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バックナンバー:2022年10月19日 配信号 収録

art museum of roadside art 大道芸術館、オープン! vol.2

東京墨田区の花街・向島に10月11日、公式オープンした「museum of roadside art 大道芸術館」。先週に続く第2回は、1階から2階に向かう階段踊り場から、2階のバーエリア「茶と酒 わかめ」に至る誌上ツアーにお連れする。


樺山久夫

本館内にはこの作品と縦長の大きなドローイング2点、計3点の樺山久夫による作品が展示されている。いずれも2014年3月31日、世の中的には『笑っていいとも!』が終わった日に佐賀県の片隅でひっそり幕を閉じた嬉野観光秘宝館から救い出された作品である。『笑っていいとも!』は1982(昭和57)年に開始されたが、嬉野に秘宝館が開館したのは1983(昭和58)年。ほぼ同い年で、あちらは日本最大級の長寿番組、こちらは日本最大級の秘宝館だった。

嬉野茶で有名な佐賀県嬉野温泉の、嬉野武雄観光秘宝館はとりわけ「ハーレム」と題された巨大なインスタレーション空間で知られていて、その解説を館内表示から引用しておくと――「当館は最新のエレクトロニクス技術の粋を集めたセックスワンダーランドとして開館いたしました。エレクトロニクスの最新技術を取り入れた「動き」「音」「光」「映像」をフルに活用し愛、性、エキゾジム、ファンタジックなエロティシズムの数々を立体的パノラマチックに表現した魅惑の施設です。特に光り輝く宮殿内に繰り広げられる王侯貴族美女たちによる、この世の大セックスパノラマコーナーは日本一の規模と内容を誇っています」。


「ハーレム」は176平方米(53坪)、人形の体数15体、噴水機構8システム、天井高7m、製作費7千万円と、たしかに圧倒的な迫力を誇っていたが、館内にはそこかしこに福岡のエアブラシ・マスター樺山久夫さんの作品が掲げられ、なごやかなお色気ムードを醸し出していた。

樺山久夫画伯は、エクスペリメンタル・フォークとも呼ぶべき独自の音楽活動で知られる倉地久美夫のお父さんであり、伝説のエアブラシ春画師である。

樺山久夫の名前を知ったのは、嬉野の秘宝館を初めて訪れたときだった。2フロアにわたるたくさんのジオラマのそこかしこに、なんとも風流な、ほとんど一筆書きにも似た筆致のエアブラシ・アートが飾られていた。

しどけなく横たわり、誇らしげに立ちはだかり……さまざまなバリエーションで描かれた、はだかの女体群。セクシーというより「お色気」という言葉がいちばんよく似合う和風のエロ表現の、それはひとつの完成形だった。そしてそのすべてが樺山久夫という、いちども名前を聞いたことのない画家の手によるものだった。


樺山久夫、本名倉地久夫は1913(大正2)年生まれ。「画材によるシンナー中毒」に倒れ、平成5年に78歳で亡くなっている。

もともと福岡県甘木市で自動車の塗装業を営んでいた樺山さんは、塗装に欠かせないエア・コンプレッサーを使って、55歳になったころから絵を描き始めた。だれに教わることもなく、いつのまにか絵の道に入っていったというが、50代になってからの新進画家生活は、決して楽なものではなかったらしい。

新築住宅のふすま絵を描いたり、砂絵、ガラス絵など新たなメディアに挑戦するアイデアは尽きなかったが、カネには無頓着。「カネはいいけん、みんなが楽しむように……」というのが口ぐせで、画料が物々交換だったことも珍しくなかった。「代金がウィスキー1本、なんてこともあった」といい、家族の食事が「3日くらいインスタントラーメン,それもツケで買ったり、米1升だけ買いに行ったこともあった」そうだが、食べ物にはなかなかこだわっていて、肉が大好物。「ステーキ食わないと手が震える」とよく言っていて、業務用のオーブンを買い込んで鳥の丸焼きを作ったり、人をたくさん呼んでバーベキューをやることもしばしばだった。


嬉野観光秘宝館のショップコーナーにあったエアブラシの大作壁画

身なりにはかまわず、甘木の自動車学校の社長からもらったツナギばかり着ていたが、人を呼ぶのが大好き。家には始終いろんな人が出入りしていて、来客があると、とにかく「ご飯食べよう」と誘う。「騙されたこともずいぶんありましたが、最後まで無欲のままで、人を泊めたり、楽しませるのが大好きでした」(奥様談)という人柄だった。「女の人が来ると、かならずお尻を触って『いい尻してる』と誉めるんですから」と久美夫さんは笑っていたが、子供のころは「昼はアトリエで寝てるし、夜はコンプレッサーでガガーッと絵を描いてるし」で、ぜんぜん時間帯が合わなかったとか。家を空けることも多かったし、あまり話し込む機会がなかったのが残念だそうだが、岡本太郎が仮想のライバルで、「あいつはハッタリばかりで嫌いだ」と言っていたのを、妙に覚えているという。


いっさいの美術教育を受けず、まったくの独学でエアブラシを使いこなし、土建屋の友人から借りたアトリエで、また話があれば九州から北海道まで全国どこでも渡り歩いて、芸術家でなく「エロ絵師」と呼ばれることを誇りとした男。明るい照明に照らされた画廊の壁ではなく、秘宝館の裸電球やブラックライトに浮かび上がることを望み、エロ小説の挿絵に起用されることを喜び、見世物に徹したその制作姿勢。依頼主に騙されても笑ってすませ、みずからの画号さえも初め「バカ山」として家族に反対されて樺山にしたという、一生を貫いた諧謔精神。

「死ぬときまで冗談を言ってました」と想い出を語る家族のほかに、だれもその生涯も、業績も顧みようとしないアウトサイダーとして樺山久夫は生き、忘れられていった。


《大雷神》《大風神》ロッキン・ジェリービーン 2002年

1995年にできて、2007年まで12年間続くことになった恵比寿のロッククラブ「みるく」で、サーフバンドのベーシストとしてステージに立ち、グラフィックもつくっていてくれたのがロッキン・ジェリービーン。アーティストであり、イラストレーターであり、ショップ店主であり、サーフロック・バンド「ジャッキー&ザ・セドリックス」のベーシストでもあるロッキン・ジェリービーンは、京都生まれの京都育ち。小さいころから、周囲とはちょっとちがうテイストの持主だったという――

なんか、少年時代からアメリカン・カルチャーが大好きだったんですね。特に周囲の影響とかではなくて、ひとと一緒なのがイヤ、みたいな単に変なやつ(笑)。みんながフィンガー5聴いてるころに、「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラ買ったり。小学校5年生くらいでした。そのへんにアメリカ的なもの好きのルーツがあるのかもしれません。「サタデー・ナイト・フィーバー」観たときに、超かっこよくて、それで「グリース」も観に行って、アメリカの高校生ってこんな楽しいんだ、みたいな。

当時から、古いもののほうが好き、というのはありました。「新しいのダサいわ」みたいな感覚が、いまだにあるんで。古いものの渋さを知らんのに、みたいな。ファッションも古着だったり、映画も京一会館っていう名画座に、子供のくせに一生懸命通ったり。いま思うと、京都だったからというのもあったかもしれません。

絵も、子供のころからずいぶん描いてて。手塚治虫や松本零士の真似したり。それでなにか絵に関わることをしたいなって思ってたとき、中学生ぐらいでしたが、イラストレーションの世界を知るんです。湯村輝彦とか、パルコがいちばん元気だったころです。それで、1枚の絵の中にストーリーってできるんだ、これは俺向きだ!って(笑)。


《FUJIKO》2014年

高校を卒業したあと、勉強したいってわけじゃなかったけど、美大なら変なやつも集まるだろうし、どうせ行くなら東京の美大に行きたいなって。うちは親がすごい真面目で、絵描きなんてぜったいダメだ!っていうひとだったんで、美大進学も猛反対されて。それで家出して(笑)。そしたら浪人中に、おやじが死んじゃうんですね。それで、言い方は悪くなるけど、解き放たれたっていうか、描きたい絵が描けるってなった。

美大を卒業する前から、イラストは始めてたんです。先輩でフリーのイラストレーターのひとがいたんで、俺も同じようにフリーでやってみようと思って、卒業後もバイトしながらイラストを描いてました。途中、デザイナーとして就職しない?って誘われて、現場の勉強と思って半年ぐらい通ったことはありますけど、あとはずっといままでフリーのまま。俺の絵はもともとバンドのチラシとか、ジャケットとか、そういうのから始まってるんで。そういう、自分のやりたい仕事だけしかやりたくなかったし、あとは肉体労働で稼げばいいやって思ってました。


アトリエのロッキン・ジェリービーン、2014年

もともと92年かな、セドリックスでアメリカを初ツアーしたときに、ちょうどロウブロウ・アートが出てきたころだったんです。ガレージ(ミュージック)の世界とリンクしてるところもあるし。特にカリフォルニアで、これはなんかおもしろいことが起きそうだ、っていう匂いを感じて。それで早く住みたくなって、95年に移るんですが、やっぱり自分の絵に食いついてくれたのは、ファインアートじゃなくて、クルマのひとたちでした。

アメリカで絵描きとして有名になりたかった、とかではないんです。向こうの環境にいたいとは思ったけど。けっきょく、俺の思い描いてるアメリカって、その当時から20年前のアメリカなんですね(笑)。だから、いざ行ってがっかりしたことも、いっぱいあるけど(笑)。なのであっちのアート界でアピールとかはそんなにできなかったですが、クルマ関係、ロウブロウ・アートや、バンドのジャケットをやったり。そういう、自分がいちばん憧れてきたエド・ロス(「ラット・フィンク」で有名な、ホットロッド/カスタム・カルチャーのパイオニア)の世界で暮らせた、それが大きかったですね。


《滝業》2018年

1990年代の南カリフォルニアに花開いたロウブロウ・アート/カスタム・カルチャーは、当初は限定的なアングラ・ムーヴメントと思われていたが、いまでは障害者/社会的マイノリティ/幻視者による既存のアウトサイダー・アートの境界を大きく押し広げる原動力となって、世界的に影響を拡大している。いまアーティストを目指す多くの若者にとっては、インテレクチュアルな現代美術よりも、ロウブロウ・アートのほうが刺激的で、単純に「かっこいい」フィールドでもあるはずだ。

そういうロウブロウ・アートが沸騰していた時期の南カリフォルニアのシーンに、60年代に黄金時代を迎えたエド・ロスや、70年代の「PLAYBOY」や「MAD」のハーヴィー・カーツマンの世界を濃厚に漂わせる、ようするにものすごくアナクロな作風を引っさげて突然登場した若き日本人、というのがどれほどの破壊力を持って受け止められたのかと、思いを馳せずにいられない。


(シールは大道芸術館で自主規制したものです……涙)

その当時でさえ、すでに幻想としてのアメリカン・カルチャーになっていた世界観を、(もちろん最良の意味で)臆面もなく、画面にぶちまけることのできたジェリービーン。それは非アメリカ人であるからこそ、人種や階級や、さまざまなバックグラウンドを背負わずにこられたからこそ、ストレートに描き切れた絵物語であるのかもしれない。

かっこよくて、エロ可愛くて、ちょっとオトナで、ちょっと子供で、ちょっとワルくて。ロッキン・ジェリービーンの絵画世界の、そういうチャームポイントの背中に、すでに失われてしまったアメリカン・カルチャーの眩しい光と、大きく暗い影が貼りついているのが見てとれたら、ジェリービーンが放つ視覚のパンチは、さらにずしりと君の腹に響いてくるだろうか。

ロッキン・ジェリービーンがベースを務めるジャッキー&ザ・セドリックスは1990年に結成。たった3人のインスト・バンドとして、現在も活動を継続中である。


(タイトル不詳)ウドム・テーパーニット

1968年生まれ、愛称「ノート」。1995年からスタンダップ・コメディ『ディヤオ・マイクロフォン』公演を開始、一躍大人気を博し、現在はタイを代表するスタンダップ・コメディアン、映画俳優として絶大な人気を誇りながら、アートにも注力しているウドム。絵画、立体などの作品で毎年のように個展を開いている。この作品もバンコクの展覧会で出会ったもの。


《松月洞》許曉薇(シュウ・ショウウェイ)

許曉薇(シュウ・ショウウェイ)は1974年、マレーシア生まれ、父からの虐待と冷たい家族関係から逃げるように台湾の大学に進学。分子医学で博士号を取得し、大学付属病院で研究者として働きながら孤独な日々を過ごすうち、30歳を越えたある日、SMに出会った。台北や東京のSMシーンに入り込んでいくうちに、日常の束縛から解き放たれて輝く仲間たちを撮影し始める。しかしいまだ保守的な台湾の芸術界では発表の場が見つからず、写真を撮らせてくれる仲間たちのプライバシーを脅かすおそれもあり……悩んだ末に「好きなものをだれにも迷惑にならずにつくりたい」と、自分をモデルにした撮影を始める。2011年ごろのことだった。

花木を素材にした『花之器』を始めたのは2016年。いつものように、たったひとりで、試行錯誤を繰り返しながら撮影を続けてきた――「人の体っていうのは、大きいんです。だからそれと一緒に撮る花も、大きくなくちゃいけない。スクーターで持って帰ってくるのも大変だけど、それを自分の体に合わせて整えて、お尻とか性器に差して固定するプロセスは大仕事です。そんなに深く差し込めるものでもないですし」。


ひとり暮らしの台北の狭いアパートで週末ごとに、花市に通って花木を選ぶ。急いで帰宅したら、ひと息つく間もなく(花はすぐ開いてしまうから)、台所の食卓に布を敷いた間に合わせのスタジオで、三脚に付けたデジカメが5秒ごとに切るシャッターに合わせて、からだをくねらせていく。

Mにおける緊縛は、縄によってからだの自由が奪われることで、逆にこころを解き放ち、閉じ込めていた快楽への扉を開くプロセスである。じっと座ることで、こころの内側を自由に遊ぶ禅や瞑想と同じように。

花にからめとられた彼女の裸体。それは荒縄のかわりに蓮や蘭や竹や松で縛られた肉体だ。そして縄が解き放つ精神のように、植物に拘束された女のからだから、美しい花が咲きこぼれる。

『花之器』に彼女は「The Vessel that Blossoms」という英語タイトルをあてている。器を意味するヴェッセルはまた、船でもある。花咲く器に乗って、シュウ・ショウウェイの精神は奥へ奥へと、ひとりだけの旅を続ける。


《確認》波磨茜也香 2018

いまから10年近く前に銀座ヴァニラ画廊の公募展で出会った波磨茜也香(はま・あやか)の絵は、100号の大きなキャンバスに制服の女子高生たちを、これ以上ないくらいラフに描きなぐった作品で僕ら審査員をびっくりさせた。

それからずっと、彼女は女の子たちの日常にふと現れる色気のような瞬間を描き続けつつ、気分転換にディズニーランドまで足を伸ばし、かわいい女の子たちを眺めている。2018年に描かれた本作には次のような背景が設定されている――「舞台は19XX年、とある国に『陰毛の代わりに花が生えてきてしまう部族が生息している』という情報を聞きつけた研究者は、さまざまな手掛かりを発見しながら熱帯雨林をかき分けその部族を発見。『ウルルン滞在記』のような交流をはかり、じわじわと彼女たちの信頼を勝ち取ってゆき写真撮影に成功。今回の展示はその写真が一資料として展示されているという設定で描きました」。


タイのビンテージ映画スチル

モノクロ写真プリントに人工着色した、タイ映画スチル。ロビーカードと呼ばれる、映画館に貼られたものらしく、画鋲の跡が四隅に残っている。映画の内容どころか題名すら知らない、たった一枚の写真から膨らんでいく想像が楽しい。


マレーシアの昆虫標本

一時、昆虫標本の収集に凝ったことがあった。東南アジアの土産屋に、あまりにも奇妙で心惹かれる標本がたくさんあったからだった。人気の高い大型の蝶々や蛾よりも、ナナフシのような造形の妙に目が奪われた。

マレーシアの首都クアラルンプールから、たしかクルマで2~3時間の町に「昆虫標本工場」があると聞き、行ってみたことがある。山のふもとの小さな町で、ジャングルに住む山の民が昆虫をつかまえて持ち込むのだという。工場(といっても小さな作業場だったが)を見せてもらうと、大きなカゴが並んでいた。覗いてみるとサソリ、大ムカデ、ナナフシモドキ……乾いた昆虫が何百、何千と山盛りになっていて、ホラー映画のセットに紛れ込んだ気持ちになったのを覚えている。


《Hanpanda》野田凪 2008年頃

2000年代の初め頃に知り合った野田凪(のだ・なぎ)は若き天才アート・ディレクターだった。ラフォーレ原宿、ナイキ、コカコーラ……テレビ・コマーシャルが輝いていた最後の時代に、斬新な作品をたくさんディレクションしていた。そんな巨大クライアントとの仕事を連発する合間に、『ストリート・デザイン・ファイル』という世界中の「どこにでもあるけどリスペクトされないデザイン」を集めた20冊のシリーズで、バイブやディルドをデザインの目線で捉えた『PORTABLE ECSTACY オトナのおもちゃ箱』や、本館の3階にフィーチャーされた鳥羽の秘宝館写真集『SPERM PALACE 精子宮』をデザインしてもくれた。

半分がパンダ、もう半分が他の動物を組み合わせた《Hanpanda》シリーズは2007年に発表され、大きな話題を集めた。野田凪さんは2008年に死去。34歳という若さだった。


凪さんが愛したリバティーンのコレクションとともに自宅にて、2006年



2階バーカウンター・エリア[茶と酒 わかめ]

2階は長いバーカウンターを中心に、背景にかつて祭の夜に欠かせなかった見世物小屋を彩ってきた絵看板を張り巡らせた。カウンター席と対面するように雛壇がつくられ、そこには艶やかなラブドールたちが寛いでいる。カウンター上は1960年代から70年代のピンク映画ポスターをスキャンしたプリントで飾られ、周囲の壁面にもさまざまな作品を配置してある。そのほとんどはいわゆる“バッドアート”と呼ばれ、ファインアート業界からも、アールブリュット/アウトサイダーアート業界からも無視されてきた表現のかたちであった。




見世物小屋絵看板

祭になればどこからともなく現れ、祭が終われば消えていく……見世物小屋はそうやって全国の祭礼地を巡って生きていた。たまたま祭に足を運んだ善男善女の好奇心をかき立て小屋の中に引きずり込む、その魔力の源泉が因果な物語を名調子でまくしたてる口上であり、そのおどろおどろしいイメージを盛り上げるのが絵看板だった。

見世物小屋の絵看板が僕の元にやってきたのは、見世物小屋・女相撲・ボクシング……など市井の娯楽文化をずっと在野で研究してきた、故・カルロス山崎さんとの出会いから始まった。

カルロス山崎さんは1997年に『オール見世物』という豪華な写真記録集を自費で出版していて、これは見世物小屋絵看板の傑作を集めた、いまもほぼ唯一の研究資料である。あるときカルロスさんから「廃業する見世物の興行社があるんだけど、このままだとぜんぶ捨てられちゃうんで引き取ってもらえませんか」と打診を受け、それから幾度かの機会に少しずつ手元に集まった。こんなものを個人で持っていてもしょうがないけれど、展覧会で見せる機会もほんの数度しかないまま、時が経っていった。カルロスさんは絵看板について、そして伝説的な絵師であった志村静峯について、こんなふうに書いている。僕のようなシロウトの解説のかわりに、お読みいただきたい――


アナタも見た夢 --- 見世物絵看板

見世物絵看板とは、営業中の見世物小屋に掲げられていたものです。見世物小屋は祭りになると、どこからともなく現れて、祭りが終われば、またどこかへ消えていく。見せ物小屋の住人たちは、全国の祭礼地を巡り歩いて生活をしていました。

見世物にはなんの前宣伝もありません。祭りにやってきて、たまたま小屋の前を通りかかった不特定多数の人々の好奇心を捕まえて、その場で小屋の中へ引きずり込むことがビジネスの基本です。

不特定多数の老若男女がLIVEで見たがるのは珍奇なもの、そしてやはり人間そのものの姿です。見世物小屋は江戸の昔からありましたが、珍奇な「物」や「動物」が博物館やら動物園やら近代的なハコモノに収まっていくなか、最後に残ったのは「因果な人たち」の見世物でした。ほんの20年ほど前までは、「蛇女」「人間ポンプ」「クモ娘」「牛娘」「女ターザン」「タコ娘」「狼少女」「蛇体娘」「半身女」などといったキャラクターが祭りの夜を怪しく彩っていたものです。

人々の好奇心を逆撫でしたのは、呼び込みの口上です。因果なストーリーを名調子でまくしたてられると、“大衆”は「ラーメン一杯分の値段」で「世界の驚異」が見られるイカガわしさの誘惑に負けました。そして呼び込み口上のイメージの源泉となっていたのが、丸太組みの仮設小屋に張り出された布製の見世物絵看板です。絵看板は見世物ビジネスで最も重要な商売道具なのです。

もちろん、看板に描かれたそのままの人たちが、小屋の中に居るわけではありません。口上と絵看板でイヤというほど想像力を刺激されておきながら、親の許しが得られずに小屋の中へ入ることのできなかった坊ちゃん嬢ちゃんたちは、いまだ悪夢にウナされ続けているかもしれません。


幻の見世物看板絵師 --- 志村静峯

志村静峯(本名・渋村勝治郎 1905-1971)は、見世物の看板絵師を生涯の仕事としていた唯ひとりの男です。戦後の見世物小屋に掲げられた絵看板のほとんどが、この男の手になるもので、見世物ギョーカイでは伝説的な人物となっています。志村の画業は昭和30年代にほぼ終わっていますが、確かな筆致で「あり得ない」世界を描き出した彼の作品は、いまも観るものに新鮮な驚きを与えます。

雅号「静峯」のとおり、無口で孤独を愛し、絵を描くことに没頭した少年時代を過ごした志村は、家出同然に東京へ出て絵を学ぶ機会を計っていましたが、関東大震災に遭って命からがら、親元の九州博多に戻り、サーカスの絵看板と出会います。地元の高名な絵師だった白水耕雲のもとに弟子入りしたのですが、白水は絵馬や武車絵などと共に布製のサーカス絵看板の仕事もこなしていたのです。

やがて志村は独立し、見世物の絵看板を中心に手がけるようになります。見世物ギョーカイ人というアバウトなクライアントの注文をもとに、自由闊達に構図を組み立て、次々とワンダーワールドな作品を生み出していきました。仕事場の入口には「大衆美術社」の看板を出していたといいます。志村の「大衆美術」作品を網膜に焼き付けた人々の数は、ギャラリーに安住するアート作品の比ではないでしょう。

志村の絵看板は、1998年1月に米オハイオ州シンシナティ市の現代美術センターで開催された、アメリカの見世物絵看板展にも展示されました。志村は自分の描いた絵看板が美術館で展示されるなどとは夢にも思わなかったでしょう。もし、彼がこの事実を知ったとしたら、見世物小屋の現場を愛した志村は、一抹の屈辱感と共に、大好きな日本酒で祝杯を重ねたはずです。

文・カルロス山崎(珍奇世界社)


オリエント工業のラブドールたち

やがて寝姿の娘の指先が、詳細に描写されると、われわれはすでにこの「自分の存在がみじんも通じない」性的対象の与える一種の安心感の虜になってしまう。江口老人と娘の交渉は、男の性欲の観念性の極致であって、目の前に欲望の対象がいながら、その欲望の対象が意志を以てこちらへ立ち向かってくることを回避し、あくまで実在と観念との一致を企むところに陶酔を見出しているのであるから、相手が眠っていることは理想的な状態であり、自分の存在が相手に通じないことによって、性欲が純粋性欲に止って、相応の感応を前提とする「愛」の浸潤を防ぐことができる。

これは川端康成の『眠れる美女』を三島由紀夫が評した文章だが、そのまま現代のラブドール評になってもおかしくないかもしれない。意志もなく、愛も求めない、純粋性欲の受け皿としての。

もともと生身の女性の「代替品」として生まれたラブドールが飛躍的な技術の進歩とともに、いつのころからか単なる性欲処理の道具を超えた、さまざまな妄想や思いを受け止める人形=ひとがたとなった。


上野の小さな雑居ビル。2階に上がってドアを開けると、そこにはおだやかな灯りに照らされて、数十人の美女が寛いでいる。小学生にしか見えない少女から、アイドル系、微熟女まで。あるものは普段着を身につけ、あるものはほとんどなにも身につけず。こちらを向いて、微笑んで。ひっそり黙ったまま・・・・・・人間ではなく、もっとも精巧に作られた人形=「ラブドール」に、僕が初めて出会ったのは2010年だった。

台東区上野に本社を置くオリエント工業は、日本でもっとも大手の、もっとも精巧なラブドールの製造販売元。1977年創業の老舗メーカーだ。創業者であり、いまも第一線で指揮を執る土屋日出夫さんさんは1944(昭和19)年、横浜生まれ。もともと会社勤めから、オトナのおもちゃ屋経営に転じたという異色の経歴の持主である。

サラリーマンからオトナのおもちゃ屋経営に転身した土屋さんは、まもなく浅草で店を2軒持つまでになる。そのころ店でよく売れていたのが「ダッチワイフ」。空気を入れて膨らませる、まさにおもちゃのような性具だった。


土屋日出夫さん、上野のショールームにて 2011年

ビニール風船のような胴体に、漫画チックな顔がついただけ、それでも当時の値段で1~2万円はしたダッチワイフが、よく売れる。売れるけれど粗悪品が多く、体重がかかるとすぐに空気が漏れたり、破裂したりする。しかもそんなダッチワイフを真剣な顔で求めに来るのは、エロマニアというより、からだに障害を負ったり、伴侶を失ってこころに傷を負ったりして、女性とまともに接することの難しい男性が、思いのほか多かった。そこから、ただの性処理用具ではなく、「かたわらに寄り添い、こころの安らぎを与えてくれるような存在」をつくりだそうという、土屋さんの探求がスタートする。

1977(昭和52)年にオリエント工業を興した土屋さんは、顔と胸にソフトビニールを使用し、腰の部分をウレタンで補強、顔、胸、腰以外をビニール製の空気式にした、初めてのオリジナル商品『微笑(ほほえみ)』を発売。そして80年代にはラテックス製の全身人形を次々と送り出す。90年代になると、カリフォルニアのメーカーが発売したシリコン製のドール(リアルドール)に影響を受け、オリエントをはじめとする日本の各メーカーは、シリコン製の高級ドールの開発に注力するようになっていった。


ラテックスやソフビやシリコンの肌を持つ人形たちは、もう40年近くにわたってさまざまな思いを、妄想を受けとめてきた。ちなみにオリエント工業では注文を受け、出荷することを「お嫁入り」と呼んでいる。修理や、どうしても持っていられなくなって返品されたものは「里帰り」。そうやって里帰りした人形でも、大事に扱われていたドールと、そうではないドールでは、表情が違って見えるらしい。本家アメリカのリアルドールにはない、細やかな心遣い。ドールと所有者のコミュニケーション。そんな日本的な心情が、こんなところで見え隠れしているとは。


オリエント工業の造形師さんによれば、美人をそっくり真似しても、魅力的なドールにはならないという。「人体をそっくり型どりしても、死体になっちゃう。人間の造形美をいいほうにデフォルメしていかないと、欲しいって感じにならないんです。顔の大きさ、肌の色から胸の大きさ、乳首の色まで! ほんとはこんなピンクじゃないけど、『夢の女』ですからね」と笑いながら話してくれたが、それはまったくそのとおりだろう。


ファッションモデルのようなバランスの人間が、舞台ではまったく映えないように、からだを寄せて座るソファや、ベッドの上でこそ最高に映える顔が、身体がある。そういう、人間のいちばん深い欲望にとことんつきあい、寄り添い、ほかのどこにもない「伴侶」を黙々とつくるひとたちが、こんなところにもいたのだった。


そんなオリエント工業で産まれたドールがこの館内に7人、あなたを待っている。おとなしく、いつまでも、愛のいらない場所で。


ピンク映画ポスター

2階のカフェ/バー・エリア「茶と酒 わかめ」のカウンターには、むかし収集したピンク映画ポスターを写真に撮った小さなプリントを敷き詰めている。

「ピンク映画」という言葉はもちろん日本製の造語で(英語ではブルーフィルム)、その始まりは1962(昭和37)年の『肉体の市場』だと言われている。すでにいまから半世紀以上前の出来事だ。ピンクは映画のジャンルとしては「ポルノ映画」であり、「ピンク」とはマスコミがつけたニックネーム。ではなぜポルノ/成人映画ではいけないのかといえば、ピンクとは基本的に独立系成人映画――つまり日活、東映、大映、東宝、松竹というメジャー5社に属さない小規模な制作配給会社によってつくられた、いわばインディーズのポルノ映画を指す業界用語だから。


「ピンク映画」の名付け親は、当時夕刊紙『内外タイムス』の文化芸能部記者だった村井実。惜しくも2004年に他界されているが、著書『はだかの夢年代記 ぼくのピンク映画史』(大和書房、1989年)によれば、1963年の『情欲の洞窟』ロケ取材記を書くにあたって、「ブルーフィルムではなくて、セックス描写は、まあ、ピンク色の程度の映画、という意味だった」という、わかったようなわからないような説明をされているが、それ以降「ピンク」という色名は、すべての日本人にとって「エロ」と切り離せないニュアンスを秘めた単語になってしまったのだから、その功績は大きい。

日本の映画産業のピークは1960年だと言われている。この年、全国には7400館を超える映画館があった。以後だんだん館数が減っていくのだが、ピンク映画が生まれ、花開いたのは、こうした時期でもあった。そのあたりの事情を『はだかの夢年代記』から、少し長くなるが抜粋させていただくと――




ぼくがピンク映画の名付け親になった1963年には、ピンク映画の製作本数はまだ20本足らずだった。翌年にはそれが60本ほどになった。そして、つぎの年、1965年には、なんと200本近くに急増した。つまり1963年、64年、65年と、一年ごとに3倍に増えていったわけで、ちょっとすごい話だと思う。

大手映画会社のつくる本数は年ごとに減ってゆくのに、どうしてピンク映画だけが急増したのか。やっぱり第一番の理由は、儲かるからだろう。

ピンク映画一本の直接製作費は300万円前後で、これにダビング料や編集費、映倫の審査費、スチール代やポスター代、プリント費用など諸経費を加えると、まあ、500万ほどになる。で、封切ったら、1千万ぐらいには確実になるんだ。ひとつの商品に500万の元手をかけて、それで500万儲けられるなんて商売は、そうないんじゃないかな。




フロアの照明は時間と共に緩やかに色調を変化させていく

こうした映画は、むろんメジャー5社の作品に較べてフィルム・レンタル料(いわゆる「写真料金」)も安かったから、とりわけ観客減にあえぐ地方の三番館、四番館――和製グラインドハウス――にとっては、欠かせない存在になっていった。もちろんギャラもスケジュールも、なにもかも極限まで切りつめられたプロダクションだから、もちろんポスターのデザインにかけるカネなどなかったはず。ほとんど単色の背景に、ぐしゃぐしゃと切り抜かれた女体と、踊るような描き文字がのるだけの、そんな乱暴なつくりが予算のなさを如実に示している。アーティスティックなこだわりなど、さらにない。一枚一枚が、おそらく大した時間をかけられることもなく「ちょちょい」と作られたにちがいないポスターの、目を見張るグラフィックなちから。


これらのポスターのほとんどはまっとうなデザイン事務所ではなく、プロダクションから数枚の写真とタイトルや出演俳優などの文字要素を渡された印刷屋によってつくられていたという。無名の職人デザイナーか、印刷屋のオヤジが脳内に描いたエロ・ワールドがストレートに表出されるその画面。

若松孝二などアヴァンギャルドな映画ファン、言い換えればインテリの支持を集めた作家性の強い作品のポスターは、実はあまりおもしろくない。知的な武装が、荒々しい画面構成のエネルギーを削ぐ方向に作用してしまっている。それよりも印刷屋のおやじが「早く仕上げて飲みに行きたい!」みたいに思い入れゼロの気分でデザインした粗製濫造ピンクのポスターのほうが、はるかに出来がいい。直球勝負の勝ち、とでも言うべきか。

プロフェッショナルとは、分業化ということでもある。一般的に地位の高い仕事になるほど、分業化は進む。編集者やコピーライターが文字の内容を考え、デザイナーはそれをかたちに落とし込む。お互い意見は聞くだろうが、決定するのはそれぞれの「プロ」の仕事である。それが悪いほうに行ってしまうと、どうしても自分の仕事の範囲内の、瑣末なディテールへのこだわりにエネルギーが吸い込まれていく。デザイナーがフォントのわずかな差異に、コピーライターが「、」や「。」ひとつの位置に神経を尖らすように。

そんなプロフェッショナルな状況とは対極にある、いわば未分化な制作の世界が、かえって僕らの眼に新鮮に映ったとしても不思議はない。もちろん、プロフェショナルなステージにいるものが、未分化な状態へと「戦略的に」退化するのはもっとも恥ずべき打算だけれど、自分たちとまったく正反対のベクトルを持つ世界の価値を素直に認め、そのパワーに敬意を払うことを躊躇すべきではない。


カウンターの上には小品のコレクションが並ぶ






床面にはピンク映画時代のスチル写真を巨大に引き伸ばしたイメージが敷かれている




動物スーパーマーケット、動物ダンスパーティ(作者不詳)

いずれもおそらく南アフリカ共和国、ロンドンのデパートで開かれたアフリカン・アート&クラフトフェアで購入したもの。


大西重成「ピーナッツの人形」

見渡すかぎり牧場や林が広がる中に小さな町が現れ消える、いかにも北海道らしい風景をひた走る。女満別空港から約1時間、釧路と網走を結ぶ国道240号線の津別の町はずれの丘に、突然現れる真っ赤に塗られたサイロと小屋が目印の「シゲチャンランド」。敷地8000坪という牧場跡地に、大小の「ハウス」と呼ばれる展示空間が点在し、屋外にもカラフルな立体物が置かれているのが見える。

シゲチャンランドの創造主・大西重成さんは1946年、この津別町に生まれた。高校を卒業したあと横浜郵便局に勤めるが、71年に渡米。ニューヨークのスクール・オヴ・ビジュアル・アーツに学んだあと、72年から東京でイラストレーターとして活躍してきた。当時はアーティストよりもイラストレーターのほうが注目されていた時代。ハービー・ハンコック『Feets Don’t Fail Me Now』や坂本龍一『Summer Nerves』などのジャケットワーク、雑誌『野性時代』の表紙、『ひらけ!ポンキッキ』のオープニングタイトルなど、大西さんと知らずに見ている作品もたくさんあるはず。

売れっ子イラストレーターだった大西さんが、立体物に表現の主体をシフトしていくのが80年代末。そのころから「時代の“旬”の仕事は若い者がやる。彼らと違うものをやるには、自然の奥深さが必要」と考えはじめ、96年に東京から北海道津別町へ帰郷した。翌97年からシゲチャンランドづくりに着手し、2001年春にようやく開園のはこびとなった。

もともと牧場のために建てられた建造物に、徹底的に手を加えて再生された展示空間は、それぞれにヘッドハウス、アイハウス、ハンドハウスなどと名前がつけられ、異なるジャンルやシリーズの作品が集められている。ひとつの傾向の作品群に、ひとつの空間を丸ごと使うという、普通の美術館では考えられない贅沢な展示構成だ。オホーツク海岸で拾った流木、森で見つけた木の根っこ、獣の骨、錆びた空き缶、壊れた農具……見ようによってはゴミ同然の素材に、大西さんはいのちを吹き込んできた。アーティストの手技が作り出したものというよりも、事物が変容するプロセスにそっと手を添えている、そんな自然への優しさとリスペクトがにじみでる作品群が、ハウスにびっしり並んでいる。展示のピーナッツ人形は、一点もののカラフルな造形物でいっぱいのショップで見つけたもの。


青木仁之《素人イップス》

サラリーマンとして働きながら、奇妙な絵を描き続けている青木さん。審査員をしていたヴァニラ画廊の公募展で出会った作品。以下本人による解説――

プロのお姉さんからその奥義を学ぶべく、頼み込んでいる素人イップス人。
お姉さんはまず心の大切さを説く。
その技能は、裏風俗の現場で発揮する。
「素人イップス」はとは、素人を相手にすると緊張してしまう人のこと。


山形牧子《モォ~やめて》

仙台市内から北上すること約1時間半、「宮城の明治村」とも呼ばれる登米の旧市街から、北上川沿いに走ったはずれにある集落が津山町。人口3000人ほどの小さな町のアトリエで制作を続ける山形牧子さんは1954年生まれの主婦。横浜出身で、結婚して岩手にやってきた。

いまから15年ほど前ですかね、石巻のカルチャー教室で絵を習い始めたんです。きっかけというほどのものでもないけど、「毎日、なんのために生きてるんだろう」って疑問を感じて(笑)。そこの先生が「絵にはうまくていい絵、うまくて駄目な絵、下手でいい絵、下手で駄目な絵とある」と教えてくれて、「だからあなたは下手でいい絵を目指せ」って。

最初のころは壺とか描いてたんですけど(笑)、すぐに人物になりました。デッサンとかやったことなかったけれど、人間を描きたかったんです。

牛は……もともと好きではあったんですが、人物と組み合わせるようになったのは7、8年前から。あれ、牛は男のかわりなのね。女と男のからみをそのまま描いちゃうと、露骨すぎるんじゃないかと思って。擬人化の反対というか……だからテーマは「愛」なんです!

展覧会では入選してるし、おもしろがってくれるひともいるけど、会場で観て、真っ赤な顔して怒るひともいたし。こんな田舎でしょ、近所のひとが覗きに来てギョッとしたり。あと、夫と娘は「頼むからやめてくれ」って、すごく嫌がってます(笑)。


夏暑く冬寒い!アトリエで、2015年

まだいちども個展を開いていないし、作品を売った経験もないという山形さん。でも何年間もの制作でずいぶん作品も溜まっているだろうと思ったら、「ここに並べたのと、あとはちょっとだけ。ぜんぶで20~30枚しかないかな」と言われてびっくり。なんと、描きあがった作品はどんどん潰して、その上からどんどん新作を描いてしまうのだという!

もう20年以上住んでいるけれど、いまだに田舎特有の閉鎖的な空気になじめないでいるという山形さんは、「だからこそ絵に集中できるのかもしれないですね」と教えてくれた。


KAZU(題名、制作年不詳)


勝木てるお「漫画雑誌の表紙原画」

昭和の男性向け週刊漫画誌全盛期に活躍した漫画家のひとりに勝木てるおがいる。あるとき札幌の古書店で、漫画雑誌の表紙原画がまとまって出ていたのを見つけたのが壁面上部に展示してあるシリーズである。

『週刊漫画TIMES』『漫画ゴラク』『漫画パンチ』『土曜漫画』……昭和40年代の男性向け週刊漫画誌で勝木てるおの作品は数多く見つかるが、そのプロフィールはまだきちんと探せていない。

『鉛筆で読む本 本と遊ぼう! 目で考えるクイズと立体パズル・ゲーム』という勝木てるお著の、新書版の娯楽本があり(昭和42年、日本文芸社刊)、その見返しにこんなプロフィールが載っていた――

昭和6年、東京生まれ。愛称「テーちゃん」。機敏なユーモア、非論理的なオシャベリが得意。生活そのものがマンガで彼のまわりに笑いが絶えることがない。自他ともに認める「おかしな人物」である。
酒を愛し、なかでも、美人のいる店なら千里の道も遠しとせず、仕事をおっぽらかして遊び歩く、そんな遊びの中から生まれたのがこの本である。


ここまでが2階の「茶と酒 わかめ」エリア。来週は3階に向かう階段部分、そして鳥羽の秘宝館展示を部分再現した3階のメイン・インスタレーション空間にご案内する。


やはり見世物小屋で飾られてきた「帝王切開」「猛獣使い」などのショッキングな垂れ幕も随所にあり

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ROADSIDE LIBRARY
天野裕氏 写真集『わたしたちがいたところ』
(PDFフォーマット)

ロードサイダーズではおなじみの写真家・天野裕氏による初の電子書籍。というか印刷版を含めて初めて一般に販売される作品集です。

本書は、定価10万円(税込み11万円)というかなり高価な一冊です。そして『わたしたちがいたところ』は完成された書籍ではなく、開かれた電子書籍です。購入していただいたあと、いまも旅を続けながら写真を撮り続ける天野裕氏のもとに新作が貯まった時点で、それを「2024年度の追加作品集」のようなかたちで、ご指定のメールアドレスまで送らせていただきます。

旅するごとに、だれかと出会いシャッターを押すごとに、読者のみなさんと一緒に拡がりつづける時間と空間の痕跡、残香、傷痕……そんなふうに『わたしたちがいたところ』とお付き合いいただけたらと願っています。

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ROADSIDE LIBRARY vol.006
BED SIDE MUSIC――めくるめくお色気レコジャケ宇宙(PDFフォーマット)

稀代のレコード・コレクターでもある山口‘Gucci’佳宏氏が長年収集してきた、「お色気たっぷりのレコードジャケットに収められた和製インストルメンタル・ミュージック」という、キワモノ中のキワモノ・コレクション。

1960年代から70年代初期にかけて各レコード会社から無数にリリースされ、いつのまにか跡形もなく消えてしまった、「夜のムードを高める」ためのインスト・レコードという音楽ジャンルがあった。アルバム、シングル盤あわせて855枚! その表ジャケットはもちろん、裏ジャケ、表裏見開き(けっこうダブルジャケット仕様が多かった)、さらには歌詞・解説カードにオマケポスターまで、とにかくあるものすべてを撮影。画像数2660カットという、印刷本ではぜったいに不可能なコンプリート・アーカイブです!

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ROADSIDE LIBRARY vol.005
渋谷残酷劇場(PDFフォーマット)

プロのアーティストではなく、シロウトの手になる、だからこそ純粋な思いがこめられた血みどろの彫刻群。

これまでのロードサイド・ライブラリーと同じくPDF形式で全289ページ(833MB)。展覧会ではコラージュした壁画として展示した、もとの写真280点以上を高解像度で収録。もちろんコピープロテクトなし! そして同じく会場で常時上映中の日本、台湾、タイの動画3本も完全収録しています。DVD-R版については、最近ではもはや家にDVDスロットつきのパソコンがない!というかたもいらっしゃると思うので、パッケージ内には全内容をダウンロードできるQRコードも入れてます。

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ROADSIDE LIBRARY vol.004
TOKYO STYLE(PDFフォーマット)

書籍版では掲載できなかった別カットもほとんどすべて収録してあるので、これは我が家のフィルム収納箱そのものと言ってもいい

電子書籍版『TOKYO STYLE』の最大の特徴は「拡大」にある。キーボードで、あるいは指先でズームアップしてもらえれば、机の上のカセットテープの曲目リストや、本棚に詰め込まれた本の題名もかなりの確度で読み取ることができる。他人の生活を覗き見する楽しみが『TOKYO STYLE』の本質だとすれば、電書版の「拡大」とはその密やかな楽しみを倍加させる「覗き込み」の快感なのだ――どんなに高価で精巧な印刷でも、本のかたちではけっして得ることのできない。

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ROADSIDE LIBRARY vol.003
おんなのアルバム キャバレー・ベラミの踊り子たち(PDFフォーマット)

伝説のグランドキャバレー・ベラミ・・・そのステージを飾った踊り子、芸人たちの写真コレクション・アルバムがついに完成!

かつて日本一の石炭積み出し港だった北九州市若松で、華やかな夜を演出したグランドキャバレー・ベラミ。元従業員寮から発掘された営業用写真、およそ1400枚をすべて高解像度スキャンして掲載しました。データサイズ・約2ギガバイト! メガ・ボリュームのダウンロード版/USB版デジタル写真集です。
ベラミ30年間の歴史をたどる調査資料も完全掲載。さらに写真と共に発掘された当時の8ミリ映像が、動画ファイルとしてご覧いただけます。昭和のキャバレー世界をビジュアルで体感できる、これ以上の画像資料はどこにもないはず! マンボ、ジャズ、ボサノバ、サイケデリック・ロック・・・お好きな音楽をBGMに流しながら、たっぷりお楽しみください。

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LOVE HOTEL(PDFフォーマット)

――ラブホの夢は夜ひらく

新風営法などでいま絶滅の危機に瀕しつつある、遊びごころあふれるラブホテルのインテリアを探し歩き、関東・関西エリア全28軒で撮影した73室! これは「エロの昭和スタイル」だ。もはや存在しないホテル、部屋も数多く収められた貴重なデザイン遺産資料。『秘宝館』と同じく、書籍版よりも大幅にカット数を増やし、オリジナルのフィルム版をデジタル・リマスターした高解像度データで、ディテールの拡大もお楽しみください。
円形ベッド、鏡張りの壁や天井、虹色のシャギー・カーペット・・・日本人の血と吐息を桃色に染めあげる、禁断のインテリアデザイン・エレメントのほとんどすべてが、ここにある!

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秘宝館(PDFフォーマット)

――秘宝よ永遠に

1993年から2015年まで、20年間以上にわたって取材してきた秘宝館。北海道から九州嬉野まで11館の写真を網羅し、書籍版では未収録のカットを大幅に加えた全777ページ、オールカラーの巨大画像資料集。
すべてのカットが拡大に耐えられるよう、777ページページで全1.8ギガのメガ・サイズ電書! 通常の電子書籍よりもはるかに高解像度のデータで、気になるディテールもクローズアップ可能です。
1990年代の撮影はフィルムだったため、今回は掲載するすべてのカットをスキャンし直した「オリジナルからのデジタル・リマスター」。これより詳しい秘宝館の本は存在しません!

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捨てられないTシャツ

70枚のTシャツと、70とおりの物語。
あなたにも〈捨てられないTシャツ〉ありませんか? あるある! と思い浮かんだあなたも、あるかなあと思ったあなたにも読んでほしい。読めば誰もが心に思い当たる「なんだか捨てられないTシャツ」を70枚集めました。そのTシャツと写真に持ち主のエピソードを添えた、今一番おシャレでイケてる(?)“Tシャツ・カタログ"であるとともに、Tシャツという現代の〈戦闘服〉をめぐる“ファッション・ノンフィクション"でもある最強の1冊。 70名それぞれのTシャツにまつわるエピソードは、時に爆笑あり、涙あり、ものすんごーい共感あり……読み出したら止まらない面白さです。

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圏外編集者

編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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独居老人スタイル

あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。
たとえば20代の読者にとって、50年後の人生は想像しにくいかもしれないけれど、あるのかないのかわからない「老後」のために、いまやりたいことを我慢するほどバカらしいことはない――「年取った若者たち」から、そういうスピリットのカケラだけでも受け取ってもらえたら、なによりうれしい。

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ヒップホップの詩人たち

いちばん刺激的な音楽は路上に落ちている――。
咆哮する現代詩人の肖像。その音楽はストリートに生まれ、東京のメディアを遠く離れた場所から、先鋭的で豊かな世界を作り続けている。さあ出かけよう、日常を抜け出して、魂の叫びに耳を澄ませて――。パイオニアからアンダーグラウンド、気鋭の若手まで、ロングインタビュー&多数のリリックを収録。孤高の言葉を刻むラッパー15人のすべて。

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東京右半分

2012年、東京右傾化宣言!
この都市の、クリエイティブなパワー・バランスは、いま確実に東=右半分に移動しつつある。右曲がりの東京見聞録!
576ページ、図版点数1300点、取材箇所108ヶ所!

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東京スナック飲みある記
ママさんボトル入ります!

東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。
酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう、場末のミルキーウェイ。 東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。 チドリ足でお付き合いください!

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