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バックナンバー:2022年10月26日 配信号 収録

art museum of roadside art 大道芸術館、オープン! vol.3

東京墨田区の花街・向島に10月11日、公式オープンした「museum of roadside art 大道芸術館」。最終回となる第3回は、2階から3階に向かう階段踊り場のバッドアート展示、そして3階の鳥羽秘宝館再現フロアにお連れする。

その前にいわゆる「バッドアート」のなにがそんなに僕のこころを捉えたのか、まとめてみたのでご一読いただきたい。

フィロソフィ・オブ・ザ・ワールド

1階から3階までをつなぐ階段壁面に展示されている作品は、これまで細々と収集してきた、いわゆる「バッドアート」が中心になっている。

ファインアートでもなければアウトサイダーアートにすら入れてもらえないバッドアートについては、2018年冬に東京ドームシティ内Gallery AaMoで開催された『バッドアート美術館展』を覚えているかたもいらっしゃるだろう。


米国・ボストンに所在するバッドアート美術館(MOBA)は、他の美術館やギャラリーでは決して日の目を見ることのない「酷すぎて目をそらせない」アートを称え、収集・保存・展示する美術館です。MOBA のコレクションに含まれるのは、創作過程のどこかで道を踏み外してしまった作品ばかりです。コレクションの選考基準は極めて単純。誰かが真剣に描いた作品であること、そしてその結果生まれた作品が面白く、何か人を惹きつける力を持っていること。決定的な技術不足、キテレツな題材、度が過ぎた表現など、酷さの原因は問いません。このような捨てられがち、だけど捨てがたい作品を保護するため、MOBA はバッドアートを収集し、国内外で紹介しています。
(展覧会サイトより)

アメリカの辺境をめぐる長期取材「ROADSIDE USA」で、ボストン郊外デダムの映画館地下にあったMOBAを訪れたのは2001年のことだった。

ガラクタ屋の奥で埃をかぶっていたり、額縁ごとゴミ箱にぶち込まれたりして、この世に存在する価値をまったく見とめられていない、哀しい油絵たち。絵筆をとった本人さえ、描いたことを忘れたかったに違いない、そんな「バッド・アート」の中に、達者な玄人には死んでも描けない傑作があると信じたボストニアンたちが、個人宅の地下室でひっそりオープンさせたMOBA。コレクションが増えるにしたがって、ここデダムに新たな常設館を設けるにいたった。町で唯一の映画館の地下、しかも男子便所手前の広間という、なんというかクオリティにふさわしいスポットである。
(「ROADSIDE USA」より)






MOBAは1994年、ボストンの画商スコット・ウィルソンのコレクションをもとに、初の展覧会を開催。その存在が話題になるとともに所蔵作品数も増えていき、展示場所も最初の映画館地下男子便所手前から数カ所を経て、いまは市内中心部デイヴィス・スクエアにある1912年創立という歴史的な映画館ソマーヴィルシアターの地下室に落ち着いている。

MOBAの収蔵品選考基準は――

1)れっきとしたアート作品であること。つまり、芸術的意図を伝えるための誠実な取り組みでなければなりません。
2)そのコンセプト、あるいは制作過程で何かがうまくいっていないこと。例えば技術不足、問題のある制作方法、風変わりなテーマ、行き過ぎた表現などです。
3)そのようにしてできた作品が面白く、魅力的であること。議論や疑問が引き起こされる作品であることが重要です。

芸術的意図とは異なる精神が生み出すアウトサイダーアート/アールブリュットでもなければ、素朴なナイーフアートでもない。ハイアートの権威に対抗するロウブロウアートですらない。そういうバッドアートの、MOBAはたぶん世界唯一の常設展示施設だ。

個人的には「バッドアート」という呼称はいまひとつしっくりこないのだけれど、ともかくバッドアートの魅力につかまってしまったきっかけは、MOBA成立の2年前、1992年に刊行された一冊の絵画作品集『THRIFT STORE PAINTINGS』との出会いだった。

スリフトストアとは古着や古道具、古本などを販売するリサイクルショップのこと。救世軍のショップなど、慈善事業のために運営されている巨大な店舗が多く、アメリカ旅行でスリフトストアめぐりを楽しんでいるひともいるだろう。著者ジム・ショウは70年代からそうしたスリフトストアをめぐって「変な絵」をひたすら集めてきた。最初は「5ドル以上出さない」ことをみずからに課し、その限度額は最終的に35ドルまで上がったというが、それでも、MOBAのスコット・ウィルソンが「最初は絵じゃなくて額のために買った」ように、だれもがなんの価値も認めない絵を集め続け、それが画集『THRIFT STORE PAINTINGS』にまとめられることになった。


この本には作品のタイトルや、わかる場合には作者名など、最低限の情報以外、一文字の説明も載っていない。ただただ、異常に変な絵がページを繰るごとにあらわれ、そして終わるという、謎に満ちたコレクションである。そしてこの一冊は出会ってから30年経ったいまでも、僕にとってはいちばん大事なアートブックのままだ。そして僕もそれからずっと、自分なりのささやかなバッドアート救出活動を続けていて、その一部をここでご覧いただけることになった。

MOBAの創始者は画商だが、ジム・ショウは彼自身がアーティストであり、ミュージシャンでもある。僕がジム・ショウのことを知ったのも、まずミュージシャンとしてだった。

ジム・ショウは1952年ミシガン州ミッドランド生まれ。デトロイトのミシガン大学に進み、在学中にマイク・ケリーやナイアガラなどと伝説的なポストパンクバンド「デストロイ・オール・モンスターズ」を結成。ご承知のようにマイク・ケリーはその後、ポール・マッカーシーなどとともに現代美術界の重要な一潮流である「カリフォルニア系悪趣味アート」の代表格となるのだが、ジム・ショウもそうしたダークでサイケデリックでポップな感覚をごりごり全面に押し出した作風を展開。現在もロサンジェルスを拠点に活動し、2015年にはニューヨークのニュー・ミュージアムで大規模な回顧展を開いている。

あとになって考えてみれば、僕が『THRIFT STORE PAINTINGS』に魅せられたのも、そのセレクションに漂うパンキッシュな「選球眼」なのだった。MOBAの選球眼は、それよりも微妙にアート・サイドに寄っている気がして、その感覚のズレも興味深いところではある(どちらがいい悪いでは、もちろんない)。

しかしバッドアートの魅力とはなんなのだろう。それはアウトサイダーアートのように、正統な美術の枠を超えた美や、創作の無垢な情熱を教えてくれるものではない。ロウブロウアートのように、音楽や漫画やゲームと共有できるようなポピュラー・カルチャーの興奮をかき立ててくれるものでもない。バッドアートにあるのはいかなる意味の「感動」でもなく、むしろ「当惑」なのだ。


《The Shaggs》新開のり子

音楽で言えば、それは理性を極めた現代音楽でもなく、破壊衝動に満ちたパンクでも、あえて感覚を逆なでするノイズ・ミュージックでもない。僕が瞬間的に思うのはシャグズの歴史的怪作「フィロソフィ・オブ・ザ・ワールド」に凝縮された、本人たちは大まじめに演奏しているだけなのに、どこかが致命的におかしくて、音が重なれば重なるほどその音楽が狂気に向かってしまう…そういう当惑に満ちた音楽体験だ。そして、時として僕らは感動よりも、そのような当惑――どうしていいかわからない宙ぶらりんの感覚――にこそ、深く揺り動かされるのでもある。



(作品名不詳)佐川一政


(作品名不詳)元心

ハンダゴテのような電熱ペンを使って、板を焦がすことで絵柄を描いていくウッドバーニングというクラフトがある。古くから世界中で親しまれてきた技法だが、その電熱ペンを使って木片ではなく皮革に絵を描く「焼き絵作家」が、元心(げんしん)である。 

ヌメ革独特の肌に描かれるのは浮世絵の美人や役者絵、相撲取りといった伝統的図柄から、虎、犬、猫、昆虫など、身の回りの生き物たちまでさまざま。中には春画を題材にしたものもある。


塩澤佳明は1958年6月22日、葛飾区の高砂に生まれた――

15歳で家を飛び出しちゃって、そこからひたすらヤンチャ人生だね。豆腐屋の屋台売り、廃品回収、レストランの厨房……なんでもやったよ、食うために。東映の大泉撮影所に出入りして、松方弘樹さんの映画とかでチョイ役をもらってたこともあった。同級生の家に寝泊まりさせてもらってるうちに妹とできちゃって、最初の結婚したのが19歳のときだったし。そういう生活が、20代のなかばごろまで続いてたね。

25歳のころだったかな、高砂にある組に入れてもらって、ヤクザ稼業を始めるんだ。いままで出会ったことない種類の人たちというか、後ろ姿の男らしさにグッときたから。それまでは365日、毎日が喧嘩人生だったけど、組に入ってからはぱったりやらなくなった。躾がすごく厳しい組だったってのもあるけど。


2016年1月6日号「修羅の果ての島で――焼き絵師・元心作品展」より

覚悟を決めて入ったんだから女房、子供とはその時点で離縁だ。親も捨てて。万一なにかあったときに、家族や親兄弟に迷惑かかっちゃまずいだろう。

やることはまず、住み込みで親分の世話。炊事、洗濯、すべて。風呂に入りゃあ親分のからだは全部洗う。実の父親も怖かったけど、親分も怖かったからねえ。そうやってずーっと下積みを続けてた。そりゃ厳しかったけど、厳しいほど耐えてみようと思うんだよ。そのうちに、他人にできないことができてくる。

いまから30年以上前のことだから。最近は下のもん同士でなんかあっても、上に責任が行っちゃうから、滅多なことで抗争なんて起きないけど、当時はイケイケの時代だった(笑)。防弾チョッキ着て歩いたり、カチコミのために防犯カメラや逃走経路の下見に行ったり……いろんなことがあったよ。親分が入院すれば、出前や女装したりして襲いに来るやつもいるんだから、それも見破らなきゃならないし。

そんなこんなしてるうちに、最初の親分が42歳で亡くなって、それからいくつか兄弟分の組を渡り歩いて、50歳前後で高砂に塩澤組をつくって貸元になったんだ。

当時はロールスロイスのリムジンにベンツのリムジン、いろいろ乗り倒した。でもロールスのリムジンは京成の踏切を渡れないんだよな~、下をこすっちゃって。だからいつも遠回りで、めんどくさかったよ。


思い返せば、30代なかばが身体的にはピークだったかな……相撲取りだろうがプロレスラーだろうが、だれが出てきても負ける気がしなかったね。しかも連日連夜、暴飲暴食。だって親分よりでかくならないと、弾除けにならないからさ。

だからもう、がんがん食って、酒も浴びて、すごいんだよ。焼肉はひとりにつき、肉10人前。丼にてんこ盛りのご飯が5人前。それくらいぺろりと食わされて。寿司は2貫ずつ、いっぺんに食うんだから(笑)。それで一晩に7軒とか回る……飲むのはいろいろだけど、ブランデーでも焼酎でもなんでも、一軒につき、ひとり3本ずつだからね。

そうやって毎日、朝の5時くらいまで飲んで、そのあと4時間くらい寝て、10時には本部に行ってないとならない。そりゃからだも壊す(笑)。42歳で糖尿になったのが最初で、そのあと肺がん、肺結核にもなって。親分にさとられないように、平気な顔して家まで送ってから、子分の運転手に命じて病院に回らせて、そのまま入院なんてこともあった。

糖尿なんて血糖値が600とかあったし(正常値は100~200以下)、肺結核で入院したときは、外出できるようになったその日に、精をつけようと子分を連れて近所のうなぎ屋に行ったんだ。でも、自分だけそんなの食べるわけにいかないって思って、病院の病室にそれぞれ何人いるか子分に確認に走らせて、全員にうなぎの出前を振るまったこともあったな。おかげでその日はうなぎ屋、開店休業状態になったけど。


でもなあ、そういうなかでなぜか女運には恵まれてきたというか(笑)。こっちで勝手に「マドンナ先生」って呼んでる女医さんや、弁護士の女先生、いろんなひとに世話になってきたよ。入院してるとね、看護婦が夜中に来るんだ。それでほっぺたすりつけて、「熱はかりましょうね~」なんて。キャバクラ行っても、帰りに勝手についてくる子がいたりする。なんで来たんだって聞くと、背中がどことなく寂しそうで……とか、ほんとに言うんだから。

まあでも、やっぱりヤクザはストレスが溜まる仕事だろ(笑)。刺青もあるし、C型肝炎でインターフェロン治療も1年間やって、現場に復帰したら今度は腎臓が悪くなっちゃった。そんなんで、すっかり身体にガタが来て、このままやっていたら親分を守ることもできない、かえって迷惑をかけることになりかねない。それで引退のタイミングを見計らってたんだ。

2015年の初めに、まず病院の診断書を用意して、兄貴分に相談した。そいで、本部で集まりがあることがわかってたんで、兄貴と一緒に車で行った。道具積んでね。本部の駐車場で、車ン中で兄貴にハンマーを振るってもらって指を落としたんだ。飛んだ小指が車の床に落ちちゃって、どこだどこだってあわてたよ(笑)。


診断書を見せたら、「そんなに悪かったのか、じゃあしょうがない」となったし、指を詰める必要もなかったんだけど、やっぱりシメシをつけないと、あの組の系列は甘いって思われちゃうから。自分なりのけじめだよ。
 絵なんてそれまで描いたこともなかったけどさ、入院してるときに痛みをこらえるのに、若いもんに色鉛筆とスケッチブックを買ってこさせて、そこで初めて描いてみたんだ。ヤクザは「痛い」って言っちゃあいけないんだよ。それで明るい感じの絵を描いてみたら、気分もいいし、けっこうからだにもいい感じがして。

小岩でファッション雑貨の店を開いたのが2013年で、退院してからヒマだからそこで始めてみたのが焼き絵だ。最初はデコライターとかやってみたんだけど、ぜんぜんおもしろくない(笑)。それで、商品の仕入先から皮革の余ったのをもらって、試してみたらうまくいった。予備知識もなかったし、だれかに習ったわけでもなかったけど。まずヌメ革の風合いが好きだったし、それに絵を乗せるにはどうしたらいいかなって思ってたら、友達が焼き絵のことを教えてくれた。試してみたら、いきなり楽しくて、これはいいって。そのうち作品が溜まって、店の1周年にあわせて開いたのが初めての個展だね。


2014年6月の初個展

「親分」でも「組長」でもなく、「焼き絵師・元心」となって、最初の個展のころはまだ現役だったけれど、いまは堅気の立場。周囲に迷惑をかけないように、名前もそう変えたのだという。ちなみに作品に押されている「元心」の落款は、付き合いの長い警視庁の刑事さんが作ってくれたものだとか。

まったく独学で焼絵の世界に入ったのが2013~14年のことなので、もうすぐ20年目。当然ながら日本の美術メディアは完全無視だが、2016年ごろからヨーロッパのサロン展で幾度も入選しているキャリアの持主でもある。


元心さんは大病を重ね、入院と大手術を幾度も繰り返し、いまも透析に通いながら、日々革に向かっている。


《少年のトルソ》作者名不詳


(作品名不詳)よしこ


《Cucumber》伊賀美和子 2006年

伊賀美和子はこのあとすぐ出てくる新開のり子の姉でもある現代美術家。


《ボーイズ》新開のり子

新開のり子は1972年、東京都港区生まれ。

小さいころから新聞に落書きしたりするのが好きでした。広告の写真の男性を女性の顔にするとか、髪型を聖飢魔IIにしちゃうとか。学校でも、友だちの似顔絵を描いて受けたりして。でもその程度です。

高校を卒業したあと、デザイン専門学校のヴァンタンに入学して、1年目はグラフィックキャラクター、そのあとエディトリアル・デザインを専攻するんですが、それもデザインで身を立てる!みたいな志ではなくて、なんか楽しそうだな~くらいの気持ちだったんです。

19歳のときに誘拐されたことがあって……自宅の近所でクルマに乗った男性に声をかけられて、すごく巧みにシートに座らせられてそのまま発進。夜中に延々ドライブして湘南まで連れていかれて、さらに高速道路に乗って御殿場あたりのサービスエリアで、そのひとが仮眠した隙にクルマを降りて逃げ出したんです。駐車中のクルマの窓を叩いて「助けてください!」って懇願したんですけどだれも助けてくれなくて、やむを得ず高速の反対車線の道路端を全力疾走。通りかかったクルマに乗せてもらい、朝になって無事に家にたどり着きました。さいわいなにもされなかったけれど、それから外に出るのが怖くて1年間近く引きこもっていたこともありました。小さいころから見知らぬおじさんやお兄さんに声をかけられ、怖い思いを幾度も経験してきたんです。


けっきょく学校時代に技術はぜんぜん身につかなくて、絵もヘタなままでした。学んだことを活かせずに、普通の会社に就職したんです。最初はやっぱり働くならデザイン系かなと思って、いちどバッグとか靴をデザインする会社を受けたんですが、面接で「馬と神社の絵を描いてください」と言われて、しかたなく描いたら呆れられちゃって。面接官に「あなたこれ、自分で何点だと思いますか」って聞かれて、ほんとは零点だと思ったけど「20点です……」「ですよね、ハイもうお帰りください」って。それから絵を描くのがほんとうにイヤになっちゃった。私に描かれる絵が気の毒になったというか。

就職したのは求人誌の会社で事務的な仕事だったんですけど、もちろんおもしろくはないので……実は私、これまで何十社もいろんな会社を転々としてるんです。最初のうちは転職も前向きに「次はこれをやってみよう!」とか思うんですけど、ちょっとやって2週間で辞めちゃうとか。あるていど、1週間くらいは我慢するけど(笑)。

転職の原因は人間関係でこころが傷んだり、セクハラやパワハラもあったり。ま、いちおう次を見つけてから辞めるんですけど。けっきょく「やだ!」って思うと、どんどん次に行きたくなるんですね。そのころはいまより就職状況も楽だったろうし。それからいちど「そろそろ腰を落ち着けんと」と思って、ある会社に10年くらいいて、それからいまの会社が7年くらい続いてます。ふつうの事務職ですけど。

いまみたいに絵を描くようになったきっかけは、5年前の宮本三郎のデッサン大賞展です(2017年第4回 宮本三郎記念デッサン大賞で鴻池朋子賞を受賞)。応募したきっかけは姉から「世田谷美術館でコンペがあるよ」って教えられたんですが、絵を描くのは子どものころのイタズラ書き以来で……あと就活の面接の「馬と神社」もあったけど(笑)。なにを描いたらいいかもまったくわからなかったときに、お母さんが犬を抱いてる写真があって、「あ、これは死ぬまで目に焼き付けておかないと」と思いついて、これを描こうとなったんです。

そのとき出したのは2枚で、ひとつが母と犬を描いたもの、もうひとつが父の絵でした。それで母のほうが受賞して、「え~~~、これが!!!」と自分がまずびっくりしました。初めての表舞台ですし、記念品もいただいて、なんだか自分のことじゃないような。公募展にはサイズも重要らしいのに、なんにも知らなくて画用紙も手元にあった小さいのに描いただけだったり。受かるなんて思ってもみなかったから。落ちたひとが授賞式でけっこう怒ってたり、ちょっと嫌味を言ってくるひともいて「すいません、すいません」って謝ったりして……でもこの受賞をお守りにして、これからイヤなことがあっても我慢しようと思ったんです。

それから絵を描きだして、翌年に自由が丘の小さな画廊で母・姉・わたし3人の「女系家族展」第1回を開くんです。姉から家族展やろうと言われて、もうほんとに汗だらだらで、毎日冷や汗かいて。姉はプロの現代美術家だし、母も絵を習い始めて30年とかで作品もたくさんあったんですが、私はなにもかも初めてだったので。展覧会の前は仕事が終わって家に帰ったあと、たとえば8時から12時までとか時間を決めて、必死に描いてましたね。大変だったけど、なんだか不思議な感覚でもあって。それまで母と姉の制作をずっと見ていたのに刺激はまったく受けてなくて、「あ~描いてるな~」くらいの感じだったから。

2019年には世田谷美術館区民ギャラリーで「女系家族 パート2」、2020年には第1回女系家族展と同じDIGINNER GALLERYで、初個展「カオス ドローイング」を開かせてもらいました。その展示の大半は女系家族展で出した作品でしたが、作品数が足りなかったので、急いでネコとか、カメの絵を描きました。カメは前に飼ってたんですが、描いてるうちに2匹がくっついちゃって。それでギャラリーのひとに「すいません描き直します」って言ったら、「もういいですこれで」って(笑)。あとから見るとけっこう変なところがある絵がたくさんあるので、「家に持って帰って直します」って言うんだけど、そのままでいいですって言ってくれて。

そうやって展覧会を重ねるうちに、コンスタントに描き続けなくちゃならないと思うようになって、TwitterとInstagramに定期的にアップするのを始めました。SNSに上げてるのはだいたい芸能人、時事ネタ、お亡くなりになったひと。いかに短時間で仕上げるかという練習を兼ねて、2日に一枚くらい上げるようにがんばってます。見てもらえてるんだって思うと鉛筆にも力が入るし。鉛筆に思いを乗せるというか。


描いてるのはずっと鉛筆です。色をつけるも好きなので、ちょっと試してみたんですけど、ほんとうにひどくて、これは……と自分で引いた。それからはずっと鉛筆と消しゴムと練り消しだけで。描く題材はたいてい身近でなんかいいな、と思ったものを描くだけ。写真を見て描くのも好きですし。だれもいいと思わないものを自分で見つけるのが好きなんですね。

絵を描くようになって、この5年間でほんとに生活一変しました。こんなに熱中したことはいままでなかったから。私、むかしすごく浪費癖があったんです。特に買い物依存症でもブランド物収集でもなかったけど、借金まで抱えるようになっちゃって。それで家族にとっては心配な存在だったんですけど、絵を描いてるうちに浪費もいつのまにか治まってたし、夜遊びしないで、うちでひとりでずっと絵を描いていられるから。ほんとに絵があってよかったな~って家族も安堵してます(笑)。

あと鉛筆が好きなのは、私の人生と重なってるからなんです。鉛筆って、消して直せるでしょ。時間をかけたらきれいに直せる。日々のこと、いままでのことって、消しても直らないことが私には多かったから。やり直せない人生を消しゴムで消して、やり直してる気持ちなんです。


《ブローニュの森の貴婦人たち》中田柾志

中田柾志は1969(昭和44)年、青森県弘前市で生まれた。中学校で陸上、高校ではボクシング部で活動していた柾志少年は、「バリバリの体育会系」だった。高校卒業後、自分に向いている職業はなんだろうと考えたときに、「絵を描くのが大好きだったから、そういう感じの仕事をしたい」と、東京の写真専門学校を選んで入学する。

「写真なら、絵に近いとか漫然と考えたんでしょうねえ……そのころはカメラのカの字も知りませんでした(笑)」という中田さんは、新聞奨学金を受けて、月島の新聞販売店で働きながら2年間の専門学校生活を送った。写真の専門学校を卒業、とりあえず写真現像所で1年間働いたあと、「藤原新也さんの影響で」インド、ネパールを放浪。帰国後はバイトを転々とし、「いまで言うフリーターですねえ」という生活を送りながら、こつこつと自分だけの写真を撮ってきた。


2016年8月24日号「Campus Star 制服から透けて見えるなにか」より

最初のうちは社会性のある写真や環境破壊をテーマに旅してみたが、だんだんしっくりこなくなって、ほんとに自分が飽きないもの、興味があるものはなんだろうと考えたら「それがエロだったんです!」。

中田さんは20年以上も川口の風呂なし家賃2万いくらのアパートに住み、長期の休みが取りやすいビルの窓ガラス清掃に従事しつつ(休みが取りやすいよう正社員にはならずバイトのまま)、旅の資金が貯まったら長期の撮影行に出る。その写真をコンペに出しては「たまに作品が入選したりする、というパターンでず~っと淡々と変わらない生活」を送っている。

2005年にドイツのエロスセンターを撮影したのを手始めに、パリのブローニュの森の娼婦たち、素人の女の子を本人の希望どおりに撮る『モデルします』シリーズ、タイで女子大生を撮影したりと、「私のスケベ心を刺激してやまない」表現をひとりだけで追求してきた。


2013年に記事にさせてもらったとき、中田さんはブローニュの森の写真に短い説明をつけてくれた――

「街娼」は世界中で見ることができるが、「森娼」はここでしか見ることができないのではないだろうか!?
自然というピュア・神聖なイメージと、娼婦という欲望のイメージ、両極端なものが混在するところ。
娼婦がどこに出没するか、右も左もわからない状態で、ひたすら探し歩き回った。最初に発見した時の不可思議さ。エナメル衣装、肌を露出した女性と背景の葉緑素との組み合わせのシュールな世界観。
ある娼婦には「夜の公園は危険だから大通りから奥に入って行かない方がよい」とアドバイスを受けたが、怖さよりスケベ心が勝りアドレナリン噴出で、奥も少し覗いたりした。
娼婦は話してみると気さくで明るく、ジメジメした印象は受けなかった。みな過度に見せたがる傾向が強く、快楽な撮影ができた。この時は3日間だけで十数名撮る。
それから4年後の2009年5月、本格的に撮りたくブローニュの森を再訪。
娼婦が出没する場所は大体特定できるので、探す手間が省けた。
今回は盗撮も敢行してみた。娼婦に見つかることより、娼婦を物色している男達の方を警戒した。客以外の危ない輩が混ざっているかもしれないからだ。
ハッセルブラッドのカメラに標準レンズ1本での盗撮なので、当然人物は小さめにしか映らない。でも周りの新緑の色が、娼婦とのアンバランスさを、より顕在化できたと思っている。
この森に出没する娼婦の半分以上は男に思えた。
三十数名の撮影に成功。20~40ユーロが撮影の相場(当時のレートは1ユーロ135円前後)
大通りから奥に20、30m入ったところに道から死角になる形でU字形の植栽が生えてあった。6畳分くらいのスペース。夕方、歩いていたら突然目に飛び込んできたおぞましい光景。薄暗い中、視界に入ってくる無数のコンドーム。人間の性の営みの痕跡がリアルに点在した。気持ち悪さと同時に、瞠目すべき空間。世界中で、この光景を目にすることができる場所が他にあるだろうか、と。
娼婦は人類史上最古の職業ともいわれ、世界中どこにでも存在する。売春が合法な国があれば、非合法な国もある。未来永劫なくならないだろう。
2003年フランスではサルコジ法(売春行為禁止)の施行により、売春がアンダーグランド化し、街角に立っていた娼婦が森に移ってきているともいわれる。今後、『ブローニュの森の貴婦人たち』(ロベール・ブレッソン監督の映画)は増えていくのだろうか?


《BAYBADJ》BABU 2018年

BABUは小倉を拠点に活動するストリート・アーティストであり、スケートボーダーであり、彫師である。そのアトリエは偶然にも、見世物小屋絵看板の絵師だった志村静峯の「大衆芸術社」があったのと同じ、小倉の中島本町にある。

1983年生まれ、小学生のころから放浪癖に駆られ、ひとりで出歩くことが多かったという。14歳のころからストリート・ペインティングを始めて、以来ビルの壁面や、閉館した観光施設など、法的に言えば不法侵入とされる場所でのタギング/ペインティングを繰り返してきた。同時に熟練のスケーターとして、ストリートを滑走しながら路面にスプレーで線を描くなど、従来のアート・ギャラリーにはまったく収まらない、しかしけっしてストリートから離れることのない活動を繰り広げている。


最初にアトリエを訪れたときから気になっていたのが、部屋のあちこちに立てかけられた変な絵で、聞いてみたら「美大のゴミ置き場とかで、卒業シーズンにたくさん落ちてるのを拾ってきたり、国道沿いのジャンク骨董屋で二束三文で買い集めた油絵に、ちょこっと自分で描き足したり、背景を塗り込めたりしただけ」という。既存の絵画作品という、視覚のブレイクビーツを使ったDJのような確信犯的な「新作」群は、2017年6月に新宿BEAMSギャラリーでの個展『BABU展覧会 愛』でも披露された。これはそのときの展示作品の1枚で、拾った油彩の静物画の、背景を潰して少し書き加えただけとのこと。ショッピングモールで売ってるような飾り絵に、漫画のキャラクターなどを描き足して作品化する現代美術作家がアメリカにもいるけれど、BABUの作品のほうがずっと突き抜けてるし、風通しがいい気がする。

BABUは2018年にまだ30代の若さで脳梗塞に倒れ、脳の3分の1を失う危険な状態におかれながら驚異的な回復力で復活。2021年6月には渋谷PARCO内のギャラリー、OIL by 美術手帖で開催された。


《思い出》香西文夫


《LIFE IN WARTIME》Rev. Johnny Ace

フロリダの小さな町のアウトサイダー・アート専門ギャラリーで出会ったジョニー・エース。ポップでありながらシュールなコラージュに魅せられて作品を購入。それからもネットで見つけた作品を数点購入できたもののひとつがこれ。

ジョニー・エースについてはほとんどわかっていないが(ブルースマンのジョニー・エースとは別人)、1930年代初頭にテキサス州東部で生まれ、少年時代にトラブルに巻き込まれて以来、旅の生活を送ってきた。窃盗によりオクラホマで刑務所生活を経験、1954年にセントルイスに移住して、ナンパ師生活を始めたらしい。絵を描くのが好きで、有名なロックンロール・シンガー、デュアン・エディのファーストアルバムのアートワークを手がけたという。何回かの刑務所生活を送りながら、1970年代から「ボード」と呼ぶコラージュ・アートを作りはじめ、アメリカ南部を旅して回る生活を一生続けた。


(作品名不詳)ぴんから体操

日本のエロ雑誌史上、もっともエクストリームな強度と純度を保持しつづけるシロウト投稿露出写真誌『ニャン2倶楽部』。その過激さと、画面から滲み出る抒情性は海外のハードコア雑誌とは一線を画す、日本的なるエロ・スピリットにあふれている。

1990年の『ニャン2倶楽部』、そして93年の『ニャン2倶楽部Z』創刊当初から設けられた投稿イラスト・ページ。22年間の歴史が生み出した常連、名物投稿者は枚挙にいとまがないが、分厚い雑誌のうしろの2ページほどに、名刺ほどのサイズでしか掲載されない作品は、年々過激になっていく投稿写真の陰に隠れ、ほとんどの読者の注意を惹くことなく、現れ消えていった。

それが写真ならいくらでも焼き増しすればいいし、デジカメの時代となった現在ではデータを送ればそれで済む。でもイラストは、そうはいかない。時間をかけて、一枚ずつ「オリジナル」を描かなくてはならないのだが、この種の雑誌は投稿作品を返却しない。つまりせっかく描いた作品が、編集部に送ったまま失われるということである。

しかも投稿者のなかには作品の裏面に、ときにはびっしりと長文の解説というか物語を書き綴るものがいるのだが、投稿ページでは採用されたとしてもイラストが掲載されるだけで、文章まで載ることはあり得ない。そういう約束事を全部わかっていて、それでも創刊された1990年ごろから現在に至るまで、30年以上も作品を送り続ける投稿者がたくさんいるというのは、いったいどういうことだろう。

自分の作品が掲載されれば、掲載料が微々たるものであっても、それはうれしいだろうが(しかし掲載の喜びをだれと分かちあえるのか)、失われることがあらかじめ約束されていながら、作品を描きつづけ、送りつづけ、失いつづけること。僕らが考えるプロフェッショナルなアーティストとは180度異なる創作の世界に生きる表現者が、それもメディアの最底辺にこれだけ存在していること。それをいままでほとんどだれも認識せず、もちろん現代美術界からも、アウトサイダー・アート業界からも完全に無視され、投稿写真家マニアからさえ「自分たちより変態なやつら」と蔑視されながら、いまも生きつづけ、描きつづけていること。

そんな報われることのない長距離走の、もっとも伝説的なランナーをひとり挙げるとすれば、「ぴんから体操」であることに異議を唱える愛読者はいないだろう。

太平洋に面した中部地方の小さな町に、ぴんから体操は1967年に誕生した。いまも生まれ育った町に暮らしている。

中学卒業後に工員として働きながら、ぴんから体操が投稿を始めたのは19歳ごろのこと。最初は『ロリコンクラブ』や『オトメクラブ』『お尻倶楽部』が投稿先だったという。ちなみに「ぴんから体操」というペンネームは、ぴんから兄弟と、大好きな新体操の組み合わせ、だそうだ。

画家ではヒエロニムス・ボスが好みというぴんから体操は、多いときには月産30点ほどもの作品を投稿する生活を続けていまだ飽くことがない。仕事を辞めた現在では、投稿作品制作と「オブリビオン」などのゲームにハマる日々を過ごしているという。

ぴんから体操がニャン2に初登場するのは1992年1月。色鉛筆の繊細な筆づかいを特徴とする現在の画風とはずいぶん異なり、猫耳に大きな瞳の少女たちを主人公にした漫画ふうの作品だった。

94、95年と投稿が一時途絶えるが、96年になって復活。しかしその作風は一変していた。90年代初期の漫画タッチは影をひそめ、黒ペンによる点と線だけで画面が構成された、それはダークなグロテスク・リアリズムであった。漫画家・東陽片岡を想起させる背景の緻密な描線と、点描による人物表現から生まれる異常な緊張感。突然の作風転換の裏に、いったいなにがあったのだろうか。


2012年04月25日号「妄想芸術劇場:ぴんから体操展に寄せて」より

おそらくはこの時期、ぴんから氏はニャン2だけでなく、『投稿写真』誌にもイラストを定期的に投稿していたらしく、そのクオリティに驚愕したリリー・フランキーさんが渋谷に小さな会場を借り、『投稿写真』から借り出した作品の展覧会を開催している(『美女と野球』にその顛末が載っているので、興味のある方はぜひご一読いただきたい)。

2001年、ぴんから体操の作品に色が戻ってくる。ごく短期間、当時黄金期を迎えていた「モーニング娘。」をモチーフにした、淡いタッチのポートレートがあらわれたのに続き(しかしその背景には、すでに次の展開への不気味な予兆が見てとれる)、2001年から02年にかけてのある日、予想を超えた新しい画風の作品が、いきなり送りつけられるようになったのだった。

「ぬるぴょん」と本人が名づけた、それは形容しがたいぶよぶよとした不定形のかたまりだった。それまで古典的な写実主義にいたピカソが、『アヴィニョンの娘』で突如としてキュービズムに突入したように、あまりにも唐突な画風の転換であり、裏面のサインがなければ別人としか考えられない、劇的な展開であった。時代的には2、3年に過ぎないのだが、私見ではぴんから体操氏のもっとも重要な創作時期、それがフェイズ2の「ぬるぴょん」期である。

そうして2003年の短い休止期を経て、ニャン2編集部にぴんから体操からの封筒が、ふたたび届くようになる。しかしその中に入っていたものは、またもやがらりと作風を変えた、まったく新しいタッチの膨大な作品群だった。

「うんこ少女期」とも言うべきその新作群で突然、ぴんから体操はふたたび具象に立ち戻る。色鉛筆を使った、淡いタッチの画面。その四角い世界のなかで、女学生やOLや女子アナや、さまざまに可憐で美しい、しかし垂れそうなほどの巨乳の女たちが、黄土色の糞便をブビブビと盛大にまき散らす。その糞便を下着として身につけたりもする。

「豚澤豚子さん 21歳 フリーター 犬も食わないウンコブラ ¥2980」「村井豚美香さん 32歳 主婦 バカカップくそブラ ¥5800 ゲキくさうんこパンティ ¥7000」などと画中に書き込まれた、ユーモラスな説明文・・・。「ぬるぴょん」の抽象世界から、このヒトコマ漫画のようなイラストレーションへの転換の背後に、いったいなにがあったのだろう。


2004年から2005年にかけて集中的に「うんこ少女」シリーズが送りつけられたあと、ぴんから体操は長い休眠期に入ったが、ふたたびこれまでの各時期の特徴をリミックスしたような、ハイブリッドな新作が編集部に届くようになった。

ぴんから体操は銀座ヴァニラ画廊での個展もあるが、ひとりでも多くのひとに知ってほしくて、自費出版メディアのBCCKSで『妄想芸術劇場001 ぴんから体操 都築響一編』として2012年に電子書籍と、分厚い文庫サイズの印刷版作品集をリリース。現在も入手可能である(https://bccks.jp/viewer/105448/tachiyomi#!/)。


《ブッタギリニ来マシタ。》高松和樹、2013年

高松和樹は1978(昭和53)年、仙台市生まれ。半透明の少女たちを通常のキャンバスではなく、運動会のテントなどに使われるターポリンという防水加工された白布をベースに、3DCGで制作されたイメージを野外用顔料でプリントし、その上からアクリル絵具で筆描きを重ねていくという、デジタルとアナログのハイブリッドのような特殊な技法で生み出してきた。

山形の東北芸術工科大学を卒業後、就活に失敗して家に引きこもっている時期に「公募展とかコンクールとか手当たり次第に絵を出品してましたが、うまく行かなくて、このままやってたらどうなるんだろうと人生を逆算してみた」という。すると「仙台でのしあがるのに何年、東京に出て何年って計算していくと、生きてるうちにはムリだという結論が出て! それでもう、これは海外を目指すしかないな」と決意。東京のギャラリーを回って海外に意識が開かれてるところをえらんで、2008年ごろから現在の作風を確立させていった。
「いまのようなのは、ちょうど卒業制作あたりだから2000年ぐらいに思いついたんです。でも周りからは『こんなのは絵じゃない」とか言われて、ちがう感じのをしぶしぶ描いてたんですが、とうとう我慢できなくなって。なので、そのあいだの8年間ぐらいはひとにも見せずに、ひとりで試行錯誤しながら描いてました。

2004~05年ごろにまったくの独学で3DCGのソフトを使いはじめるんですが、使いこなすのにはかなり時間がかかりました。ソフトも海外のもので数字で打ち込んで、みたいな感じだし。機械のスペックも弱かったんで、レンダリングに1晩、2晩はあたりまえにかかったり……。」


2013年06月19日号「少女の深海――高松和樹のハイブリッド・ペインティング」より

日本よりも海外での発表が目立つ高松さんは「世界で活動したいと思ったら、日本だったらどこにいても同じなんです」と言う。中央と地方の格差が昔から言われてきたけれど、かつてはメリットであり、マストでもあった「シーンの中にいること」が、もはや不必要でありデメリットにすらなりえる時代が、もう来ていると高松さんの活躍が教えてくれる。


《池ノ端》大竹伸朗、2010年


「元祖国際秘宝館・SF未来館」再現展示

はじめて秘宝館に足を踏み入れたのは1995年、三重県鳥羽の元祖国際秘宝館・SF未来館だった。いまから30年近く前になる。その当時、すでに寂れた商店街のなかで、ひときわ寂れた風情の秘宝館には、ほかに観客もいなかった。だよんだよんにテープが延びたラウンジ風BGMに導かれながら、薄暗い室内をおそるおそる歩いていくうち、突然バサバサッという大きな音がして、思わず足がすくむ。よく見るとそれは、壁の一角に開いた穴から自由に出入りするハトが、めったにない来訪者に驚いて、一斉に飛び立ったのだった。

日本で初めての秘宝館である伊勢の元祖国際秘宝館と、その分館である鳥羽の秘宝館は、そのころ創始者の松野正人さんから、2代目である松野憲次さんに経営が移っていた。鳥羽の秘宝館があまりにおもしろくて、そのあと伊勢の本館にも足を伸ばして取材させてもらい、それからしばらくしたころ、人を通じて「鳥羽の秘宝館が閉館するらしい」という情報が入ってきた。

あんなに素晴らしいインスタレーション・アートをビルごと潰してしまっていいのだろうかと、いてもたってもいられない思いで松野社長にお会いし、偶然に年齢が一緒だったこともあって話が弾み、けっきょく鳥羽の展示物のうち、もっともユニークだったSF未来のインスタレーションを買い取らせてもらうことになった。ちょっといい自動車が買えるくらい、人から見れば大したことない金額だろうが、そのころの自分にとっては、なけなしの貯金をはたいて、という覚悟だった。展示物には動きのあるものもいくつかあって、写真だけでは記録として完全ではないので、自費でアダルトビデオのチームを雇い、閉館後に3日間ほどかけてSF未来のフロアを動画で撮影してもらいもした。その動画データは自主制作DVDとして細々と手売りを続けている(1階ショップで販売中)。


マネキンだけで数十体ある展示を、まさか自分の家に入れておくわけにもいかないので、埼玉県のはずれに倉庫を借りて、しまい込んだのがたしか2001年ごろ。収蔵というより仮安置という気分だったが、その1年後に開催された「第1回・横浜トリエンナーレ」で、鳥羽の閉館以来初めて、お披露目する機会がやってきた。

僕を参加作家に選んでくれたキュレーターは、もっと穏当な写真プリントの展示を望んでいたようだが、どうしてもこれで!と粘っているうちに、時間切れで秘宝館のコレクションを展示できることになり、しかし「場所は会場のいちばん隅っこ、そして子供連れも、皇室も(!)訪れるので、外から絶対に見えないようにカーテンで展示空間を目隠しすること」という条件がついていた。

主催者から提供された空間は、もともとの鳥羽のフロアの数分の一しかなかったので、展示はオリジナルを大幅に縮小したダイジェスト版にするしかなく、しかも分厚いカーテンで内部はまったくうかがえず、18歳未満入場禁の立札付き、というハンディを背負ったが、カーテンで見えないせいなのか、18歳未満禁のせいなのか(笑)、入場待ちの列がときには2時間近くになるという人気の展示になった。

それから恵比寿のギャラリーで展示する機会があり、2008年にはルクセンブルクの現代美術館、2010年には広島市現代美術館での個展の際に大がかりな再現を、2013年には新宿御苑そばのギャラリー新宿座で『新宿秘宝館』という展覧会を実現できたが、それ以来人形たちは倉庫で埃をかぶったまま、長い時を過ごしてきた。


最盛期には全国で20カ所近くあった秘宝館も、80年代後半あたりから急速に集客力を失い、次々に閉館を余儀なくされていく。それは日本における旅行の形態が、団体から個人中心へと移行していった時期と重なる。すでに温泉旅館の宴会で騒いで、浴衣姿で夜の街に繰り出したり、観光バスを停めて秘宝館で遊んだりといったスタイルは、完全に時代遅れとなっていた。2007年にはついに元祖国際秘宝館が落城。多くのファンを悲しませたが、美術館や博物館などからはまったくアクションがないままだった。


秘宝館、あるいは類似した名前がつく施設は日本全国に見つかるが、多くは春画や木彫りの男根など、むしろ民俗的な範疇に属するコレクションを展示するものであるし、エロティックなコレクションを展示するミュージアムはヨーロッパやアジア各国にもいくつかあっても、エログロの妄想を「等身大」のインスタレーション空間に表現する純粋な観光施設は、日本のほかにほとんど例を見ない。

ほかに類例のない、ということがクリエイティヴであろうとする人間にとっては、いちばんうれしい褒め言葉なのだが、世の中的にはどうもそう思わない人がたくさんいるらしい。ほかに類がないから評価できない、ほかに例がないから価値がない――そう考える人たちがこの国の文化行政やミュージアムの運営を牛耳っているかぎり、秘宝館も、そしてほとんどすべてのポピュラー・アートも、未来に残すことはできない。


いまではインターネットで検索すれば「秘宝館」で無数のサイトがヒットするし、イベントを開くごとに実感するのだが、特に秘宝館の黄金時代である1970~80年代には生まれてすらいなかった若い「秘宝館ファン」が、いまになって増えている。彼らにとって昭和の秘宝館とは「エログロ」ではなくて、「エロかわいい」存在なのだろう。奇抜で、ポップで、ノスタルジックな。

オールドスクール・デザインのラブホテルからピンク映画まで、昭和のエロを「再発見」できるのは、言い方を変えれば「知らない世代」の特権でもある。僕にできるのは消えていくものを記録することだけだが、それらをノスタルジックに楽しむだけではなく、いまの世代が、いまの時代でしかできないなにかのヒントにしてくれたらと願わずにいられない。そのために今回の展示は生まれた。

背景の壁面に貼った営業当時の展示風景を見てもらえばわかるように、20世紀の鳥羽国際秘宝館・SF未来館でほぼ全員裸体だった人形たちに、20年以上を経た現在は衣装を着せなければ見ていただけないのは残念だが、それでも、場末にひととき咲いた見事な徒花のイマジネーション、そのかけらだけでも受け取っていただけたらうれしい。


[元祖国際秘宝館鳥羽館・SF未来館 展示コンセプト]

秘宝館がはじめて世にあらわれたのは昭和46(1971)年。三重県伊勢に出現した元祖国際秘宝館だった。性関係の民俗・風俗資料を集めたコレクションは世界各地に存在するが、学術的な体裁から一歩踏み出し、等身大のマヌカンを使ったジオラマによる視覚的エンターテイメントを目指した国際秘宝館は、まさに元祖の名にふさわしいパイオニア的存在である。

元祖国際秘宝館の大成功を受けて、昭和56(1981)年に鳥羽と石和に分館ともいうべき秘宝館が作られた。


在りし日の鳥羽国際秘宝館・SF未来館

鳥羽国際秘宝館・SF未来館は4層構造になっていた。まず1階正面にエントランス・ホールと土産物屋があり、受付で入館料を支払う。大人2000円、引き替えに伊勢と同じく「性愛学博士号」と記された名刺大のカードをもらえる仕組みだった。

ホールの中心には透明な卵形のカプセルに入った裸の女体が据えられ、左右の壁はライトボックスとなっていて、展示のうちマヌカンの人体だけを実物のモデルに置き換えた「実写」シリーズが観賞できるようになっていた。


1階エントランスホール


2階「陰部神社」


2階「東海道中五十三次」

展示空間は2階から4階まで。2階はまるごとSF未来フロアになっていたが、3階は半分が江戸時代コーナー、もう半分に陰部神社、玉なで石などの装置や、保健衛生コーナーと称した性病やエイズの写真資料展示エリアがあった。

名称に「SF未来」とあるように、鳥羽のメインテーマは「エロ宇宙の未来旅」だった。チープなコンピュータ機器が並ぶ部屋に、なにやら裸の男女がごちゃごちゃ身をくねらせたり、パイプに繋がれたりカプセルの中でもだえたり、大変な光景が展開している。ただしそこにはちゃんとストーリーがあって、ときは1999年、ノストラダムスの大予言どおり地球が姿を消そうとしていたのである。そのときちょうどよく宇宙から帰ってきた宇宙戦闘艦が、宇宙基地提督のヒトラーならぬヒトリー将軍の指図のもと、人類再生のための超未来人間製造プロジェクトに着手する。


兵士に命じて生存者を狩り集め、優秀な男性から機械によって強制精液採取、美女のみに強制精液注入、そして生まれた胎児を成長増進カプセルに入れ、特殊磁気、短期成長イースト菌などコンピュータ管理の栄養投与で、たった3カ月で18歳の成人の肉体を造り上げる。途中検査に落ちたものは、生体消滅処理装置で片づけられるという、なんとも楽しいSFエロ・ワールドだったのだ。

鳥羽国際秘宝館・SF未来館は1981年開館、2000年閉館。ちょうど20年間にわたる営業だった。テーマとしたSFドラマの設定が1999年だったため、「2000年になったので閉館させていただきます」と、シャッターに張り紙が出されるという皮肉なオチまでつくことになったが、最後まで地元商店街には愛されることも、認められることもない存在だった。




秘宝館展示を照らす東恩納裕一によるライトワーク、蛍光灯による“シャンデリア”



ガーナの手描き映画ポスター

3階にはひとつだけ小部屋があり、そこには木馬責めを受けている蝋人形(1階カラオケルームに配置された蝋人形と同じく「蝋プロ」松崎覚さん作)、さらに背後にはアフリカ・ガーナの手描き映画ポスター・コレクションが並んでいる。ポスターの壁の隙間から顔を覗かせている蝋人形もあるので、お見逃しなく。

1980年代から90年代にかけて、ガーナでは「モービルシネマ」と呼ばれる移動式映画上映が盛んに行われていた。ビデオテープの到来とともに始まったモービルシネマは、クルマにテレビとビデオプレーヤーとテープを積み込み、町から町へ、村から村へとガーナ産、また国際的な作品を上映して回っていた。

大型インクジェットプリンターがなかった時代、上映の宣伝のためにつくられたのが手書きの大判ポスター。小麦粉の麻袋を切り開いた裏面に描かれたポスターは、上映に先立って街角や村々の壁に貼られ、モービルシネマとともに移動していった。

街角の看板などを描く絵師たちが映画看板も引き受けたのが始まりだったが、問題は絵師たちがだれも、制作に先立ってその映画を観たことがないということだった。なのでまったく想像に任せて、あるときはコミカルに、あるときはグロテスク風味を誇張し、映画の内容からはかけ離れた手書き看板が量産され、人気絵師たちは工房を持つようになった。


2000年代になってインターネットの発達とともに、ひとびとは家でDVDや配信で映画を楽しむようになり、モービルシネマは壊滅。絵師たちも元の看板描きに戻ったり、動物、自動車、飛行機など、ガーナ特有のさまざまにユニークな棺桶を製作する工房に転職したりしていった。

転機が訪れたのは2006年にイギリスのアートマガジン「MOLLUSK」でガーナの手描き映画ポスター特集を掲載、海外のアートファンに衝撃を与え、2010年代にはシカゴのギャラリーが往時の絵師、また新たな絵師による再制作ポスターをコミッション、展示販売するようになった。この小部屋に展示されているポスターも、そのギャラリーから入手したものである。





キャバレー・ベラミの踊り子たち

ここからは洗面所エリアを飾る作品紹介。向かって左側の個室を飾るおよそ100枚のプリントは、かつて北九州市若松にあったグランドキャバレー・ベラミの従業員寮から発掘された、踊り子や芸人たちの宣材写真(営業用ブロマイド)の複製である。

寮の物置に残された膨大な備品とともに積み上げられていた段ボールから出てきた写真は、数えてみると約1400枚にのぼった。地元の出版社が写真集にしてくれたらよかったけれど、どこも相手にしてくれなかったので、僕らはその1枚ずつをスキャンし、裏に書かれた名前を写し、全カットを収録したPDFフォーマットの電子書籍をつくることにした(1階ショップで販売中)。それは1960年代の夜へと続くタイムトンネルをくぐり抜ける旅だった。

写真に写っているのは9割方が女たちで、それは時にドレスや着物をまとっていても、ごく少数の歌手や漫才をのぞけば、演じるのが「ヌードダンス」だからである。なかには名前とともに「ピンクヌード」「外人ヌード」「日劇スター」といった特長(?)や、「キャンドルヌード」「夜光ラクガキショー」「金粉ショー」「トップレスシンガー」「コミカルポルノ」「スネークベッドショー」などなど、印象的なキャッチフレーズを冠したダンサーもいて、いったいどんなワザが舞台で繰り広げられていたのか、気になってしかたがない。

日本で言う「キャバレー」とはもともと、戦前のカフェー、ダンスホール文化が、終戦直後に入ってきた進駐軍のための大型社交場を皮切りに発展してきたものだった。ハリウッド・グループを率いてキャバレー王と呼ばれた福富太郎さんの『昭和キャバレー秘史』(文春文庫)によれば、「日本女性が占領軍兵士に犯されないように」昭和20(1945)年8月15日の敗戦の日から、わずか2週間足らずのうちに発足した進駐軍用の慰安施設運営団体RAA(レクリエーション・アミューズメント・アソーシエイション)が、同年中には銀座や品川にキャバレーを開設。翌21年にはRAA所属4店と邦人対象4店、計8店で「東京キャバレー連盟」(後のキャバレー協会)が設立されている。

ベラミが開店したのは昭和34(1959)年だが、同じころ東京では赤坂にニューラテンクオーターやミカドといった、キャバレー文化を代表する大型店が開店しているし、福富さんのハリウッド1号店が新橋に開店したのも昭和35年のこと。警視庁の統計によれば昭和35年9月現在の風俗営業者数は「キャバレー 1,743」とあり、東京だけでキャバレーが1700軒以上も営業していた全盛時代に、ベラミも誕生したのだった。

ドルショック、オイルショックといった経済変動、新風営法の施行、ピンクサロンやディスコ、キャバクラ、カラオケのような遊び場の多様化とともに、キャバレーは昭和40年代から徐々に下降線をたどりはじめ、昭和の風俗史から姿を消していく。ベラミも昭和50年代後半には業績悪化が進み、平成元年ついに閉店を迎えることになった。その前年の昭和63年には赤坂ミカドが閉店、入居していたホテルニュージャパンが昭和57年、死者33人を出す大火災で閉館した後もひっそり営業していたニューラテンクオーターも、ベラミと同じ平成元年に店を閉じている。

キャバレー・ベラミの建物は解体され、今ではその場所に葬儀場が建ち、かつての栄華を思わせるものはなにも残っていない。


(作品名、作者不詳)

新宿の外れの寂れた商店街を歩いていたら、閉店した電器屋のシャッターが開いていて、中を覗き込むと電気器具のかわりにたくさんの油絵が飾ってあった。展覧会のようでもなかったが、中に入ってみると奥からおばあさんが出てきて、「店を閉めてからヒマで、地元の絵画教室に通って好きなものを描いてるの」ということだった。風景画あり、祇園の舞妓さんあり、いろんなモチーフがあるなかから、小さな犬の絵と猫の絵(木馬責めの小部屋入口)を譲ってもらった。あれからどうなったかなと思い、しばらくして商店街を通ってみたら、あたり一帯が再開発になって、もう電器屋がどこにあったかもわからなくなっていた。


骸骨と女

3階トイレの向かって右側の個室に展示してある、骸骨と女が戯れるプリントはおそらく戦前にヨーロッパで撮影されたビンテージ写真である。

まだチェコとスロバキアに分離する以前、共産主義体制時代だった1986年に、初めてプラハを訪れた。クエイ兄弟の「ストリート・オブ・クロコダイル」そのままの暗く幻想的な街並みに魅了されて闇雲に歩きまわるうち、一軒の古書店を見つけ、山になっていた古本のなかから見つけ出したフォリオが、このプリント(むろん印刷だが)だった。そういうものを探していたのではなくて、偶然に古本の山から出てきたので、むしろ僕のほうが本に見つけられたのかもしれない。

骸骨と裸体の女性が戯れる一連のイメージは「メメント・モリ=死を想え」を暗示しつつ、20世紀初頭の両大戦間のヨーロッパに花開いた退廃文化の匂いを、撮影されてからたぶん百年近く経つ現在も振りまいているようだ。

そのときの取材で編んだ特集がBRUTUS誌の「ウィーン、プラハ、ブダペスト 三都オペラ」(1986年4月15日号)で、BRUTUSでの最後の仕事になった。


《無題》塙将良、2020年

先週号「駐車場の怪物たち」で特集したばかりの塙将良は1981年茨城県生まれ。独学で絵を学び、2005年ごろから東京の路上で作品を発表し始めた。国内でも数々の個展、グループ展があるが、2017年にパリのアウトサイダー・アートフェアに参加以来、フランスでの人気が高い。浮き上がった目玉はサザエのフタに着色したもの。


(作品名不詳)水森亜土

水森亜土を知らない日本人って、いるだろうか。1939年生まれ。子どものころは地元・東京日本橋の川にいかだが行き交っていたという時代に育ち、ジャズ・シンガー、童謡やアニソンの歌手・声優、イラストレーター、劇団の看板女優・・・・・・「肩書」という言葉がまったく無意味な縦横無尽の活動で、いまも現役。可愛らしい怪物である。


(作品名不詳)根本敬


《焼憶》シリーズより、大竹伸朗 2013年


《無題》空山基


《喫茶店にて》川上四郎 2010年

3階から屋上に上がる階段踊り場に掛けられた不思議な絵がギャラリー・ツアーのゴール。スタッフの手が空いたときだけご案内できる屋上からは、スカイツリーを間近に眺める絶景が楽しめる。

川上四郎さんは画家・写真家・声楽家、しかもすべてアマチュア。2013年に出版した『独居老人スタイル』(筑摩書房刊、現在はちくま文庫で刊行中)のカバーを飾るゴッホの絵の作者でもある。

1930(昭和5)年、浅草清島町(現在の稲荷町駅周辺)生まれ。長く国会図書館に勤めながら、多彩な趣味生活を送ってきた。2010年12月に最愛の妻・千恵子さんを亡くされてから、横浜郊外の団地でずっとひとり暮らしを通してきた。

最近よくマスコミでも報じられる「買い物難民」そのまま、高齢化と過疎化が進むエリアで、川上さんも「買い物が大変なんだけど、運動を兼ねてなるべくマメに出るようにしてます」と言いながら、炊事、洗濯などの雑用もぜんぶ自分で済ませ、絵の教室、書の教室、合唱の集まりと、忙しい毎日を楽しみつつ、なんともユニークな油絵や写真作品をひっそり作りつづけてきた。

多彩な川上さんは書道も五段の腕前だが、横浜のカルチャー教室に通っておさらいしているうちに、「書道は白と黒の世界でしょ、それで色彩と女体に飢えちゃったんですね(笑)。それまでずーっと、絵は自分には難しすぎるだろうと思ってたんですが、教室に習いに行くようになって、やってみたらけっこううまくいくんです。それですっかりおもしろくなっちゃった」ということで、僕が始めてお目にかかった2012年当時はすでに絵画制作に熱中していた。それから2年くらいおきに横浜のギャラリーでも個展を重ね、自費で制作した作品集も数冊発表してきた。

川上四郎さんは長年住み慣れた団地生活を終え、数年前介護施設に入居。あいかわらず趣味を楽しむ日々を送ってきたが、2022年9月、新型コロナウィルス感染による肺炎のため亡くなった。


都築響一コレクション
museum of roadside art 大道芸術館


https://museum-of-roadside-art.com/

ご予約はこちらから:https://art-ap.passes.jp/user/e/museum-of-roadside-art

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ロードサイダーズではおなじみの写真家・天野裕氏による初の電子書籍。というか印刷版を含めて初めて一般に販売される作品集です。

本書は、定価10万円(税込み11万円)というかなり高価な一冊です。そして『わたしたちがいたところ』は完成された書籍ではなく、開かれた電子書籍です。購入していただいたあと、いまも旅を続けながら写真を撮り続ける天野裕氏のもとに新作が貯まった時点で、それを「2024年度の追加作品集」のようなかたちで、ご指定のメールアドレスまで送らせていただきます。

旅するごとに、だれかと出会いシャッターを押すごとに、読者のみなさんと一緒に拡がりつづける時間と空間の痕跡、残香、傷痕……そんなふうに『わたしたちがいたところ』とお付き合いいただけたらと願っています。

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BED SIDE MUSIC――めくるめくお色気レコジャケ宇宙(PDFフォーマット)

稀代のレコード・コレクターでもある山口‘Gucci’佳宏氏が長年収集してきた、「お色気たっぷりのレコードジャケットに収められた和製インストルメンタル・ミュージック」という、キワモノ中のキワモノ・コレクション。

1960年代から70年代初期にかけて各レコード会社から無数にリリースされ、いつのまにか跡形もなく消えてしまった、「夜のムードを高める」ためのインスト・レコードという音楽ジャンルがあった。アルバム、シングル盤あわせて855枚! その表ジャケットはもちろん、裏ジャケ、表裏見開き(けっこうダブルジャケット仕様が多かった)、さらには歌詞・解説カードにオマケポスターまで、とにかくあるものすべてを撮影。画像数2660カットという、印刷本ではぜったいに不可能なコンプリート・アーカイブです!

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プロのアーティストではなく、シロウトの手になる、だからこそ純粋な思いがこめられた血みどろの彫刻群。

これまでのロードサイド・ライブラリーと同じくPDF形式で全289ページ(833MB)。展覧会ではコラージュした壁画として展示した、もとの写真280点以上を高解像度で収録。もちろんコピープロテクトなし! そして同じく会場で常時上映中の日本、台湾、タイの動画3本も完全収録しています。DVD-R版については、最近ではもはや家にDVDスロットつきのパソコンがない!というかたもいらっしゃると思うので、パッケージ内には全内容をダウンロードできるQRコードも入れてます。

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伝説のグランドキャバレー・ベラミ・・・そのステージを飾った踊り子、芸人たちの写真コレクション・アルバムがついに完成!

かつて日本一の石炭積み出し港だった北九州市若松で、華やかな夜を演出したグランドキャバレー・ベラミ。元従業員寮から発掘された営業用写真、およそ1400枚をすべて高解像度スキャンして掲載しました。データサイズ・約2ギガバイト! メガ・ボリュームのダウンロード版/USB版デジタル写真集です。
ベラミ30年間の歴史をたどる調査資料も完全掲載。さらに写真と共に発掘された当時の8ミリ映像が、動画ファイルとしてご覧いただけます。昭和のキャバレー世界をビジュアルで体感できる、これ以上の画像資料はどこにもないはず! マンボ、ジャズ、ボサノバ、サイケデリック・ロック・・・お好きな音楽をBGMに流しながら、たっぷりお楽しみください。

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――ラブホの夢は夜ひらく

新風営法などでいま絶滅の危機に瀕しつつある、遊びごころあふれるラブホテルのインテリアを探し歩き、関東・関西エリア全28軒で撮影した73室! これは「エロの昭和スタイル」だ。もはや存在しないホテル、部屋も数多く収められた貴重なデザイン遺産資料。『秘宝館』と同じく、書籍版よりも大幅にカット数を増やし、オリジナルのフィルム版をデジタル・リマスターした高解像度データで、ディテールの拡大もお楽しみください。
円形ベッド、鏡張りの壁や天井、虹色のシャギー・カーペット・・・日本人の血と吐息を桃色に染めあげる、禁断のインテリアデザイン・エレメントのほとんどすべてが、ここにある!

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――秘宝よ永遠に

1993年から2015年まで、20年間以上にわたって取材してきた秘宝館。北海道から九州嬉野まで11館の写真を網羅し、書籍版では未収録のカットを大幅に加えた全777ページ、オールカラーの巨大画像資料集。
すべてのカットが拡大に耐えられるよう、777ページページで全1.8ギガのメガ・サイズ電書! 通常の電子書籍よりもはるかに高解像度のデータで、気になるディテールもクローズアップ可能です。
1990年代の撮影はフィルムだったため、今回は掲載するすべてのカットをスキャンし直した「オリジナルからのデジタル・リマスター」。これより詳しい秘宝館の本は存在しません!

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捨てられないTシャツ

70枚のTシャツと、70とおりの物語。
あなたにも〈捨てられないTシャツ〉ありませんか? あるある! と思い浮かんだあなたも、あるかなあと思ったあなたにも読んでほしい。読めば誰もが心に思い当たる「なんだか捨てられないTシャツ」を70枚集めました。そのTシャツと写真に持ち主のエピソードを添えた、今一番おシャレでイケてる(?)“Tシャツ・カタログ"であるとともに、Tシャツという現代の〈戦闘服〉をめぐる“ファッション・ノンフィクション"でもある最強の1冊。 70名それぞれのTシャツにまつわるエピソードは、時に爆笑あり、涙あり、ものすんごーい共感あり……読み出したら止まらない面白さです。

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圏外編集者

編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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ROADSIDE BOOKS
書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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独居老人スタイル

あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。
たとえば20代の読者にとって、50年後の人生は想像しにくいかもしれないけれど、あるのかないのかわからない「老後」のために、いまやりたいことを我慢するほどバカらしいことはない――「年取った若者たち」から、そういうスピリットのカケラだけでも受け取ってもらえたら、なによりうれしい。

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ヒップホップの詩人たち

いちばん刺激的な音楽は路上に落ちている――。
咆哮する現代詩人の肖像。その音楽はストリートに生まれ、東京のメディアを遠く離れた場所から、先鋭的で豊かな世界を作り続けている。さあ出かけよう、日常を抜け出して、魂の叫びに耳を澄ませて――。パイオニアからアンダーグラウンド、気鋭の若手まで、ロングインタビュー&多数のリリックを収録。孤高の言葉を刻むラッパー15人のすべて。

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東京右半分

2012年、東京右傾化宣言!
この都市の、クリエイティブなパワー・バランスは、いま確実に東=右半分に移動しつつある。右曲がりの東京見聞録!
576ページ、図版点数1300点、取材箇所108ヶ所!

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東京スナック飲みある記
ママさんボトル入ります!

東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。
酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう、場末のミルキーウェイ。 東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。 チドリ足でお付き合いください!

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