだろう。実際、この埴輪を作っているのがこの世にじいさんだけという現実が全てを物語っているだろう。
 今も、大学の自身の研究室などで若い人に埴輪の作り方を定期的に教えているしいが、皆志半ばで諦めてしまうと言う。(埴輪のじいさんは、今も大学教員をしていると言っていた。真偽のほどは定かではない)
 「今の若い人は、いいところまで行ってもやめてしまう人が多いですね。まあ大変な道ですから、仕方ないんでしょうが…」
 私は、自分の技術を次の世代に継承したいなんて一度だって思ったことがなかったからじいさんの意識の高さに驚きつつ、悲しむじいさんの姿が可哀想で、居た堪れなくなってしまったのだった。

 私は、思わず「この技法を継ぐには、大学なんかで特別な教育を受けた人でないと難しいのでしょうか」と埴輪のじいさんに訊ねていた。すると、じいさんは「そんなことはないですよ。根気よく埴輪を作り続けられる人なら、どなたでもできます」と言った。
 「じゃあ私も、頑張れば埴輪職人になれるんでしょうか」
 「なれますよ!」
 そして、この日を機に、私は埴輪のじいさんの元へ弟子入りすることになったのだった。

 埴輪のじいさんの生き様に憧れたのもそうだが、この時の私は「本気で埴輪を学べば、じいさんのように大学教授も夢ではないかも」などと、本気でイカれたことを考えていた。過去の自分がこんなに馬鹿だったなんて信じたくないけれど本当だったのだ。そして、あの時の私にとって、自分で選べる選択肢の中でいちばん地に足がついた仕事が「じいさんの埴輪の後継者」だった。


 翌日、下の階に来客があった。若い女性の声だった。
 階段から下を覗くと、そこには埴輪のじいさんとポロシャツ姿の知らない女性がいた。
 私が「おはようございまーす」と声をかけると、じいさんもこちらに向かって「おはようございまーす」と手を振ってきた。そして、隣の女性も会釈してくれた。今日は仕事の日なのだろうか?わざわざ出勤するのに家からお手伝いさんつきなんてすごいなあ、と私は感心した。そして、どこまでもおめでたい私は、この女性のことも大学関係者か自分以外の弟子のような人なのだろうと思い込んでいた。
 女性は、埴輪のじいさんに私のことを「お孫さんですか」と尋ねた。すると、じいさんは「いいえ、上にお住まいの方です」と言った。女性は不思議そうな顔をしていた。
 そして、じいさんはその女性に体を支えられながら、車道に停められていた車に乗り込んでいった。私はその車を二度見した。それは、明らかにデイケアの送迎車だった。

 私は混乱しながら、もしかしたらじいさんが時々話す大学や研究室の話というのは、ずっと昔の記憶か違う世界線の話だったのかもしれないな、とこの時気づいた。

 どんどん遠ざかるデイケアの車を呆然と眺めていると、ちょうどよくそこに大家が通りかかった。慌てて声をかけ、私は埴輪のじいさんのことを遠回しに尋ねた。すると、大家は「大学教授ゥ!?なわけねえだろ、バカ」とのことだった。「まあ昔はなにやってたのか知らねえけどよ、そういう時もあったんじゃねえか?新宿には色んな奴がいるからな」

 そして大家は、呆れた顔で「そんなことより、お前この先どうすんだ? この家もそろそろガタが来るだろうし、将来のこと考えた方がいいぞ。まあ慌てる必要はねえけどさ…」と言い、「イトーヨーカドーへ行ってくる」と言ってどこかへ行ってしまった。まさかさっきまで埴輪のじいさんのところへ弟子入りするつもりでいたとは口が裂けても言えなかった。
 やっぱり、自分が「これ」と決めたことに自分の人生を使いたい。軽い気持ちで埴輪職人になったって、それこそ埴輪のじいさんに一番失礼なことだ。私はもういい加減、自分の人生を生きなければならないのだ。

 この家にはきっと、明るい場所で生きている人たちは気づかない、流れ着いた人だけがわかる少し変だけど癒しのような不思議な時間が流れている。そして、この家と出会ったことにも必ず何か意味があるのだろう。
 自分がこの先一体どんな人生を送るのか、本当に絵描きになれるのか。
 でも、この先たとえ私が何になれなかったとしても、この家で過ごした日々を何かしらの形でいつか必ず作品にして残したい、と思うようになった。
 そんな夢が、私にもできたのだった。


モラトリアムの終わり

 初めは散々に言っていたこの「埴輪ハウス」だったが、気づいたらあっという間に何年もの月日が経ち、このあまりの異常なほどの居心地の良さに、生まれた時からここに住んでいたんじゃないかと思うくらいすっかりここが「自分の家」になってしまった。ここでは誰の干渉もなく、本当に自由だ。私は、やっと見つけたこの安心の場所を、手放したくないと思った。
 でも、ここは賃貸なのでいつかは必ず出ていかなければならない。お金があれば、埴輪のじいさんごとこの家を買いたいくらいだったが、そんな貯金も私には持ち合わせていない。おそらく人生10周くらいしないと、私はこの家を買い取れるほどの貯金を貯めることはできないだろう。
 それでも私は、正直死ぬまでここに住んでいたかった。

 ここにいる間、近所はどんどん再開発が進んでいった。引っ越してきた当時からあった、古い洋食屋やクリーニング屋もどんどん店を畳んでしまい、目の前にはいつの間にか大きな道路とタワーマンションができていた。
 タワーマンションの下には新しく大きなスーパーもでき、急に住人が増え、街の雰囲気や風景もガラッと変わった。最初こそ私もその恩恵を受けて楽しんでいたが、しばらく利用しているうちに段々増えてくる家族連れを眺めながら、少しずつこの街の雰囲気とそぐわなくなってきている自分自身に気づいた。この地域はきっと、これからもっともっと変わっていくのだろう。私たちの居場所も、気づいた頃には押し出されるようにすっかり無くなってしまっているかもしれない。そんな日が来るのも、時間の問題かなと思った。
 この家へ来たばかりの頃は、「ここから頑張ろう」なんて意気込んでいたが、結局私はまだ全然バイトの生活から抜け出せていなかった。親との「30代までにダメだったら教員になる」という苦し紛れの約束の期限も着実に近づき、「来年採用試験受けるんでしょ」「うん」なんて会話もしていた。でも、正直受ける気なんて1mmだって無かった。とはいえ、自分に何ができるかと考えると、本当に何もできる気がしなかった。

 私はここで暮らして、毎日バイトに行き、合間の時間に近所の喫茶店へ寄って絵を描いて、そんな変わり映えのない日々を一日でも長く続けていたい。それだけだったのだ。


埴輪のじいさんとの別れ

 この家で過ごして6年目の秋口頃だったと思う。最近、埴輪さんのじいさんを家の周りで見ないなと思った。じいさんの部屋の戸は固く閉ざされ、埴輪も外に出ていなかった。もうひとつの家があると言っていたから、最近はそっちで生活しているのだろうか? 最後に会った時、「いつも家の前で立ち話はなんだから、みんなで食事でもしましょう」なんて言っていたのに、どうしてしまったのだろう。気にはなっていたのだが、その時彼氏が私の部屋に転がり込んできたり、バイトだけでなく展示などでも忙しくなっていたので、様子を見に行きたくてもなかなかできない日々が続いていたのだった。

 そんなある日、インターホンも表札も無い我が家に、珍しく来客があった。戸を叩く音がし、階段を降りて戸を開けてみると、そこには見知らぬ数人の男がいた。警察のようだった。
 話を聞いてみると、なんと埴輪のじいさんは下の部屋で一人、ひっそりと亡くなっていたようだ。あまりに驚き、まったく現実と思えなかった。
 「○○さんのご家族の方でしょうか」
 「いえ、上に住んでいる者で……」
 私がそう言うと、警察は納得のいかないような顔をしていた。確かに、家族でもないのに不思議な関係だと思う。こんな小さな家に他人同士が住むなんて。でも、私たちは本当にこの家で一緒に住んでいたのだった。

 放心して部屋に戻り、私は彼氏にじいさんのことを伝えた。
 なんで同じ家の中にいたのに、気づけなかったのだろう。心臓発作だろうか。それとも何かの病気だったのだろうか。そういえばたまに咳きこむことがあった気がする。どこか体でも悪かったのだろうか。
 一緒に住んでいたのだから、なにかあったらすぐに呼んでくれたらよかったのに。あれほど普段から音が筒抜けなのだから、ちょっと声をかけてくれたら、気づいて助けに行ったのに。でも、そんな声を出すほど元気もなかったのかもしれない。布団の上で、ひとりぽっちで天井を見つめる埴輪のじいさんの姿を想像したら、とても悲しくなって息がつまった。
 その時、彼氏がおどおどしながら「そういえば一度、夜中に下のおじいさんの呻き声が聞こえた気がする」と言った。
 私は、「なんで私に言ってくれなかったんだ」と叫んだ後、ひとり大泣きした。

 数日後、埴輪のじいさんの部屋にたくさんの人が来ていた。いつもそうしていたように2階の窓から覗き込むと、若い男の人と目があった。直感で、あれが埴輪のじいさんの息子さんだろうと思った。びっくりするほど立派な感じの人だった。
 そして、しばらくして静かになった後、再び下へ覗きに行くと、埴輪のじいさんの部屋の中はすべて空になっていた。


無題(2015)

さらば、埴輪ハウス

 結局その後、埴輪のじいさんがこの家で亡くなってしまうと、初めの約束通りこの埴輪ハウスは立て壊されることが決まった。そして、私はその立て壊しの数日前まで、この家に居座っていた。気づいたら7年もの月日が経ち、私は30代になっていた。

 今も私は新宿の街を歩くたび、当時の生活の面影を感じてたまらない気持ちになる。歌舞伎町のメインの通りから脇道に入り、大きな車道を一本越えると我が家がある通りに出る。その近所には、昔からの喫茶店や銭湯がまだ残っていて、幸い私の大切な場所は今もこの町で存在し続けてくれている。だが、埴輪ハウスはもうどこにも存在しない。

 私は深夜に不安な気持ちになると、近所の「弁天湯」という銭湯に一人でよく行っていた。いくら心細くても、知らない人たちとすっぽんぽんになって同じ湯船に浸かるだけで、不思議とあらかたの気分は治ってしまうのだった。そして、夜道を自転車で帰ってくると、大体いつも埴輪のじいさんの部屋の灯りがついている。それを見ると、なぜかとてもほっとした。
 自室に着いたら、私は電気もつけずに布団の中へ潜り込む。すると、下階からじいさんが食器を洗う音や、ラジオの音、そして網戸越しに聞こえてくる鈴虫の声が聞こえてくる。この家に来るまでは、まさか新宿で虫の音が聞けるなんて思ってもいなかった。そうした音たちに耳を澄ましていると、自然と微睡み、気がつくと朝になっていた。そんな生活に、私はもう戻れないのかと思うととても寂しいけれど、あの日々の記憶ほど私にとって大切なものはない。私は、この家での生活が好きで、なによりこの家で暮らす自分が好きだった。

 じいさん達との暮らしは今思い返してもなんだか夢のようで、これまで人と人間関係を築くのがあまりにも苦手で実の家族ともぶつかってばかりいた私が、ここでは本当に毎日平穏だった。私はいつか、自分の家族とも、じいさんたちとのような関係を築けるようになりたいと思う。

 もし私の人生に「青春」なんていうものがあるとするのなら、間違いなくあの家で過ごした時間がそれだったと思う。何もうまくいかず、思い出すことが少し恥ずかしいくらいの日々であるが、そうした人生の岐路にこんな宝物みたいな存在が隠されていたなんて、本当に人生はわからないものである。


小指/小林紗織 https://twitter.com/koyubii

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旅するごとに、だれかと出会いシャッターを押すごとに、読者のみなさんと一緒に拡がりつづける時間と空間の痕跡、残香、傷痕……そんなふうに『わたしたちがいたところ』とお付き合いいただけたらと願っています。

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編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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