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バックナンバー:2018年02月14日 配信号 収録

movie 桃色の罠――日本成人映画再考 01

日本の成人映画をたどるとき、いつも参考にさせてもらったのが鈴木義昭さんの一連の著作だった。長らく一方的な愛読者だったのが、ひょんなきっかけでお会いできて、それから「なにか成人映画を振り返る企画をやりたいですね」と折に触れて語っていたのが、とうとう実現できることになった。これからほぼ1年間、毎月1回のペースで、日本成人映画史研究の第一人者・鈴木義昭さんによる「成人映画再考」をお届けする。メールマガジンの特性をいかして、貴重な画像や動画資料も交えてお届けする、これまでほとんど顧みられることのなかった「もうひとつの近代日本映画史」。じっくりお付き合いいただきたい。

「色じかけ」と芦原しのぶ

文:鈴木義昭


 それは、一本のフィルムの数奇な運命から始まった……。上映されたフィルムには、男と女の物語があった。
 『色じかけ』 南部泰三監督/芦原しのぶ主演 (高千穂映画プロダクション製作・1965年公開)

 老紳士は、まるで風に吹かれたようにふらりと神戸の街にやって来た。
 「近々、お伺いしますから、よろしくお願いしますね」
 老紳士から、姿を見せる数日前に簡単で丁寧な電話があったのを記憶していると、神戸映画資料館の安井館長は言うのだった。
 「そいで、いきなりフィルムをご自分でぶら下げてやって来られたんや」(安井館長)
 新幹線のやや長いトンネルを抜けた山裾にある新神戸の駅から、そのまままっすぐに長田区の神戸映画資料館まで来られたのだろう。16ミリフィルムだから、持ち手も付いた四角いケースに収納された状態で持ち運ぶことも出来るが、老人の一人旅では重い荷物には違ない。新神戸駅からタクシーで来られたのか、電車か地下鉄に乗り継いで新長田駅で下車し、駅前からは神戸映画資料館を目指して歩いて来られたのか、今となっては定かではない。
 16ミリフィルムは年配者でも持ち運べるほど軽量と言えば軽量だが、重いと言えば重いと言えなくもない微妙な重量である。これが、全国の映画館などで一般的に上映されて来た35ミリ劇場用フィルムとなれば、事はそう簡単にはいかない。アルミ缶に入れられたフィルムは何巻にもわたり、とてもとても老人が一人で運べるものではない。大きな布製の袋にまとめられて、全国の映画館を上映日程に沿って運搬されていくものだからだ。
 フィルムを持った老紳士が新幹線に乗れたのは、16ミリフィルムだったからである。
 35ミリの劇場用フィルムは、製作・配給会社などの指示で各倉庫から出発し、各地各劇場で映写され、その上映期間が終われば配給会社や製作会社の倉庫にまた戻って行くもの。
 16ミリは、また別の用途に開発され、よりコンパクトになったフィルムだから、映写機もフィルムの形態も大掛かりで本格的な35ミリとは異なっている。いや、フィルムの話に深入りしてしまうと長くなる……。
 老紳士が、たった一人で16ミリフィルを神戸まで急に持って来る気になられたのかを、徐々に話してみたい。
 館長との電話で、老紳士は語ったらしい。
 「そちらは、日本有数のフィルムライブラリーと聞いていますが。所謂成人映画、ピンク映画も保存しておられると聞きましてね。私、ぜひ、そちらに寄贈をしたい、お預けして保存をしていただきたいフィルムを持っているんですけれど。これは、どこにもないものです。どうでしょう、フィルムを受け取っていただけるのならば、これからすぐにでも自分で持って伺いたいと思います。16ミリですから、郵送で送るよりもその方がずっと安全で安心です」
 そう言って、電話を切られてから数日後、神戸映画資料館まで、老紳士は辿り着かれた。
 神戸映画資料館には、資料を読んだり映画の休憩時間にお茶の飲めるロビィ兼ティールームがある。テーブルのひとつに腰を下ろし、汗を拭ってから、出されたコーヒーを飲んで落ち着くと、紳士は静かに語り始めた。
 「実はね、この映画、私の妻が主演をしているんですよ」
 「はあ……」
 「あるフィルムレンタル会社の倉庫に眠っていたのを、特別にプリントしていただいたんです。自分では、映写機がないから見れませんから、それをさらにDVDにしてもらい自宅で観ています。フィルムは、どこかで保存をしていただきたいと考えましてね」
 「なるほど。ウチで良かったら、預かりましょうか。たまに上映もさせてもらいますよ」
 「ぜひ、お願いします」
 安井館長と老紳士の会話は、だいたいそんなものだったと思われるが、現場にいた訳ではなく又聞きなのでアバウトだ。おそらくこんな実際的な会話をして、紳士は神戸映画資料館を後にしたのではなかろうか。

 老紳士とは、永山弓弦(ゆづる)さん。
 本メルマガの購読者ならば、ご記憶の人もあるかもしれない。ロードサイダーズ・ウィークリー103号~104号「ハダカの純心――あるストリッパーと医者の物語」にご登場されていた永山さん、その人である。
 話は、上映中のフイルムを逆回転するように遡る。まるで大林宜彦の映画などにあるような、あんな巻き戻しのコマ送り逆回転を想像願いたい。紳士が、なぜ神戸まで来たのかを追体験していただこう。大林映画にはありがちな、上映中に映写機が不調を起こして、所々つっかえたり早送りになったりという感じではあるのだが……。


発見された『色じかけ』公開時ポスター、右は主演の芦原しのぶ部分を拡大

 永山さんがぶら下げてきたフィルムの映画のタイトルは、『色じかけ』である。1965年(昭和40年)1月に、全国公開された劇映画だ。
 ただ全国公開とは言っても、松竹や東宝といったメジャー配給会社のマーケットで公開された作品とは趣を異にしている。
 当時、高度経済成長下、娯楽の王様だった映画館は全国津々浦々にまで建てられた。急激に量産されて映画製作本数も増加したが間に合わず、業績不振となり倒産した新東宝撮影所などの影響もあって、独立系プロダクションによる映画製作が本格的に始まりつつあった。
 都市部では独立プロ系のピンク映画専門館も次々にできたが、地方では大手作品とも混在して掛けられた独立プロ系娯楽作品。その一本が、本作『色じかけ』である。
 テレビや他の娯楽に対抗する為に、刺激的な映像や題材を取り上げて作られた所謂「成人映画」「ピンク映画」に分類される作品だ。上映時間は75分と、三本立て四本立て興行を前提に作られた為に短い。出演キャストも、大手の撮影所には属さない女優や俳優で作られている。出演には、主演の芦原しのぶほか田口勝則、細川直也、朝霧待子など、若い人にはちんぷんかんぷんの名前が並ぶ。若い人だけでなく、僕ら年配の映画研究者でもあまり聞かない名が並ぶから、有名俳優だった者はなく、演劇経験者や浅草近辺の芸人や役者たちが集められ、編成されたキャストではなかったかと類推される。
 こうした「成人映画」「ピンク映画」、さらに呼び名をつけるなら「桃色映画」ともいうべき映画が、戦後の高度成長期に量産された背景は、またいずれお話しするとして……。

 本作は、今日観るならどこがどういう具合に刺激的なのかと訝しがる向きもあるだろうが、当時の成人指定映画、所謂「成人映画」なのである。十八歳未満は入場不可、観覧不可の作品として本作を「成人指定」にしたのは、映画倫理管理委員会。本作『色じかけ』の指定理由を、公式文書から引いてみよう。

浮気な夫を殺させようとして、妻が未亡人といつわりタクシーの運転手を色じかけでたらし込み、保険サギをやり損なう話しであるが、青少年には不向きな世界の話しですので、成人映画に指定します。
(映画管理委員会「映画選定一覧」より)

 要するに、物語が反社会的で子供達には見せられないというのだ。まだ「成人映画」とは言えども、「乳房」も「お尻」もはっきりとは露出しない、ごく穏やかな性表現の時代だった。だから、今日のピンク・ポルノ映画やアダルトビデオを想ったら、全く肩透かしを食う映画であることは確かである。

 永山弓弦さんは、七年前に妻に先立たれてから、妻がかつて出ていたというピンク映画のフィルムを捜し歩き、亡き妻の面影を追い求めてきたというのだ。永山さんが、このフィルムをとあるレンタルフィルム会社から一本だけ譲り受けたのは、「妻が主演している映画」だからということに尽きる。
 神戸映画資料館の他には誰もいないロビィで、さまざまな苦労の末に、このフィルムを探し当てたまでを淡々と話す永山さんを、安井館長は目を丸くしてじっと聞くばかりだったに違いない。
 それから少し後のこと、筆者である僕のところに連絡してきてくれた安井館長が言われた言葉(正確にはメールだが)を想い出した。
 「わしらがやって来たのも、間違いじゃなかったね。こうしてフィルムを持って来てくれる人が出てきたんやから。だんだん人にも知られるようになったんかな……」
 そう言いながら館長は、ニコニコと笑ったように想像している。

 ところで、そもそも本メルマガの都築編集長と永山弓弦さんとの出会いは、都築さんが自前のネットの古書店に出していた「成人映画の資料集」を、永山さんが購入されたのがきっかけだったということである。
 「亡き妻が成人映画に出ていたので、その資料を探しています」
 そう言われた永山さんに興味を持たれた都築さんと、永山さんの交流が始まったのが2014年。今から4年前のことである。


永山弓弦さん、小岩の自宅にて


「エロチシズム映画第5集 風俗映画集大成 邦画五社・独立プロ篇」(新風出版・1967年発行)より『色じかけ』紹介ページ。永山さんに都築さんが譲った書籍である。

 永山さんのライフヒストリーは、前記の記事に詳しく書かれてある。永山さん自身による文章だ。
 もともと医者の息子に生まれた永山さんは、父親にレールを引かれるままに子供の頃から医者になるつもりだった。だが、射撃、レース、カメラ、ゴルフと多趣味な人でもあった。日大医学部在学中には、射撃部を作りライフル競技の世界選手権にも出場している。
 海外を飛び回る小遣い稼ぎにやっていたのはファンションモデル。ミッキー・カーチスらと日本最初のレーシングチームを作ったこともあるそうだ。前出の記事には、麻生太郎元副総理と一緒の写真も掲載されている。


ファッションモデル時代 射撃の名手らしくライフルを構える

 まさに華麗なる経歴の持ち主で、まるで大藪春彦の小説にでも出てくるようなクールな青年だったのではないだろうか。
 時は、高度経済成長。東京・下町の鼻たれ小僧だった僕には想像もつかないため息のでるような青春を、永山青年は送られている。
 そんな永山さんが、4歳年上の奥様と出会われたのは、26歳の時のことだった。
 1964年というから、日本社会が高度成長を突っ走る真っ只中の出来事になる。永山青年が、たまにしか行かない田舎の御先祖の墓参りに行かれた帰りのことだった。ふと一人で遊んで帰る気になった永山青年は、北の港町のキャバレーに入った。
 店内のステージでは、華やかなショーが繰り広げられていた。なにげなく空いている席に座った永山さんは、ステージから熱い視線が注がれたのには気づかなかった。
 艶やかに踊るフロアダンサーの一人が、後に奥様になる女性だった。彼女のダンサー名は、芦原しのぶ。出会う数年前からストリッパーとして、浅草を根城に全国を回っていた。




ダンサー時代の芦原しのぶさん。日舞を得意としたが、洋舞もまた華麗なダンスでファンを魅了した。

 ステージの後、彼女は永山さんに声をかけて来た。舞台から見ると客席は全て見えた。後になって、好みの男に声をかけただけだと芦原しのぶは言った。その夜は、少し話して別れたが、翌日、若い踊子と3人でドライブに出かけた。次の土曜日には、東京の後楽園遊園地で会う約束をした。
 きっと来ないと思った彼女は、時刻どおりに待ち合わせ場所にやって来た。食事を楽しみ、千駄ヶ谷のホテルで二人は結ばれた……。
 出会いから数カ月後、二人は木造2階建てのアパートの彼女の部屋で暮らし始める。家賃7千円の風呂なしアパートだった。
 将来を約束された有望な青年と年上のストリッパーとの恋は、困難が待っていた。青年は、父親から「付き合うのは構わないが結婚はさせない」と言われ、勘当されてしまう。
 芦原しのぶは、ストリッパーの世界では徹底して本当の名前と顔を隠していた。彼女が本来求めていた将来図の為に硬い決心があったからだった。彼女は好んでストリッパーになったのではなかったのだ。彼女が踊子の道を選んだのは、昭和20年代の後半。身内に病人のいる女性が、少しでも良い給料を得るためには水商売で働くか、やっと始まったばかりのトルコ風呂に身を売るか、流行り出したストリップ劇場で踊るぐらいしか選択肢はない時代だった。
 女性が働く職場など、本当に限られていた。元来芸事が好きで日舞では名取りの免状も持ち、洋舞の経験もある彼女がストリッパーになったのは、普通に考えれば、当たり前のことだった。


ダンサー時代は全国を回った。巡業先の沖縄で、ふと見せた寝顔。

 前後篇に亘る永山さんの回想記の文章で、強く印象に残ったところがある。
 「踊り子と一緒にはなったが、別にストリップが好きだったわけではないので、時間があるときに仕事の送り迎えはするものの、舞台は見ずに、終わって出てくるまで車で待っていた。自分の彼女が裸になっていくのを見るのは気恥ずかしく、好きではなかった。ただ、お客さんが血眼で見ようとしているものを、近くから自由に見られるという変な優越感はあった。これは多くの踊り子さんの彼氏が同意見だった」
 二人の恋が純粋で、どこにでもあるような男女のつつましやかなものだったことを物語る、永山さんの飾り気のない思いの丈ではなかったろうか。世代は少し上のカップルにはなるが、それは、70年頃の流行の言葉で言えば「同棲時代」そのものだったろう。
 二人が晴れて結婚できるのは、永山弓弦と芦原しのぶが付き合い出して7年目のことだ。それまで頑なだった永山さんの父親もとうとう折れ、結婚を認めたのだ。その後、永山さんは耳鼻科の開業医として東京・江戸川区で病院を開き、妻はそれを支え続けた……。


結婚式の永山弓弦さんと芦原しのぶさん

 神戸映画資料館のロビィで、映写の合間を縫って席に着いた館長を相手に、永山さんの話はなかなか終わらなかった。
 それは、都築さんに取材の時に話したことともほとんど同じだったかもしれない。
 都築さんは、取材の時の永山さんの言葉を書いている。
 「私は医者なんですが、女房がもとストリッパーをやってまして、成人映画にも6本ほど出ていたんですね。当時のことは生前にちゃんと聞いたことがなくて、それが急に死んでしまったものですから、寂しくて彼女の生きてきた痕跡を探すようになったんです。でも、なにしろ50年以上前のことですから、なかなか資料が見つからなくて。映画も成人映画でしたから、DVDにもなっていないんです…」
 永山さんの妻、いや人気ストリッパーだった芦原しのぶさんが亡くなったのは、2007年。たまたま受けた検査で肺癌が見つかり、半年後には亡くなっていた。
 あまりに急なことに茫然自失の日々が続いたと、永山さんは文章に書いた。二人の子供を育て、楽しい老後が始まろうとした矢先のことだった。担当医師の言うままに抗がん剤や放射線治療を施したが、発見が遅れたのか、あっという間だった。進行性の癌としても急なことで、亡き妻に思いも悔いも残るのは無理からぬことだ。


永山夫人(芦原しのぶさん)の遺影

 妻が亡くなってからというもの、永山さんは、妻の面影を追い、それまで妻がほとんど語ることのなかったストリッパー時代のことに興味を持ち始める。彼女の生きた痕跡が、若い日の美しいままの彼女が、この世のどこかに残っているのではないかという思いにとらわれたのだ。あの日に帰りたい、そう永山さんが思っても不思議ではない。
 妻の面影を追い求める毎日の中で、多くの資料や人に会ったようだ。
 ある時、都築響一さんから「ピンク映画のことなら、映画ライターの鈴木義昭に聞いてみたら?」と言われたようである。
 実はまず最初に都築さんから僕に連絡があり、続けて永山さんが電話をして来られた。「妻が出たピンク映画について、いろいろ調べているので、ぜひ力を貸して欲しい」という問いかけだった。

 映画探偵よろしく、噂には聞いたことのあるフィルム、どこかで誰かが見たという記憶が遺っているフィルム、幾種類かの記録上には残っているが今ではどこにもないのではないかと考えられているフィルム、そんな都市伝説のようなフィルムを捜索して歩くのが、いつのまにか僕の仕事のひとつになってしまった。
 35年前に出版した『ピンク映画水滸伝・その二十年史』以来、ピンク映画のオーラルヒストリーを訪ね歩き、書き継ぐのは、僕の大きなテーマになった。当時、20年の歴史と言われたピンク映画は、今では半世紀を超える。異端で底辺の映画史として、日本映画をいつも下から支え続けてきた世界である。
 電話やメールで、永山さんからの質問が相次いだ。資料やフィルムの在りかを聞かれるだけでなく、カメラマンや監督の名を上げて消息を聞かれたこともある。その人たちならば、当時の「芦原しのぶ」を知っていると考えたのかもしれない。ほとんどが亡くなっているか消息不明の人だった。
 ピンク映画関係者、映画探偵仲間とともに質問に何度かお答えしているが、自分としてはそれほどお役に立ったとは思えない。
 ストリップ・ダンサーだった彼女、永山さんの妻となった芦原しのぶが、ダンサー時代に映画に出ていたのはごく数本に限られている。
 多くがストリップ・ダンサーとしての出演であったが、女優としての劇映画への出演もほんの数本あった。しかし、それは資料上で判明したことであり、実際のフィルムの所在というと見当もつかなかった。
 「いやあ、観るのは難しいんじゃないですか」としか、僕には応えられなかったのである。

 ダンサーとして何本かの映画に出ているのは、既に永山さんは早くから突き止めていた。
 彼女が第一線のダンサーとして活躍した時代は、戦後のヌードダンス全盛期である。欧米のフロアショーを模倣し、浅草だけでなく赤坂や六本木、果ては全国の盛り場にグランドキャバレーやショーのある大型店が乱立して華やかさを競っていた。それらのショー・ステージをカメラで撮影し、全国の映画館で上映した「ショー映画」と呼ばれた短篇(15分~20分)、中篇(60分弱)の作品があったのをご存知だろうか。
 高いお金を出してショーのある店に行けない人、文芸映画とお笑い映画の合間に、ちょっとしたエロチック気分を味わいたい人に受けたのか、特に地方の映画館では引っ張りだこの人気だった聞いている。
 永山さんは、今となっては目に焼き付いて離れない妻のステージが、急にもう一度見たくなったのかもしれない。
 芦原しのぶ出演映画を探すため、永山さんは、まずは「ショー映画」の資料を新聞の切り抜きや雑誌から捜索したらしい。ダンサー・芦原しのぶのステージの出演記録を丹念に追う過程で、どこでどんな映画が撮られていたかが少しづつ判明していった。
そして、とうとう追いつめたのだった。


ショー映画『裸の誕生』 (宝映製作・1959年9月公開) 左上のダンサーが芦原しのぶではないかと推測している


ポスターのキャスト上段左に「芦原しのぶ」の名前が確認できた!

 芦原しのぶが、『裸の誕生』(1959年9月公開/宝映製作)という当時の人気ショー映画に出ていることが判った。当時の人気ダンサーたちが大挙出演したヌード・バラエティとも言える作品だった。ステージが何幕かのバリエーションで展開して行き、そのうちの一場に踊りの上手い芦原しのぶのソロシーンがあるのではないかと想われる。懐かしい妻のダンスを、あの切れの良い踊りをもう一度見たい、観れるかもしれないと永山さんは思ったことだろう。
 でも、そのフィルムそのものの今日の現存となると、どこのフィルム倉庫にも存在は見当たらなかった。より詳細な内容となると、皆目見当がつかなかった。


『裸の誕生』プレスシート。当時、映画館の正面ウィンドウや館内ロビィには上映中のプレスシートが貼り出されていた

 実はもう一本、永山さんは知らなかった、僕らが調べて確認できた映画があった。ぜひ観てみたいショー映画があった。1963年の正月公開で高木丈夫監督(プロデューサー本木荘二郎の監督名)の二本目の劇映画作品で、新東宝撮影所出身で歌手でもあった左京未知子が主演した『不貞母娘』(Gプロ/国新映画)と同時上映された15分のショー映画『女が泣く夜』(Gプロ/国新映画)に、ダンサー・芦原しのぶが出演していたのだ。こちらは短篇のショー映画だが、これにも確実に芦原しのぶのソロダンスがあるものと推測できた。踊りは、おそらく洋舞であろうが、内容はわからない。
 資料上では、これも高木丈夫による監督作品とあるから、『七人の侍』など黒澤明作品の名プロデューサーとして知られた本木荘二郎が、東宝撮影所を追われピンク映画の監督に転じる始まりに量産したといわれている多くのショー映画の一本だったろうか。高木丈夫(本木荘二郎)のショー映画は、まだ一本も発見できていないから、その代表作の一本に芦原しのぶが出演して踊っているというのは大変興味深かった。
 高木丈夫いや本木荘二郎については、いずれ詳しく語る機会もあるだろうが、よろしければ拙著『「世界のクロサワ」をプロデュースした男・本木荘二郎』(山川出版社)をお読みいただきたい。
 今では記録も残っていない海賊版的なショー映画も多かったと思われる時代に、複数の資料で確認できるようなショー映画の有名作品に出演しているということからも、「芦原しのぶ」が当時ヌードダンス界ではトップダンサーの一人だったというのが判る。そのステージを観てみたいと、僕も思った。
 神戸映画資料館のライブラリーにも、何本かのショー映画が保存されている。しかし、かつて作られたと考えられるフィルムの絶対量からすれば、あまりに微々たるものでしかないが。
 文献上の記録だけは作品タイトルや時間数などが判明しているものも多いが、フィルムそのものとなると「ショー映画」のほとんどが現存を確認できないのだ。


「ピンク映画」の始祖の一人といわれる本木荘二郎=高木丈夫監督の2本目の劇映画『不貞母娘』(Gプロ製作・1963年1月公開)と同時に公開されたショー映画『女が泣く夜』に芦原しのぶは出ていた。


「3本立て」公開用のポスターの右下『女が泣く夜』のキャストに「芦原しのぶ」の名前が確認できる!

 『色じかけ』という名のフィルムを、永山さんが神戸映画資料館に持って来られてから、半年も経たないある日、僕の携帯電話が突然に鳴った。地元の駅のホームで電車を待っていた、静かな朝だった。
 電話の向こうの声は女性で、こう告げられた。
 「永山弓弦が亡くなりまして、父の携帯に残っている電話番号に順番に掛けているのですが……」
 僕はビックリして、「はい」とか「そうですか」とか言うしかなかった……。
 老紳士は亡くなり、神戸にフィルムだけが遺った。
 まさか、と思った。永山さんは自分の死期を知り、神戸にフィルムを自分で持って来たのではなかったか。
 フィルムと二人、最後の旅を楽しむように。フィルムの中の若い日の妻と並んで列車の席に座り、車窓を眺める。やがて、六甲の麓の駅に着き、神戸の街を二人で散歩するように、長田区までやって来たのではないのか。
 フィルムの中の芦原しのぶは、二人が北の街のキャバレーで出会った頃のままだった。映画『色じかけ』が撮影された年と、永山さんが彼女と出会う時期とがほとんど同じなのだから。きっと初めて『色じかけ』を一人で観た永山さんは、そのことに衝撃を受けたろう。
 もしかして、本当にもしかして、芦原しのぶは、映画『色じかけ』の脚本を貰い、ちょっと映画出演のリハーサルのつもりで北の港町で見かけた男性に声をかけたのかもしれなかった。あるいは、映画出演後、ふと映画で演じた主人公と同じように気に入った男性に声をかけてみたくなったのではなかったか。

 ある日、そんな空想が僕の頭の中を過った。

 神戸映画資料館で、『色じかけ』が映写機に掛けられたのは昨年秋のことだった。
 客席数は50席にも満たないミニシアターだが、関西では有数の注目されるプログラムを組むことで知られている。資料館という名の通り、フィルム・アーカイヴとしても日本有数のコレクションと機能を有している。
 東京・京橋の国立近代美術館フィルムセンターが日本のフィルム・アーカイヴの中心拠点とすれば、それに次ぐ規模とコレクションを有するのが神戸映画資料館だ。いわば東京のフィルムセンターに対する西の拠点という雰囲気もある。全国には、さまざまなフィルム・アーカイヴ、映画博物館などもあるが、神戸映画資料館ほど個性的で着実な活動をしている場所は他にない。それを館長ほか数名のスタッフで運営しているから、驚きという他に言葉は見つからない。


フィルムの中の芦原しのぶと永山さんは、まるでデートするように神戸の街を歩いた。新長田駅に降り立ち、駅近くの「鉄人28号」(原寸大)のある広場にも立ち寄ったか。


「二人」は歩いてきて、大正商店街に出た。左のビル「アスタくにづか1番館北棟」の2階に神戸映画資料館が見えた。


神戸映画資料館正面、映画のポスターが見える。「着いたよ」と永山さんはフィルムに語りかけたか。


神戸映画資料館館内ロビィ。映画書籍や資料の中に喫茶室がある。安井館長を相手に永山さんの話は終わらなかった。


神戸映画資料館館内のスクリーンと座席。『色じかけ』は、昨年(2017年)10月22日に一度だけ上映された。

 その『色じかけ』の16ミリフィルムは、プリント後、初めてスクリーンに映写されたように、極めて状態の良いものだった。満席とまではいかないが、八割方が入った入場者が見つめたスクリーンには、男女の恋愛劇が白黒の画面で映し出された。
 叙情的でセンチメンタルなメロドラマと感じた人もいるかもしれない。映し出された人物、風景、場所、物語が、どれをとっても今の映画とは違うと感じた人もいたろう。違和感とは違う妙な懐かしさを感じる映画だった。
 上映は、一昨年にも行われた「映画史のミッシングリンクを追え!」という特集上映の一環であったが、フィルム寄贈者の永山弓弦さんと主演の芦原しのぶの二人の遅ればせながらの追悼上映に他ならなかった。
 上映された『色じかけ』から、観客たちは、昭和の時代の掛け替えのない純愛とピュアな想い出を感じ取ることができたに違いない。


『色じかけ』プレスシート 裏表 当時のピンク映画専門館では、観客らは休憩時間に壁に貼られた「プレスシート」を見て過ごした。


プレスシートより「芦原しのぶ」の拡大

 『色じかけ』について、もう少しだけ説明しておこう。
 製作したのは、高千穂映画プロダクション。「高千穂映画」というのは、いかにも意味ありげな名前だが、かつて中国大陸の満州にその名を轟かせた満州映画協会即ち「満映」に所属したこともあった南部泰三監督が、大陸から帰国後の1949年に立ち上げたプロダクションの名前だ。
 南部泰三(本名松角知己男)は、長崎県諫早の生まれで、高千穂高等商業を卒業すると同時に新国劇の理事だった叔父の紹介で、大都映画の監督部に入社。映画修業を積みながら、国策文化映画『国民強歩行軍譜・歩け歩け』(昭和15年・毎日新聞社製作)で監督デビューを果たしている。
 高千穂映画では当初、記録映画、PR映画、劇映画など各種の映画を撮っていたが、64年頃から求められるままに「成人映画」も撮り始めている。『女体難破船』『殺された女』『悶える女子学生』『血だらけの乳房』(以上1964年公開)『ただれた愛欲』『陰獣』『処女無残』(以上1965年公開)『獣の欲望』『赤い河』(66年公開)など、66年までの三年間に14本の成人映画を撮った。後年は、第8芸術プロなどプロダクション名も変えたようだ。


『ただれた愛欲』 南部泰三監督/朝日陽子主演(第8芸術映画プロダクション製作・1965年1月公開) 九重京司(上)と朝日陽子(下)
以下2点、同『ただれた愛欲』ロビィ掲載用スチール写真


旅館で働く娘たちは、夜は雑魚寝のような暮らし。寝相の悪い娘も


旅館の主人の娘は番頭の毒牙にかかり転落していった


『悶える女子学生』 南部泰三監督/原礼子主演 (高千穂映画プロダクション製作・1964年10月公開) 女子学生が脱いでいくシーンは生々しかった

以下2点、同『悶える女子学生』ロビィ掲載用スチール写真

愛欲に身を任せ女の身体は男を求めた


混血児と混血娘の悲恋が描かれる

 『色じかけ』は、南部の6本目の成人映画作品で65年の1月に正月作品として公開されている。正月作品ということもあり、手を抜かずに力を入れて撮ったとのではないかとも思う。作品のデキは決して悪くない。しかし若手監督の台頭と、撮りたくて成人映画を撮ったというのではなかったらしく、以後はこの種のピンク映画作品を撮ってはいない。1965年には、東南アジア向けに映画・テレビ製作のスタッフやタレントの養成機関「第8芸術集団」なる事務所も設立した。60歳頃までは映像関係の演出を手掛けていたことは知られているが、その後の消息は不明とされている。初期の成人映画監督がそうであったように、東南アジア向けの仕事もしていたことから、台湾にでも渡って映画作りを続けたのではないかというのは自分の勝手な推理である。
 『色じかけ』の脚本は、松竹演劇部出身の糸文弘。彼も、脚本だけでなく当時の「ピンク映画」で何本か監督もしている。あるフィルム倉庫に彼の監督作品が眠っているのが知られているが、まだ近年、それを観たものはない。


『色じかけ』、タイトルバックから1960年代の東京の風景が


扇情的なカットにキャスト名が並ぶ


タクシー運転手・竹内の顔に監督名が

 神戸映画資料館のスクリーンには、昭和の東京を舞台にした男女の物語が映し出された。
 芦原しのぶが演じる永子は、和服姿の人妻である。たまたま乗ったタクシーの運転手・竹内を気に入り、温泉街まで車を走らせる。そのまま、彼を誘った。こんこんとつきぬ情熱、餅肌の美しさに竹内は永子を忘れられなくなる。


誘われるままに旅館に入った竹内と永子(芦原しのぶ)


情事は深く果てしなく……


夫の間山には愛人がいた

 永子の夫・間山泰三には、二号がいた。それを憎んだ永子は、夫を殺して、その生命保険を奪おうと企んだのだ。その為に、竹内を誘惑したのである。そうとは知らない竹内は、永子が彼の訪問を嫌がるどころか、『あたし寂しいの……』と、竹内の手をあらぬところに導くことに興奮した。ひとしきりソファの上での行為がつづいたあと、永子は『お願いがあるの……』と切り出した……。


 製作された当初の35ミリではなく16ミリに『色じかけ』が変換されていたのは、古くからある、そのレンタル会社が大手の映画会社が作った『鞍馬天狗』や『男はつらいよ』ばかりではなく、成人映画にも需要があると見込み、当時35ミリから16ミリに作り直してレンタルフィルムとして商品化していたからだ。そんなフィルムが、今日までそのレンタル会社の倉庫に保存されていたのだ。

 工場やオフィスがオフの日だったかもしれない。あるいは、社員総出で出かけた温泉旅行の夜だったかもしれない。会社の運動会が雨で中止になり、急きょ始まった上映会だったかもしれない。さまざまな場所と時間で『色じかけ』は、『男はつらいよ』や『ゼロの焦点』と一緒に上映されたのかもしれない。レンタル会社の企業やサークル向けと称する「フィルム・リスト」には多くの今ではほとんど見られなくなった初期ピンク映画の作品名が載っている。はたして、『色じかけ』はどれくらい稼働したのだろう。どんな人が観たのだろう?
 そんなことを想像していると、映画フィルムをめぐる環境が、今では昔とまさしく激変してしまったことに思いを馳せずにはいられない。
 フィルムの時代は終わったのか。映像環境のデジタル化により、日本中から多くの「桃色フィルム」が消えはじめている。その昔、昭和高度成長期の男どもの欲望を掻き立てた「ピンク映画」も、昔ブルーフィルムがビデオに取って変ったように、文化や風俗の表舞台から消え行く運命にある。
 昭和の時代を彩り一世を風靡した桃色フィルムの多くは、最早この世から失われてしまった。古くなり、ジャンクされ、捨てられたからだ。新作のピンク映画は、全てデジタルビデオで撮られる時代である。
 懐かしくも熱き想い出となって、男たちの夢の中にだけ桃色映画は遺っているようだ。瞼の裏の記憶を静かにまさぐるように、桃色フィルムの発掘ができたらいいではないかと思っている。
 それは、永山弓弦さんが妻の出演したフィルムをたった一人で捜し当てたように、一人の人間の熱い思いがあってこそ可能なことかもしれない。人の熱い思いだけが、映写機にフィルムを掛け、回転させることができるのではないかと、今はただ、ロマンチックに思い描いている。


『色じかけ』 芦原しのぶのダンサーらしい美脚

資料提供、協力:神戸映画資料館、東舎利樹


『悶える女子学生』より

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BOOKS

ROADSIDE LIBRARY
天野裕氏 写真集『わたしたちがいたところ』
(PDFフォーマット)

ロードサイダーズではおなじみの写真家・天野裕氏による初の電子書籍。というか印刷版を含めて初めて一般に販売される作品集です。

本書は、定価10万円(税込み11万円)というかなり高価な一冊です。そして『わたしたちがいたところ』は完成された書籍ではなく、開かれた電子書籍です。購入していただいたあと、いまも旅を続けながら写真を撮り続ける天野裕氏のもとに新作が貯まった時点で、それを「2024年度の追加作品集」のようなかたちで、ご指定のメールアドレスまで送らせていただきます。

旅するごとに、だれかと出会いシャッターを押すごとに、読者のみなさんと一緒に拡がりつづける時間と空間の痕跡、残香、傷痕……そんなふうに『わたしたちがいたところ』とお付き合いいただけたらと願っています。

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ROADSIDE LIBRARY vol.006
BED SIDE MUSIC――めくるめくお色気レコジャケ宇宙(PDFフォーマット)

稀代のレコード・コレクターでもある山口‘Gucci’佳宏氏が長年収集してきた、「お色気たっぷりのレコードジャケットに収められた和製インストルメンタル・ミュージック」という、キワモノ中のキワモノ・コレクション。

1960年代から70年代初期にかけて各レコード会社から無数にリリースされ、いつのまにか跡形もなく消えてしまった、「夜のムードを高める」ためのインスト・レコードという音楽ジャンルがあった。アルバム、シングル盤あわせて855枚! その表ジャケットはもちろん、裏ジャケ、表裏見開き(けっこうダブルジャケット仕様が多かった)、さらには歌詞・解説カードにオマケポスターまで、とにかくあるものすべてを撮影。画像数2660カットという、印刷本ではぜったいに不可能なコンプリート・アーカイブです!

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ROADSIDE LIBRARY vol.005
渋谷残酷劇場(PDFフォーマット)

プロのアーティストではなく、シロウトの手になる、だからこそ純粋な思いがこめられた血みどろの彫刻群。

これまでのロードサイド・ライブラリーと同じくPDF形式で全289ページ(833MB)。展覧会ではコラージュした壁画として展示した、もとの写真280点以上を高解像度で収録。もちろんコピープロテクトなし! そして同じく会場で常時上映中の日本、台湾、タイの動画3本も完全収録しています。DVD-R版については、最近ではもはや家にDVDスロットつきのパソコンがない!というかたもいらっしゃると思うので、パッケージ内には全内容をダウンロードできるQRコードも入れてます。

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ROADSIDE LIBRARY vol.004
TOKYO STYLE(PDFフォーマット)

書籍版では掲載できなかった別カットもほとんどすべて収録してあるので、これは我が家のフィルム収納箱そのものと言ってもいい

電子書籍版『TOKYO STYLE』の最大の特徴は「拡大」にある。キーボードで、あるいは指先でズームアップしてもらえれば、机の上のカセットテープの曲目リストや、本棚に詰め込まれた本の題名もかなりの確度で読み取ることができる。他人の生活を覗き見する楽しみが『TOKYO STYLE』の本質だとすれば、電書版の「拡大」とはその密やかな楽しみを倍加させる「覗き込み」の快感なのだ――どんなに高価で精巧な印刷でも、本のかたちではけっして得ることのできない。

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ROADSIDE LIBRARY vol.003
おんなのアルバム キャバレー・ベラミの踊り子たち(PDFフォーマット)

伝説のグランドキャバレー・ベラミ・・・そのステージを飾った踊り子、芸人たちの写真コレクション・アルバムがついに完成!

かつて日本一の石炭積み出し港だった北九州市若松で、華やかな夜を演出したグランドキャバレー・ベラミ。元従業員寮から発掘された営業用写真、およそ1400枚をすべて高解像度スキャンして掲載しました。データサイズ・約2ギガバイト! メガ・ボリュームのダウンロード版/USB版デジタル写真集です。
ベラミ30年間の歴史をたどる調査資料も完全掲載。さらに写真と共に発掘された当時の8ミリ映像が、動画ファイルとしてご覧いただけます。昭和のキャバレー世界をビジュアルで体感できる、これ以上の画像資料はどこにもないはず! マンボ、ジャズ、ボサノバ、サイケデリック・ロック・・・お好きな音楽をBGMに流しながら、たっぷりお楽しみください。

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ROADSIDE LIBRARY vol.002
LOVE HOTEL(PDFフォーマット)

――ラブホの夢は夜ひらく

新風営法などでいま絶滅の危機に瀕しつつある、遊びごころあふれるラブホテルのインテリアを探し歩き、関東・関西エリア全28軒で撮影した73室! これは「エロの昭和スタイル」だ。もはや存在しないホテル、部屋も数多く収められた貴重なデザイン遺産資料。『秘宝館』と同じく、書籍版よりも大幅にカット数を増やし、オリジナルのフィルム版をデジタル・リマスターした高解像度データで、ディテールの拡大もお楽しみください。
円形ベッド、鏡張りの壁や天井、虹色のシャギー・カーペット・・・日本人の血と吐息を桃色に染めあげる、禁断のインテリアデザイン・エレメントのほとんどすべてが、ここにある!

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ROADSIDE LIBRARY vol.001
秘宝館(PDFフォーマット)

――秘宝よ永遠に

1993年から2015年まで、20年間以上にわたって取材してきた秘宝館。北海道から九州嬉野まで11館の写真を網羅し、書籍版では未収録のカットを大幅に加えた全777ページ、オールカラーの巨大画像資料集。
すべてのカットが拡大に耐えられるよう、777ページページで全1.8ギガのメガ・サイズ電書! 通常の電子書籍よりもはるかに高解像度のデータで、気になるディテールもクローズアップ可能です。
1990年代の撮影はフィルムだったため、今回は掲載するすべてのカットをスキャンし直した「オリジナルからのデジタル・リマスター」。これより詳しい秘宝館の本は存在しません!

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捨てられないTシャツ

70枚のTシャツと、70とおりの物語。
あなたにも〈捨てられないTシャツ〉ありませんか? あるある! と思い浮かんだあなたも、あるかなあと思ったあなたにも読んでほしい。読めば誰もが心に思い当たる「なんだか捨てられないTシャツ」を70枚集めました。そのTシャツと写真に持ち主のエピソードを添えた、今一番おシャレでイケてる(?)“Tシャツ・カタログ"であるとともに、Tシャツという現代の〈戦闘服〉をめぐる“ファッション・ノンフィクション"でもある最強の1冊。 70名それぞれのTシャツにまつわるエピソードは、時に爆笑あり、涙あり、ものすんごーい共感あり……読み出したら止まらない面白さです。

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圏外編集者

編集に「術」なんてない。
珍スポット、独居老人、地方発ヒップホップ、路傍の現代詩、カラオケスナック……。ほかのメディアとはまったく違う視点から、「なんだかわからないけど、気になってしょうがないもの」を追い続ける都築響一が、なぜ、どうやって取材し、本を作ってきたのか。人の忠告なんて聞かず、自分の好奇心だけで道なき道を歩んできた編集者の言葉。
多数決で負ける子たちが、「オトナ」になれないオトナたちが、周回遅れのトップランナーたちが、僕に本をつくらせる。
編集を入り口に、「新しいことをしたい」すべてのひとの心を撃つ一冊。

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ROADSIDE BOOKS
書評2006-2014

こころがかゆいときに読んでください
「書評2006-2014」というサブタイトルのとおり、これは僕にとって『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ』(2008年)に続く、2冊めの書評集。ほぼ80冊分の書評というか、リポートが収められていて、巻末にはこれまで出してきた自分の本の(編集を担当した作品集などは除く)、ごく短い解題もつけてみた。
このなかの1冊でも2冊でも、みなさんの「こころの奥のかゆみ」をスッとさせてくれたら本望である。

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独居老人スタイル

あえて独居老人でいること。それは老いていくこの国で生きのびるための、きわめて有効なスタイルかもしれない。16人の魅力的な独居老人たちを取材・紹介する。
たとえば20代の読者にとって、50年後の人生は想像しにくいかもしれないけれど、あるのかないのかわからない「老後」のために、いまやりたいことを我慢するほどバカらしいことはない――「年取った若者たち」から、そういうスピリットのカケラだけでも受け取ってもらえたら、なによりうれしい。

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ヒップホップの詩人たち

いちばん刺激的な音楽は路上に落ちている――。
咆哮する現代詩人の肖像。その音楽はストリートに生まれ、東京のメディアを遠く離れた場所から、先鋭的で豊かな世界を作り続けている。さあ出かけよう、日常を抜け出して、魂の叫びに耳を澄ませて――。パイオニアからアンダーグラウンド、気鋭の若手まで、ロングインタビュー&多数のリリックを収録。孤高の言葉を刻むラッパー15人のすべて。

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東京右半分

2012年、東京右傾化宣言!
この都市の、クリエイティブなパワー・バランスは、いま確実に東=右半分に移動しつつある。右曲がりの東京見聞録!
576ページ、図版点数1300点、取材箇所108ヶ所!

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東京スナック飲みある記
ママさんボトル入ります!

東京がひとつの宇宙だとすれば、スナック街はひとつの銀河系だ。
酒がこぼれ、歌が流れ、今夜もたくさんの人生がはじけるだろう、場末のミルキーウェイ。 東京23区に、23のスナック街を見つけて飲み歩く旅。 チドリ足でお付き合いください!

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