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バックナンバー:2022年10月12日 配信号 収録

art museum of roadside art 大道芸術館、オープン!


先週の編集後記でひっそりお知らせしたとおり、東京墨田区の花街・向島に「museum of roadside art 大道芸術館」が10月11日、公式オープンした。

永井荷風の『墨東綺譚』で知られる「墨東」は隅田川の東側を指す。川を挟んだ西側(都心側)が浅草で、言問橋(ことといばし)を渡った東側がスカイツリーのある押上、向島、京島などを含む墨東地域。江戸時代から花街として栄え、『鬼平犯科帳』などでもしばしば登場するので、名前だけは知ってるというひとも少なくないだろう。

向島にはいまでも9軒の料亭が営業中で、70数名の芸者衆もいる。東京の芸者と言えば新橋、赤坂などが知られるが、実はいま東京で現役の芸者のほぼ半数が向島芸者で、この人数は京都祇園甲部といい勝負。京都で舞妓と呼ばれる見習いは東京では半玉と呼ばれ、東京の六花街(赤坂・浅草・神楽坂・新橋・芳町・向島)のうち、数名ながら半玉がいるのは向島だけとか。ちなみに最近、祇園の元舞妓さんの内部告発が話題になったが、東京の半玉さん(というより京都以外の全国の花街)では、法令により18歳未満の女性がお酒の席に出ることはできないようになっている。

そういう伝統がいまも生きる向島の花街に、3年近く前に閉店した料亭の建物を見つけたのが春ごろのこと。ずいぶん前から「いまの時代に秘宝館を開きたい」と言ってくれるひとがいて、でも東京では場所を探すことすら難しいだろうと思っていたのが、コロナ禍もあって一気に進展。3階建ての建物を全面的に改装し、半年弱ぐらいでオープンにこぎつけられたというのが経緯である。

設計は帝国ホテルの「GARGANTUA」や、表参道の「SKINCARE LOUNGE BY ORBIS」、細野晴臣デビュー50周年記念展「細野観光1969 - 2019」も手がけた建築家・工藤桃子さん。運営は『GOLD』や『みるく』などたくさんの店を一緒につくってきた佐藤俊博さん。秘宝館をはじめとするアートワークの設置は、僕の展覧会をほとんどすべて担当してくれて、秘宝館の構造に日本一詳しいスーパーファクトリー。そしてドールのコスチュームは、まぼろし博覧会セーラちゃんへの衣装提供などでも知られる話題のデザイナーYOMI nokuniさん。これ以上ないチームで、たぶんいま東京でいちばんビザールな遊び場をつくることができた。

先週号の後記で「集大成というには大げさですが、最近はこじゃれてすっきり、意識高い「ていねいな暮らし」系の店ばっかりな気がするので、大道芸術館は思いきり意識低い!てきとうな人生!から生まれたイロイロが集う場にしたいと思っています」と書いたけれど、ほんとにそのとおり。向島の花街が伝統的でありながら格式張らない下町の気風を受け継いでいるように、大道芸術館もミュージアムという名前をつけてはいるけれど、ヘンテコな作品を楽しみ、お酒を楽しみ、よかったら昭和のカラオケも楽しんでもらえたらという、しごくお気楽な空間になったらいいなというのがスタッフ全員の切なる願い。

なので、やはり先週号で書いたように大道芸術館はしばらくメディア取材完全NG。入館は完全予約制。クチコミで静かに知ってもらえたらと思っているので、今回は印刷媒体・ネットを含めて唯一!の館内紹介を、これからご覧いただく。3つのフロアを3週にわたってのご案内。もし気に入ってもらえたら、ぜひ専用サイトからご予約を。これまでロードサイダーズ・ウィークリーで紹介してきたアーティストもたくさん含まれているので、この機会に実物の作品に触れてもらえたらうれしい!

昭和の純喫茶、昭和の歌謡曲、昭和のラブホテル……
半世紀近く前の日常文化が、いま熱く語られている。
半世紀前には生まれてすらいなかった若者たちによって。

いまだ日本最大の集客記録である6千万人以上が集い「人類の進歩と調和」を目撃した、
1970年の大阪万博で頂点に達したあの時代。
あちこちの観光地に、祭の場に、路傍に咲いた昭和元禄の徒花たち。
それはもう昭和を知らない若者の幻想にしか花を咲かせられないのか。

美術館は珍しいもの、ひとつしかないものを集め見せてくれる。
どこにでもあったもの、たくさんあったものは、ほとんど忘れられ、いつのまにか消えていくだけだ。
そうやって僕らはひとつ、またひとつ宝物を失っていく。失ってから気がつくことを繰り返しながら。

長いあいだ日本の路傍をさまよいながら、光と陰のあいだに矢のごとく消えていく文化のかけらを拾い集めてきた。
そのいくつかをここに見せる場ができて、失われた文化の残像だけでも甦らせることができたら、
もう半世紀近くなった僕の旅もまったく無駄ではなかったことになるだろう。
(ステートメントより)

[museum of roadside art 大道芸術館 誌上ツアー]

大道芸術館(以下MORA)は元料亭だった3階建ての建物全館を使っている。料亭時代そのままの木戸をがらがらと開けると、お出迎えするのが鳥羽の秘宝館入口にあった女体入りカプセルだ。












入口脇にはやなぎみわの初期作品《案内嬢の部屋 1F》1997年

1階向かって左側の奥に進むと、貸し切り用のカラオケルームがある。とはいえ今どきの通信カラオケではなく、長く収集してきた昭和のレーザーカラオケ、およそ1500曲の映像で歌っていただける特別な「音楽室」だ。デザインのテーマはデコトラ! 運転席に使われる「金華山」と呼ばれる高級生地を贅沢に使っている。



レーザーカラオケは3分間の人生劇場だった

分別あるはずのオトナから分別を奪い去るカラオケの魅力、それはなにより歌詞の魅力なのだと思う。「別れる前に、お金をちょうだい。そのほうがあなただって、さっぱりするでしょ」なんて美川憲一の心境におのれを重ね合わせられるようになるのは、やっぱりこれから人生下り坂と悟る中年期にさしかかってからのことだろう。

スマホにヘッドフォンで聴くのと、スナックのカウンターで水割り片手に歌うのでは、同じ美川憲一でも、こころに染み入る深度がまるでちがうのは、カラオケ好きならだれでも理解していること。カラオケは歌というものの持つパワーを、別の次元に持っていくためにできた装置なのかもしれない。


20世紀後半は音楽が革命的な転回を遂げた時代だった。エレキギターという、だれでも簡単に巨大な音を出せる機械を得たロック・ミュージックが、それまでの音楽家という専門職を土台から揺るがせた。”楽器が演奏できなくてはならない”という大前提をヒップホップのターンテーブルが、”歌がうまくてはならない”という大前提をラップが破壊し、そして”歌は専門家が歌って聴かせるもの”という基本常識を見事にひっくり返したのが、カラオケという魔法の箱だった。

1971年。ジム・モリスンが死んだその年に、ジョン・レノンが歌った『イマジン』よりも、レッド・ツェッペリンの『ステアウェイ・トゥ・ヘヴン』よりも、大阪の片隅で生まれた「カラオケ」が世界を変えることになろうとは、当時のいったいだれが予想しただろうか。

カラオケ=「空のオーケストラ」はもともと8トラックによるテープ演奏のかたちで1970年代に広まったが、1982年に「絵の出るカラオケ」で革命的な進展を迎えることになった。レーザーディスクによるカラオケの登場である。

LPと同じサイズの、直径30センチのディスクを使用するレーザーディスクは、1978年にアメリカで初めて商品化されたが、「レーザーディスク」という名称がパイオニアの登録商標であることからもわかるように、日本のパイオニアがリードしてきた技術であった。


映像・音声ともに圧縮のかからないデータを記録できることから、画質も音質も現在のDVDより優れたレーザーディスクは、日本ビクターの開発したVHD方式との競争に、圧倒的な不利をはねかえして勝利をおさめ(採用メーカー数ではレーザーディスクがパイオニア1社だったのに、VHD陣営は13社だった)、映画ソフトとカラオケ・ソフトの両方で全国に普及していった。

レーザーカラオケはひとつひとつの曲ごとに作られた映像を伴奏とともに提供する、それまでとはくらべものにならない情報量の詰まった魔法の装置だった。8トラックテープを使ったカラオケでは、歌詞カードや歌本を見ながら歌わなくてはならなかった。それがレーザーディスク時代になって映像と音声を同時に提供できるシステムになって、歌い手は映像と伴奏に自分の声を乗せることで、楽曲の表現する世界に完璧に没入することができたるようになった。自分が歌の世界の主人公になって。

レーザーカラオケの黄金時代は、しかし長く続かない。1992年に登場した通信カラオケは、楽曲の多さと管理の容易さで、あっというまにレーザーの巨大な機械をスナックから追放していった。家庭用カラオケ・ソフトとして細々と生産されていたレーザーディスクも、2007年にすべてのメーカーが生産終了。プレイヤーも現在は一社も製造していない。
 いま、カラオケと言えばそれは通信カラオケを指す。ハードディスクに記録された、楽曲とはなんの関係もない環境映像。それがいちじるしく歌う感興を削いでも、もうだれも奇妙とは思わない。

曲ごとに映像と音声が制作されたレーザーカラオケは、その一曲一曲が3分間の短編映画だった。歌の世界を映像で補強する、ヴィジュアル・ランゲージだった。

たった10年間かそこらのうちに、何万曲ものカラオケ楽曲のために何万本もの短編映画が作られて、何万ものロケーションと、何万人もの俳優たちの演技が記録されて、そしてそのすべてが見事に捨て去られて、いまはだれひとり保存しようとすらしない。

もう存在しない、日本各地の貴重な風景が数多く収録されながら、図書館もフィルムセンターも興味を持とうとすらしない。

レーザーカラオケの映像世界、それは僕らの失われた記憶の海なのだ。


カラオケルームのガラステーブルをけなげに支えるのは、オリエント工業製のラブドール。珍しい「泣き顔」だ。奥の壁面には天才蝋人形師・松崎覚さんによる艶やかな蝋人形が覗き窓のような小部屋で微笑んでいる。


東京杉並区の住宅街に、深い木立に隠れる洋館。松崎覚さんの「蝋プロ」を初めて訪ねたのは、帰りのタクシーの中で運転手さんから「なんかニューヨークで飛行機がビルに突っ込んだみたいですよ」と教えてくれた日なので、いまでも忘れられない。洋館の室内にはピカソやチェ・ゲバラやジョン・レノンが暗がりに佇み、グランドピアノの上では昭和天皇の頭部がメガネ越しにこちらを見ていた。

蝋人形に手を触れてみたことがあるだろうか。つかみどころのない滑らかな肌が、触っているうちに掌の体温で温められ、しっとりと汗ばむように指に吸いついてくる、あの指先の官能を体験したことがあるだろうか。

蝋人形は似ていなくては話にならない。姿かたちはもちろん、表情から皺の寄りぐあいから、皮膚のざらつきや産毛の生えぐあいまで、蝋人形師はみずからの作品を「原型」のできるかぎり忠実な再現とすべく心血を注ぐ。異なる種類の蝋を混ぜて肌の張りを表現し、一本一本人毛を植え、血管の色に染めた蝋の管を皮膚の下に埋め込む。そうした気の遠くなるような作業はほとんど、蝋にいのちを吹き込むことにほかならない。

世界でも屈指の技術を誇る蝋人形師・松崎覚さんは1944年生まれ。2歳上の兄・次郎さんと共に独学で蝋人形を作りはじめたのが1970年代初頭。84年に独立して蝋人形制作工房「蝋プロ」を設立して以来、日本や世界の偉人、歴史的人物、政治家、芸能人……さらにはときおり舞い込んでくる個人からのビザールな注文に応じて、精巧極まる「ひとがた」を生み出してきた。


マダム・タッソーに代表されるような一般的な蝋人形は、粘土の原型から石膏型をつくり、そこに蝋を流し込んで固めた人体に彩色していくが、松崎さんは極力彩色を避け、さまざまな種類、色合いの蝋を自在に組み合わせながら、蝋の肌が語りかけるような蝋人形をつくる。たとえば手の全体をつくり、そこに濃い色の蝋でつくった血管を乗せ、さらに半透明の蝋の皮膚を乗せて微妙な透け具合を表現する、というふうに。

松崎さんの作品のうちでも、なかなか展示が難しいエロチックでミステリアスな蝋人形が、いつのまにか松崎さんのアトリエからわが家にやってきた。そのうちの3人が、いまこの館内に潜んでいる。



そして壁面を飾るのは「ブラック・ベルベット・ペインティング」と呼ばれる、かつてアメリカを中心にポピュラーだったお土産用の絵画。画用紙やキャンバスの代わりに、通常黒いベルベット地に描かれた手描き作品である。戦後アメリカで普及し、キッチュな土産物の代名詞となった。特に人気だったのが「ベルベット・エルヴィス」と呼ばれたエルヴィス・プレスリーやジョン・ウェイン、ネイティヴアメリカン、オオカミ、イエス・キリストなどとともに、1960~70年代にはこうしたエキゾチックなニュアンスを漂わせるヌード・ベルベットもよく描かれていた。それはTIKIに代表されるエキゾチカ・ブームの一端と見ることもできる。

1970年代にはメキシコにブラック・ベルベット・ペインティングを専門に手描きで量産する工場があったそう。ここで展示しているのは鳥羽の秘宝館で、階段部分を飾っていたブラックベルベット・ペインティング。派手な金色の額に収められ、お客さんの気分を盛り上げていた。



カラオケルームの入口まわりは小さめの作品で飾られている。


《美川憲一》小川卓一

港からすぐに商店街、その先は高台に向かって張りつくように住宅街が広がる尾道。その階段迷路のような街並みの一角に「ふりむき館(やかた)」があった。地元の人間だけに知られながら、日々増殖してきたプライベート・ギャラリー。その主が小川卓一さん。

1921(大正10)年生まれ。子供のころから絵は好きだったそうだが、もちろんその道に進むわけでもなく、21歳で出征。旧満州の航空隊で事務官になって、終戦とともにギリギリのタイミングで故郷に帰り着く。

終戦後は繊維街社勤務を経て、自宅で繊維工場を開業。おもに布団をつくってきて、60歳を過ぎて引退。もともと「仕事場の壁が寂しいので、「綿壁」(繊維壁)に色を付けてコテで絵を描いたのがきっかけ」だというが、本格的に絵を始めたのは仕事を辞めたあと。山歩きをしたり、尾道健康体操協会を設立して、独自の健康体操の普及に勤めたりしているうちに、ひとにすすめられて尾道美術協会の研究所で学ぶようになった。「最初のころに大山を描いて、すごく褒められた」のが刺激になったのか、3年ほど研究所に通ったあとは、プロの画家に混じって尾道美術協会の一員に。そこで長く活動したのち、「90歳になって、もういいかと」退会。それからは自分ひとりで制作活動を続けている。

仕事を引退してから趣味で始めただけ、と控えめな小川さん、「すべて廃物利用!」と笑うとおり、石材加工の工場からもらった石版に油彩で絵を描いた作品は、外に出しっぱなしにしているうちに「絵の具が溶けた」し、おびただしい数が並ぶ皿絵は「観に来たみなさん、だいたい持って帰るなあ」と執着ゼロ。「ふりむきやかた」自体もカギをかけていないので、「いつでもだれでも見れる」と平気な顔で教えてくれた。

お会いしたときは93歳で、数年前にバイクの転倒で脚を少し傷めたのと、耳が少々遠いぐらいで、元気いっぱい。「とにかく昔からよく噛んでたから」という歯も20本健在で、表彰されたそう。「お茶飲みなさい」「まんじゅう食べなさい」「好きなもんあったら持ってかえんなさい」としきりにすすめながら、ひとつひとつの作品の解説を、こちらが心配になるほど熱心にしてくれる。この「美川憲一」皿も、そうやっていただだいたものだ。

2020年11月7日、小川さんは99歳でこの世を去った。享年99歳、100歳間近だった。


《ノーマ・ジーン・ベーカー》ピエトロ-L-キクタ

ピエトロ-L-キクタ画伯は路上生活者=ホームレスの画家。ふだんは横浜駅西口ダイヤモンド地下街に下るエスカレーター前で「ビッグイシュー」を売って生活費としているという。美術評論家・宮田徹也さんの尽力で、2011年と2012年にホームグラウンドの横浜で個展も開催している。

「函館にいた、元ボクサーだった、絵は独学だという声が風の噂で聞こえて来るが、そのようなことはどうでもいい。キクタが現在、横浜に流れ着き、活動拠点として定め、これから多くの油彩画を発表していこうと野心に溢れている」と、宮田さんは展覧会の紹介記事に書いていた(2012年)。いまも制作を続けていらっしゃるだろうか。


香港の陶器人形

まだ英領だったころの香港、裏通りのジャンク骨董ショップを漁っていたら、美女に耳かきされて至福の表情のじいさんに将来の自分を見た気がした。値段も手ごろだったので東京に持ち帰った陶器人形。極細の耳かきがよく、いままで折れずにいてくれた。


吉岡里奈

描くもの、書くもののイメージと、本人の見かけがかけ離れているというのはよくあること。僕もそう言われることが多いが、2016年に『女たちの夜』というZINEのような作品集を、作者である吉岡里奈そのひとから手渡されて、「え、これ描いたんですか?」と、かなりとまどったのを覚えている。目の前に広げられたお色気熟女(とオヤジ)がプンプン振りまく昭和の匂いと、目の前にいる女の子の見かけが、どうしてもうまく合わさらなかったからだ。そんな吉岡さんの作品がMORAには2点、展示されている。

吉岡里奈は1977年生まれ。東京都大田区から多摩川を隔てたすぐ対岸、川崎市中原区に生まれ、ずっと同じ土地で育ち、最近まで実家の2階を仕事場兼寝場所にして、祖母、母と3人の女所帯で暮らしていた。

生まれてからいままでずっと、このへんなんです。ちゃんと就職もしなかったので、実家を出るきっかけがないままずるずると来たというか……恥ずかしいんですけど。

物心ついたころから、壁一面に絵を描いてトランス状態に入ってるような子どもでした。クラスでもふだんは地味に目立たない生徒で、美術の時間だけみんなが机に集まってくる、みたいな。ほんとに取り柄が絵を描くことしかなかった。

小3のときに多摩美を目指して(笑)、高校時代に立川美術学院(美大予備校)に通うようになったら、ちょうど映像学科が新設されたときで。それが楽しい授業だったし、映像制作というのはデザインでもなければ、ファインアートでもない。そこに興味を惹かれて、多摩美の芸術学科映像コースを受験して無事に受かったんです。

でも美大に入ったら、それで満足してしまった感じがあった(笑)。それに自分の才能のなさというか凡人さと、あと卒業制作の大変さに燃え尽きてしまい……。卒業後もいろんなバイトを転々としてたんです。そのころは絵もほとんど描かなくて、もしかしたら仕事を絵から逃げる口実にしてたのかもしれない。

30歳ごろになって、もういちど絵で勝負しようと思ったんです。いまやらないと、もうどうしようもないって。それで青山ブックセンターが主催する青山塾で、イラストレーション講座を受講し始めました。もちろんバイトしながらだけど、青山塾に通ってた2009年に、友達から目黒雅叙園の夏祭りのポスターを頼まれたんです。それが「昭和の竜宮城で唄う!踊る!」というコンセプトで……あえて昭和っぽい絵を描いてみたら、思いがけず好評でした。荒ぶるタッチというか、劇画タッチが昭和の感覚とうまくマッチしたのか。自分の絵が昭和に合ってるって初めて言われて。このときにやっと自分らしい感じをつかめた気がしました。

それまで自分がことさら昭和マニアという意識はなかったけど、誉められて初めて「自分ってこういうの好きなんじゃん」と実感したというか。当時の映画のスチール写真のざらざら感とか、そういえばすごく好きだなと。で、いろいろ資料を集めたり、名画座で昭和の映画を探して観るようになりました。神代辰巳の『赫い髪の女』(にっかつロマンポルノ)みたいな、ああいう蓮っ葉だけど強くて優しい昭和の女の感じって、いまはないじゃないですか。

でも私、思い出してみると5歳くらいのとき、すでにビキニの女の子とか、パンツ一丁の女の子とかをこっそり描いてたんですね。子どもごころにこれは母親に見つかるとまずいと思って、隠したりしながら。


だからいまでも絵の対象として描きたいのは、ぜったい女なんです。男には興味なし。おじさんは描きますけど、それはエビフライのパセリみたいな添え物。若い男にはさらに興味ないし、ぜんぜん描けないです。だって女は顔だけで3日くらいかかったりするけど、おじさんは2時間ぐらいで描いちゃうから。

ああいう、おじさんならではの欲の剥き出し感というか、昭和的な泥くさい顔が好きなんですね。でも、だからといって絵に出てくるような女のひとになりたいとか、おじさんと付き合いたいとか、そういう気持ちはない(笑)。彼氏はいるけど、昭和っぽいおじさんじゃないし、お酒が飲めないので、バーとか酒の場にいることも苦痛だし。

だから私の絵は実体験でもなんでもなくて、すべて妄想の産物なんです。絵を買ってくれるのは昭和を知っているひとばかりで、それも男性ばかり。そういうひとに私の妄想を見てもらえるのはうれしいけど、自分そのものではないから。けっきょく妄想としてエロい絵を描くことで、もしかしたら親離れをしようとしてるのかもしれないけど(ものすごいお母さん子なので)、私は天才ではありえないし、アウトサイダー・アーティストにもなれない。ただの凡人が、凡人なりに、見てくれるひとになにを返そうかというのを、最近すごく考えるようになったんです。

そんな自分が絵を描いて、お金をもらえるというのが、いまはすごくありがたくて、どうしたら見たり買ったりしてくれるひとたちに返せるだろうと。どうしたら、もっと楽しんでもらえるだろうと。そんなことばっかり考えちゃう。私の絵で、日々の疲れが一瞬ほどけてくれればいいな、とか。


バンコクの犬

バンコクのショッピングセンターをぶらぶらしていたら、肖像画屋が並んでる一角に出た。古い写真を持っていくと立派な油絵に描き起こしてもらえる、日本でも昔はよくあった商売だ。狭苦しい店の壁に、おじいさんやおばあさんの顔や、どうでもいい風景を描いた油絵がびっしり掛けてある。その下ではイーゼルをずらりと並べて、若い画家たちが小さな写真を脇に置いて一心に絵筆を振るう。その雰囲気が好きで、このへんをよく散歩していた。

こういうところはたいてい肖像画や風景画に混じって、ヨーロッパの名画が並べてある。ダヴィンチのモナリザあり、モネ、ダリ、クリムト、意外なところではタマラ・ド・レンピッカなんてのもよく見かける。どれも有名な作品ばかりだが、オリジナルとまるでちがうサイズだったりするもの愛嬌というもの。それにしてもポスターじゃなく手描きの油絵だから、やっぱり独特の存在感がある。

そのとき僕が立ち寄った店には、ダリやクリムトと並んで、ウォーホルのマリリンとリキテンシュタインがドンと飾られていた。どっちも高さ1メートルぐらいあって、けっこう大作だ。写真や漫画雑誌をもとにウォーホルやリキテンシュタインが描いた絵が、今度はバンコクの街の片隅で、もういちどコピーされて油絵になっている。すごくポップじゃないか。

感心して眺めていたら、商売熱心な店のお姉さんが、「安くしとくわよ、どう?」と近寄ってきた。いくらなのと聞いたら、どっちも1万円くらいでいいという。すごいね、これが本物だったら、ウォーホルもリキテンシュタインも1億円はするだろう。オリジナルの1万分の1の値段で、コピーが買えるわけだ。ま、そのオリジナルだって、言ってみればモンローの写真や漫画雑誌のコピーなんだし。これってポップアートの精神そのままかも、と思ったら楽しくて1枚買って帰りたくなった。だって値段が1万倍ちがったら、これはもうフェイク=贋作じゃない。なにか別の存在だろう。

狭い部屋に大きなマリリンは飾りたくないので「ウォーホルで、なんかほかのないの?」と聞いたら、お姉さんは「いまないけど、これ見て選んでちょうだい」と、分厚いウォーホル作品集を取り出してきた。なるほど、店の一角に置かれた本棚に、ダヴィンチだの印象派だの、世界の名画大全集みたいな本がずらりと並んでいる。途中から入ってきたオーストラリア人らしい中年夫婦は、「うーん、これもいいね」なんて言いながら、椅子に座り込んでモネの『睡蓮』の、いろんなヴァージョンを見比べたりしてる(50何億とかで、本物の『睡蓮』を買った地中美術館の人に見せてあげたかった)。

お姉さんによれば、本の中から好きな作品を選んで、サイズを指定すれば3日間で描いてくれるそうだ。東南アジアにはよく「滞在中にスーツ仕上げます」なんて洋服屋があるけれど、これはその絵画版というところ。壁にはちゃんとサイズごとの値段表も貼ってある。

ずしりと重いウォーホル大全集の中から、僕は1964年のフラワーを選んで描いてもらうことにした。ウォーホルが手がけたうちでも初期のフラワーで、オリジナルはピッツバーグのウォーホル・ミュージアムにある各辺1メートル以上の大作である。もちろん、そんなのは部屋に飾れないので、30センチ角ぐらいの、すごく小さなキャンバスに描いてもらえないかとお願いしたら、もちろんいいわよとのお答え。で、お値段はと聞くと、ちょっと計算してから「3500円でどう?」と。オリジナルと較べると「万」を取った感じですね。

こんな肖像画屋がバンコクにはたくさんあるし、ベトナムでも、ほかの国でもけっこう見た。こういうところで名画のコピーを買うお客さんというのは、もちろん絵画コレクターではない。自分の部屋を模様替えしたり、友達が家を新築したりして、壁がさびしいからなにか飾ろうというていどの人たちだ。アート好きとかじゃなくて、ただ気持ちいい空間に暮らしたいだけの人たちが、コンセプチュアルな現代美術のポスターよりクリムトの油絵を選ぶというのが、僕にはすごく健全に思える。

店で注文の絵を描いているのはどんな人々かと言えば、これはほとんどの場合、地元の美大の学生だ。バンコクには美大がいくつかあるが、僕が行った店で絵を描いていた若者たちも、全員そうだった。

現代美術で「自分の作品」なんて作って売って、それで生活していける、あるいはその可能性があるのなんて、ごく一部の先進国だけの話だろう。タイにしたって、コレクターも画廊もわずかなもの。現代美術のマーケットそのものが存在しないのだ。

こういう国でアートを志す若者は、どうやって生きていけばいいのか。その答えのひとつがここにある。つまり肖像画でも風景画でも、名画のコピーでも、注文されたものをきちんと描けるようになって、それで生活の糧を稼ぎながら、時間を見つけてこつこつ自分の作品を作りつづける。アートから離れずに生きていくには、それしか方法がないから。

僕が会った店の画家たちは20代前半の若さだったが、みんな技術はすごく確かだった。そうでなくては仕事にならないだけの、厳しさがそこにはあった。いま日本の美大生に同じことをやらせてみても、残念だが、とてもこうはいかないだろう。

昔は日本でも、美大生はこうやって生活していたのだった。それがいつごろから、『描けない美大生』が増えたのだろう。現代美術がそうさせたのだとしたら、ずいぶん罪な話だ。だって美大の教育現場では「うまく描くより重要なこと」を教えてるはずなのに、その美大に入学するにはあいかわらず「人よりうまく描くこと」しか要求されていないのだから。美大の学生や大学院生が講師として入試用の予備校に雇われて、古典的な技術を教え込み、晴れて入学したとたんに「アートはそうじゃないから」なんて言われる。そういう手の平返しの状況がまかり通っている日本が、現代美術で生計を立てるのは夢のまた夢のタイとくらべて、どれだけマシだろうか。


肖像画屋のお姉さんと話していて、いちばんおもしろかったのは値段の決め方だった。ダヴィンチでもモネでもダリでも、作家の名前は値段にいっさい関係ない。値段を決める要素はただふたつ、サイズと……絵具の色数(!)。まあ、これに絵柄の複雑さが加味されもするのだが(ロスコとかモンドリアンとか安いはず)、もともと抽象画は人気がないそうなので、ほとんどの場合、値段はサイズと色数だけで決められる。これこそ絵画(の値付け)の原点だと思ったりして。

僕が頼んだウォーホルの絵を引き取りに行ったとき、イーゼルの後ろに不思議な犬の絵があったので、なにこれ?と聞いたら、絵師の兄ちゃんいわく「香港の人が来て、愛犬の絵を描いてくれと言って写真を置いていった」と、お座敷犬のスナップ写真を2枚見せてくれた。ただの床じゃおもしろくないから、犬が2匹とも芝生の上にいるよう兄ちゃんが「創作」したのだという。すごくヘンで気に入ったので、まったく同じ絵を同じサイズで描いてもらったのが、1階から2階に向かう階段入口にある作品で、30センチ角のウォーホルより高かったのは言うまでもない。


《無題》柊一華 2019年

柊一華(ひいらぎ・いちか)はSMクラブを経営する女王様として働きながら、10年近く前から写真を撮るようになった。愛用するカメラはHOLGA。中判のブローニーフィルムを使用するトイカメラファンにはおなじみの、いいかげんなつくりで、現像するまで結果がわからなくて、その写りの悪さと緊張感がたまらない、そういう楽しさにあふれたカメラだ。

HOLGAも現在はデジタル版が出ているけれど(デジタルなのにフィルム版と同じく写りが悪いらしい!)、一華さんはフィルムにこだわって撮り続けている。そしてたいていのトイカメラ・ファンが撮るのは公園で遊ぶ子どもたちとか、海をバックに微笑むガールフレンドとか……写りのよくないところが「ラブリー」に見える、そういう写真だけど、一華さんが撮るのはヌード。それもほとんどが女性である。


父親が亡くなって遺品整理をしていたときに、古いオリンパスのOM-1が出てきて、「使えるのかなと思ってフィルムを買ってきて、子どもとか適当に撮ってみたらすごくいい感じで、それで楽しくなって趣味で撮るようになったんです」。

「そのあとすぐ、ヴィレッジバンガードに行ったときに、HOLGAが売ってたんです。一緒にHOLGAの写真集も並んでて。でも子どもの写真とかそういのばっかりで「つまんないな~」と。これでヌードとか撮ったらおもしろそうと思ったのがきっかけで、それからずっと使ってます。

ホルガは自分の思うとおりにならないし、フィルムは高くて一本で12枚しか撮れないし。それでも現像が上がって小さなプリントにいいのが1枚、2枚でもあると、すごいうれしくて「わたし天才!」みたいのを毎回ひとりでやってる(笑)。その楽しさだけでずっとやってるんです。仕事で撮ってるわけじゃなくて、ただ趣味でやってるだけ、展覧会でプリントが売れたらラッキー!ぐらいの気持ちで」。

今回展示されている一枚も、女王様とグロテスクな性具が重ね合わされたイメージだが、これは意図的なコラージュではなく、ホルガのフィルム巻き上げがうまく作動せず、期せずして二重露光になってしまった結果の作品だ。


《Hang-Kreung》ナリモン・パドサムラーン(Naruemon Padsamran)2009年

パドサムラーンは1981年生まれのタイ人アーティスト。モーラム/ルクトゥーンといった、タイの民謡や演歌・歌謡曲をフィーチャーした野外ショーを経営する家に生まれた。中学生のころから看板やコンサートの背景画を描き始め、それが高じてマハーサーラカーム大学美術学部に進学。卒業論文制作のため、彼女の芸術的インスピレーションの原点である野外歌謡曲ショーで使われた看板を解体・再構成し、タイの民謡の踊り手たちのフォームやポーズをかたどった立体作品をつくりはじめた。この作品は地獄寺の撮影に夢中になって、バンコクにアパートを借りて通っていたころ、ふと立ち寄ったギャラリーで出会ったもの。


『女子・小人プロレスリング大試合と20世紀のスリラー大魔術』ポスター

福島県本宮市に1914年創業、2022年に108年を迎えた本宮映画劇場。街並みの奥に分け入っていくと、いきなりあらわれる褪せたピンク色の巨大木造建造物が、1963(昭和38)年に閉館した当時の姿をそのまま残している。それは館主・田村修司さんの半世紀にわたる孤独な闘いがもたらした奇跡の戦果でもあった。閉館以来、館主だった田村さんはまったく再開の見込みもないまま、旧式な映写機をメンテナンスしつづけ、館内を掃き清めつづけ、たったひとり、いつでも映画を映せる状態に劇場を保ちつづけてきたのだから。町民からの無関心や嘲笑揶揄に耐えながら。

本宮の町が映画館というものを失ってずいぶんたつ。ひとびとは郊外のシネコンに通うようになり、映画の上映方式がデジタル主体になっても、1936(昭和11)年生まれの田村さんは再開の見込みがたたなくなった現在まで映写機に火を入れ、油をくれ、館内を掃除して回ることを止めようとしない。

平成20年、45年ぶりに町のひとびとに奇跡的に「発見」され、上映会が開かれたものの、それからもこの劇場にひとが集まるのは年に何度もない。それでも田村さんは映写機を撫でてはうれしそうに微笑んでいるし、家でもヒマさえあればフィルムをつぎはぎして、自分だけのミックス・テープならぬミックス短編映画を編集している。

かつて映画上映もすれば、女子プロレスや小人プロレスの実演も、ストリップも、浪曲や講談や歌謡曲やロカビリーの演奏もあり、というような地方の映画館が、言ってみればその町のエンターテイメント・センターだった。大都市の映画館のようにメジャー映画会社の封切り作品を上映するだけでは、地方の多くの映画館は経営が成り立たなかった。

いまの映画館では考えづらいけれど、かつて映画館と「実演」はそれほど違和感のある組み合わせではなかった。本宮映画劇場のように、もともと芝居小屋からスタートした地方劇場も多かったし、映画上映とともに浪曲や漫才、さらには女子プロレスまで交互にかける、映画館とライブハウスの役割を兼ねたコヤも、地方には特にたくさん存在した。

館主・田村さんの手元にもそうした実演のポスターやチラシが数多く残されていて、ここに展示してあるのもそうした実演ショーのポスターである――

「むかしはアクションもの、犯罪ものとかの劇映画2本に、15分ぐらいのストリップ映画をつけるのをよくやってたね。映画のあと、夜10時ぐらいから、実演タイムを設けたり。そういうときは田舎でしょ、お客は手ぬぐいで頬かむりしたり、帽子にメガネで顔隠したりして来るんだね、わかっちゃうけど(笑)。実演では女子プロや小人プロレスも、よくやったよ。男のは動きが激しいから無理だけど、女子ならここのステージでもできたんだ。まあ、見に来るほうはエロ目的だけどね(笑)。ストリップの代わりというか、水着姿を見に来たんだから。小人(のレスラー)が、女子レスラーに絡むでしょ。おっぱいをギュッとやって、そいでバーンって叩かれて飛んでったり……」。

女子プロレス、小人プロレスは夏祭り、秋祭りでも小屋掛けして興行していたし、テレビでも普通に試合が放映されていたことを、いまどれだけのひとが覚えているだろうか。


ここまでで1階から2階へ上がる階段の途中まで。来週は続けて2階のバーエリア「茶と酒 わかめ」にお連れする!


都築響一コレクション
museum of roadside art 大道芸術館


https://museum-of-roadside-art.com/

ご予約はこちらから:https://art-ap.passes.jp/user/e/museum-of-roadside-art


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ROADSIDE LIBRARY
天野裕氏 写真集『わたしたちがいたところ』
(PDFフォーマット)

ロードサイダーズではおなじみの写真家・天野裕氏による初の電子書籍。というか印刷版を含めて初めて一般に販売される作品集です。

本書は、定価10万円(税込み11万円)というかなり高価な一冊です。そして『わたしたちがいたところ』は完成された書籍ではなく、開かれた電子書籍です。購入していただいたあと、いまも旅を続けながら写真を撮り続ける天野裕氏のもとに新作が貯まった時点で、それを「2024年度の追加作品集」のようなかたちで、ご指定のメールアドレスまで送らせていただきます。

旅するごとに、だれかと出会いシャッターを押すごとに、読者のみなさんと一緒に拡がりつづける時間と空間の痕跡、残香、傷痕……そんなふうに『わたしたちがいたところ』とお付き合いいただけたらと願っています。

特設販売サイトへ


ROADSIDE LIBRARY vol.006
BED SIDE MUSIC――めくるめくお色気レコジャケ宇宙(PDFフォーマット)

稀代のレコード・コレクターでもある山口‘Gucci’佳宏氏が長年収集してきた、「お色気たっぷりのレコードジャケットに収められた和製インストルメンタル・ミュージック」という、キワモノ中のキワモノ・コレクション。

1960年代から70年代初期にかけて各レコード会社から無数にリリースされ、いつのまにか跡形もなく消えてしまった、「夜のムードを高める」ためのインスト・レコードという音楽ジャンルがあった。アルバム、シングル盤あわせて855枚! その表ジャケットはもちろん、裏ジャケ、表裏見開き(けっこうダブルジャケット仕様が多かった)、さらには歌詞・解説カードにオマケポスターまで、とにかくあるものすべてを撮影。画像数2660カットという、印刷本ではぜったいに不可能なコンプリート・アーカイブです!

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ROADSIDE LIBRARY vol.005
渋谷残酷劇場(PDFフォーマット)

プロのアーティストではなく、シロウトの手になる、だからこそ純粋な思いがこめられた血みどろの彫刻群。

これまでのロードサイド・ライブラリーと同じくPDF形式で全289ページ(833MB)。展覧会ではコラージュした壁画として展示した、もとの写真280点以上を高解像度で収録。もちろんコピープロテクトなし! そして同じく会場で常時上映中の日本、台湾、タイの動画3本も完全収録しています。DVD-R版については、最近ではもはや家にDVDスロットつきのパソコンがない!というかたもいらっしゃると思うので、パッケージ内には全内容をダウンロードできるQRコードも入れてます。

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ROADSIDE LIBRARY vol.004
TOKYO STYLE(PDFフォーマット)

書籍版では掲載できなかった別カットもほとんどすべて収録してあるので、これは我が家のフィルム収納箱そのものと言ってもいい

電子書籍版『TOKYO STYLE』の最大の特徴は「拡大」にある。キーボードで、あるいは指先でズームアップしてもらえれば、机の上のカセットテープの曲目リストや、本棚に詰め込まれた本の題名もかなりの確度で読み取ることができる。他人の生活を覗き見する楽しみが『TOKYO STYLE』の本質だとすれば、電書版の「拡大」とはその密やかな楽しみを倍加させる「覗き込み」の快感なのだ――どんなに高価で精巧な印刷でも、本のかたちではけっして得ることのできない。

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ROADSIDE LIBRARY vol.003
おんなのアルバム キャバレー・ベラミの踊り子たち(PDFフォーマット)

伝説のグランドキャバレー・ベラミ・・・そのステージを飾った踊り子、芸人たちの写真コレクション・アルバムがついに完成!

かつて日本一の石炭積み出し港だった北九州市若松で、華やかな夜を演出したグランドキャバレー・ベラミ。元従業員寮から発掘された営業用写真、およそ1400枚をすべて高解像度スキャンして掲載しました。データサイズ・約2ギガバイト! メガ・ボリュームのダウンロード版/USB版デジタル写真集です。
ベラミ30年間の歴史をたどる調査資料も完全掲載。さらに写真と共に発掘された当時の8ミリ映像が、動画ファイルとしてご覧いただけます。昭和のキャバレー世界をビジュアルで体感できる、これ以上の画像資料はどこにもないはず! マンボ、ジャズ、ボサノバ、サイケデリック・ロック・・・お好きな音楽をBGMに流しながら、たっぷりお楽しみください。

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ROADSIDE LIBRARY vol.002
LOVE HOTEL(PDFフォーマット)

――ラブホの夢は夜ひらく

新風営法などでいま絶滅の危機に瀕しつつある、遊びごころあふれるラブホテルのインテリアを探し歩き、関東・関西エリア全28軒で撮影した73室! これは「エロの昭和スタイル」だ。もはや存在しないホテル、部屋も数多く収められた貴重なデザイン遺産資料。『秘宝館』と同じく、書籍版よりも大幅にカット数を増やし、オリジナルのフィルム版をデジタル・リマスターした高解像度データで、ディテールの拡大もお楽しみください。
円形ベッド、鏡張りの壁や天井、虹色のシャギー・カーペット・・・日本人の血と吐息を桃色に染めあげる、禁断のインテリアデザイン・エレメントのほとんどすべてが、ここにある!

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ROADSIDE LIBRARY vol.001
秘宝館(PDFフォーマット)

――秘宝よ永遠に

1993年から2015年まで、20年間以上にわたって取材してきた秘宝館。北海道から九州嬉野まで11館の写真を網羅し、書籍版では未収録のカットを大幅に加えた全777ページ、オールカラーの巨大画像資料集。
すべてのカットが拡大に耐えられるよう、777ページページで全1.8ギガのメガ・サイズ電書! 通常の電子書籍よりもはるかに高解像度のデータで、気になるディテールもクローズアップ可能です。
1990年代の撮影はフィルムだったため、今回は掲載するすべてのカットをスキャンし直した「オリジナルからのデジタル・リマスター」。これより詳しい秘宝館の本は存在しません!

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捨てられないTシャツ

70枚のTシャツと、70とおりの物語。
あなたにも〈捨てられないTシャツ〉ありませんか? あるある! と思い浮かんだあなたも、あるかなあと思ったあなたにも読んでほしい。読めば誰もが心に思い当たる「なんだか捨てられないTシャツ」を70枚集めました。そのTシャツと写真に持ち主のエピソードを添えた、今一番おシャレでイケてる(?)“Tシャツ・カタログ"であるとともに、Tシャツという現代の〈戦闘服〉をめぐる“ファッション・ノンフィクション"でもある最強の1冊。 70名それぞれのTシャツにまつわるエピソードは、時に爆笑あり、涙あり、ものすんごーい共感あり……読み出したら止まらない面白さです。

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圏外編集者

編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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ROADSIDE BOOKS
書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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独居老人スタイル

あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。
たとえば20代の読者にとって、50年後の人生は想像しにくいかもしれないけれど、あるのかないのかわからない「老後」のために、いまやりたいことを我慢するほどバカらしいことはない――「年取った若者たち」から、そういうスピリットのカケラだけでも受け取ってもらえたら、なによりうれしい。

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ヒップホップの詩人たち

いちばん刺激的な音楽は路上に落ちている――。
咆哮する現代詩人の肖像。その音楽はストリートに生まれ、東京のメディアを遠く離れた場所から、先鋭的で豊かな世界を作り続けている。さあ出かけよう、日常を抜け出して、魂の叫びに耳を澄ませて――。パイオニアからアンダーグラウンド、気鋭の若手まで、ロングインタビュー&多数のリリックを収録。孤高の言葉を刻むラッパー15人のすべて。

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東京右半分

2012年、東京右傾化宣言!
この都市の、クリエイティブなパワー・バランスは、いま確実に東=右半分に移動しつつある。右曲がりの東京見聞録!
576ページ、図版点数1300点、取材箇所108ヶ所!

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東京スナック飲みある記
ママさんボトル入ります!

東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。
酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう、場末のミルキーウェイ。 東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。 チドリ足でお付き合いください!

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